第4話 密約の終焉
それは、昨夜までの残暑が遠ざかり、秋を感じるような肌寒い日のことだった。
学校から帰宅した俺が、受験勉強前のクールタイムとしてリビングで一息ついていると、玄関の鍵が慌ただしく開く音が響いた。続いて聞こえてきたのは、切迫した荒い呼吸。
俺が胸騒ぎを覚えて玄関へ向かうと、美月が硬直していた。
「……おにい……っ」
靴を脱ぐ余裕すらない。美月は内股を固く閉じ、崩れ落ちそうな膝を必死に支えていた。顔は耳の根元まで真っ赤に染まり、額からは大粒の汗が滴っている。
彼女が頻繁に続けてきた秘密の遊びに、ついにバチが当たったのだと、その今にも泣きだしそうな瞳を見た瞬間に理解した。
「……っ、ぁ……!」
既に限界を越えていた。
俺と目が合った瞬間、彼女の緊張の糸が、音を立てて千切れた。
――じょぉぉぉぉぉぉぉぉ……ッ!!!
――バタバタバタバタ…!ビチャビチャビチャ…
静かな玄関に、すっかり聞きなれてしまった音が響き渡る。
被害を防ぐ理性が残っていたのか、崩壊がはじまるとすぐに、両足を開いて立ち尽くした。
遮るものが下着のみになったことで、学校指定の紺色のスカートから、抑えの効かなくなった奔流が勢いをつけて溢れ出し、彼女のソックスを、そして玄関タイルを、出しっぱなしにしていた俺や家族の靴まで、一瞬で妹の色に染め上げていく。
目の前で、熱を帯びながら、身体の水分が全て出ていくのではないかと思う程に、とめどなく流れ出していく。
それは、美月が兄にだけ見せてきた背徳の集大成だった。
「ちょっと、美月!? どうしたの、大丈夫!?」
遅れてリビングからやってきた母が、俺の背後で立ち尽くしていた。
母は、目の前の光景に絶句しながらも、慌てて美月に駆け寄る。
「急にどうしたの。何で我慢して帰ってくるの……」
母の心配そうな声が、玄関に響く。
美月は両足を開いたまま、手を握りしめ、肩を震わせることしかできなかった。
「ああもう……。とりあえず、お風呂に入ってきなさい。拓海、古いタオル取ってきてくれる?片付け手伝いなさい」
スカートの裾は被害を受けていた。濃い紺色に染まり、時間差で絶え間なく雫を生み出し続けている。
立ち上る、むせ返るほど濃厚で、鮮烈なアンモニアの熱気。
それが母には『遊びの失敗』ではなく『不可抗力』に見えていることが、今の俺たちには奇妙な安堵と、それ以上の背徳感をもたらしていた。
「……わかった」
俺は、逃げるようにリビングへ戻り、使い古したボロ布の束を抱えて戻った。
玄関では、母が、美月が残していった広大な汚濁の跡を、嫌な顔一つせず見つめていた。
「ほら、美月、足だけ拭いてさっさと行きなさい」
母の温かな手が、美月の震える肩に触れる。
足にまとわりつく靴下を脱ぎ、その場に放棄して、泣きじゃくりながら風呂へと去った妹。
残された俺は、母と一緒に、古いタオルを床に這わせる。タオルの乾いた繊維が、じゅわっと音を立てるかのように、妹の体温を帯びた水分を吸い上げていく。吸えば吸うほど、タオルは重くなり、隠しようのない濃厚な匂いを拡散させた。
「最近、洗濯機にすごく汚れた下着が入ってることがあって気になってたのよ。……あの子、学校で我慢しすぎなんじゃないかしら。拓海からも、後で何か言ってやって」
母のため息混じりの言葉は、どこまでも純粋で、慈愛に満ちていた。
(母さん……ごめん。俺は何も言えないんだ)
その『正しさ』が、俺の胸に泥を流し込む。
俺は、母と肩を並べ、黙々と床を拭き続けた。
手に伝わるタオルの湿り気。拭いても拭いても、玄関タイルの隙間に染み込んだ匂いは、俺たち二人だけの秘密を告発するように、いつまでもそこに留まっていた。
その夜、美月は食事もほとんど取らずに、早々に自室に引きこもっていた。
遊びの延長ではなく、本当のおもらしは、相当なショックだったのだろう。
深夜零時。寝静まった家の中で、俺のスマホが震える。
『おにいの部屋の前』
ドアを開けると、そこにはパジャマ姿で、少しだけバツが悪そうにしている美月が立っていた。
俺の胸を両手でとんっと押して部屋に促すと、美月もそっと入り、後ろ手でドアを閉める。
この間の決壊の時とちょうど逆の位置になったと、余計な思考と、あの日の情景が頭に浮かんだ。
妹が切り出した。
「……おにい……ごめん。秘密の遊びは、ほどほどにする。お母さん、本気で心配してたし。バレそう」
これまでになく、しおらしい、かぼそい謝罪の声。
「……そうしてくれ。これ以上は俺の心臓が持たない」
俺が心底安堵したように息を吐くと、美月は少しだけ唇を噛んで、俺を上目遣いに見つめた。
「……スマホの写真だけど、とっくの昔に消してるから。おにいのあんな姿、誰にも見せたくないもん」
美月は小さく笑った。俺を縛っていた鎖は、実はとっくに彼女の手で外されていたのだ。
彼女は一歩だけ俺に歩み寄り、俺の手を取ると、小指に自分の小指を絡めた。
「でも、また付き合ってね。……遊び用の下着ほしいな。……おにい、お金半分出して!」
美月の指先に残る、石鹸の香りと、その奥に微かに潜むあの独特のアンモニアの余韻がする。幻聴ならぬ、『幻臭』だろうか。
俺は、写真という脅迫が消えた今でも、自分が彼女の『実験』から逃げ出すことができないことを悟っていた。
俺は、懲りない妹に、再び溜息をつきながらも、その不潔な輝きに支配された未来を、否定しきれずにいた。




