第1話 脱衣所の遺留品
9月の夜は、まとわりつくような不快な湿気を孕んでいた。
窓の外では、細い雨がアスファルトを叩いている。自室の机に向かい、模試の過去問と格闘して熱を持った頭を冷やすように、俺、拓海はペンを置いた。
時計の針は深夜零時を回っている。家族の気配はとうに消え、自分と同じように年齢を重ねた家の中には、古びた建材がきしむ音と、遠い雨音だけが停滞していた。
『最後に入浴する人が、脱衣所の掃除と洗濯機のスイッチを入れる』
それが我が家の夜の『しんがり』に課せられた、些細だが面倒な役割だ。
普段、その役目は少し年齢の離れた妹、美月が担っている。
昔から長風呂かつ深夜まで夜更かしをして、最後にお風呂に入ることが習慣化していたからだ。
勉強に一区切りをつけ、寝る前にリビングに行って水を飲む。
歯を磨くために洗面所に入ると、いつもなら予約設定がされているはずの洗濯機に、電源が入っていないことに気づいた。
妹は、掃除もせず、スイッチも入れずに寝てしまったのだろうか。
気づいてしまったのならしょうがない、と蓋が半開きになっていた洗濯機に近づく。
(……っ!!)
酸味を帯びた、ツンとした異質な匂いが鼻を突いた。
重く停滞したアンモニアの臭気。
俺は眉をひそめ、洗濯機の中を覗き込む。逃げ場を失っていた湿った重い空気が、一気に俺の顔を打つ。臭いの元は、洗濯槽の中に、まるで投げ捨てられたかのように無造作に入っていた……美月の普段着のグレーのハーフパンツだった。
何気なく手を伸ばし、その布地に指先が触れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
(……おいおいこれは)
ハーフパンツの股間のあたりは、まるで水に浸したかのようにぐっしょりと黒く濡れそぼっている。繊維の奥までたっぷりと水分を吸い込み、持ち上げるとずっしりとした重みが指にかかる。
体温は、とうに失われていた。
そこにあるのは、粘り気のある冷たさと、指の腹にねっとりと張り付くような濡れ感だけ。
俺は、そのハーフパンツの裾を、吸い寄せられるように捲り上げた。
奥に絡まっていたのは、白い綿の下着。
俺の疑念は確信に変わった。
本来純白であるはずの布地が、中央部を中心に、真っ黄色に染まりきっている。
それはちょっとした『失敗』の跡ではなかった。
布地が許容できる限界を超え、滴り落ちるほどに全てを出し切り、それが時間をかけて冷え、定着した汚濁の跡。指を押し当てると、じわりと冷え切った液体が滲み出し、俺の指を汚していく。
「……おにい、何してるの?」
背後から響いた、低く、冷ややかな声。
心臓が跳ね、俺は濡れた下着を隠す余裕もなく、手に取ったまま振り返った。
脱衣所のドアの陰に、美月が立っていた。寝てるはずの彼女の手にはスマホが握られ、そのレンズは真っ直ぐに俺を向いていた。
「……美月、これ……。おもらし……か?」
頭に浮かんだ精一杯の俺の問いに、美月は動揺も見せず、淡々と言い返した。
「ううん……お風呂場で。わざと。……履いたままするのが、一番『くる』から」
「……わざと?」
「小学校のとき、隣の席の子が漏らしちゃうのを見て。泣きじゃくるその子とおしっこの臭い。掃除の時間、床に残ったおもらしの跡を見て……なんだか、『うらやましいな』って感じがした。自分が、あんなふうになったらどうなるんだろうって……」
美月は一歩、俺に近づいた。彼女の、風呂上がりの石鹸の香りと、俺の指先に残る『冷え切ったあの匂い』が混ざり合って漂ってくる。
「でも、学校でなんて、やったら死ぬ。見てほしいけど、見られるのは嫌。だから、家で、こっそり。……わざと履いたまま……。気持ちいいんだよ、おにい。全部出しちゃう時も、そのあとに、冷たくなっていく時も。でも、最近物足りなくなっちゃって…」
美月の指が、俺の指をなぞるように布地を押し込む。
繊維の奥から、冷たく、濁った水分が、二人の指先を繋ぐようにじわりと滲み出した。
彼女の頬は、微かに紅潮していた。兄を自分の異常な世界に引きずり込めたことへの、隠しきれない高揚感がその瞳に宿っている。
「ねえ、おにい。……どんな匂いがする?くさい? それとも……」
俺は指先に残る粘り気のある冷たさと、重く停滞した、妹の臭気に目を細めた。
「……わからない。どこか、遠い記憶にあるような、懐かしい……感じだ」
「……ふうん。おにいも、きっとこっち側なんだね」
美月は短く答え、満足げに目を伏せた。だが、すぐに冷徹な表情に戻ると、スマホの画面を俺に見せつけた。
「撮ったよ。おにいが私の下着を、じっくり観察して、指で触ってるところ。お母さんにこれ送られたくなかったら。……嫌なら、協力して。」
美月はそれだけ言うと、音もなく脱衣所を去っていった。
後に残されたのは、洗濯機の中の冷え切った汚れと、自分の右手に残る、嫌に重い、けれどどこか捨てがたい記憶に繋がる匂いだけだった。
それからしばらく経った、ある日の金曜日。
両親が法事で明日一日不在にするという話を夕食時に聞いた、その直後だった。
自室に戻った俺のスマホが、ポケットの中で短く震えた。
美月『 明日、午後おにいの部屋に行くから』
ただ、それだけ。
言い訳も、詳細も、拒絶の余地もない。
スマホの振動が、まるで彼女の指先が直接俺の肌をなぞったかのように、嫌な汗を呼び起こす。
明日、逃げ場のない家の中で、俺は彼女の『何』を見せられることになるのか。




