第三話:秘密の洗顔と仮面の男
美しさは、一日にして成らず。
前世で何度も、お客様に説いてきた言葉だ。
それはこの異世界でも変わらない。
毎日の積み重ねだけが、本物の肌を作る。
「いいですか、皆さん。絶対にゴシゴシ擦ってはダメです」
私は領館の広場で、数十人の領民女性たちに指導していた。
彼女たちの手には、私が精製したクレイソープがある。
「泡で顔を包み込むように。赤ん坊の肌を触るように、優しく、慈しんで」
女性たちは真剣な表情で、自分の顔を泡で包んでいた。
一週間前まで、泥に触れることすら嫌がっていた面々だ。
今では、鏡を見て自分の肌が明るくなる喜びに目覚めている。
「お嬢様! 泡が消えるのがもったいないくらい気持ちいいです」
「昨晩、旦那に『若返ったか』と聞かれましたわ」
あちこちから喜びの声が上がる。
彼女たちの肌は、内側から水分を蓄え、自然な艶を放ち始めていた。
「これなら、いけるわね」
私は確信した。
この石鹸は、この国の美容概念を根底から覆す。
王都の女性たちが、毒で肌をボロボロにしている間に、この領地は美の源泉となるのだ。
その時、広場の入り口に一台の質素な馬車が止まった。
行商人のものにしては、作りがしっかりしている。
中から降りてきたのは、背の高い男だった。
黒い旅装束に身を包み、顔の半分を銀色の仮面で覆っている。
広場にいた女性たちが、その異様な風体にざわめいた。
男からは、隠しきれない威圧感と、研ぎ澄まされた魔力の気配が漂っている。
男はまっすぐに私の方へと歩いてきた。
仮面の奥にある瞳は、鋭い琥珀色をしている。
「……ここが、魔法の石鹸を作っているというロゼリア領か」
低く、心地よい声だった。
私は背筋を伸ばし、貴族の礼を執る。
「左様でございます。私がこの地の責任者、イリス・ヴァン・ロゼリアです。お客様、どのようなご用件でしょうか」
「噂を聞いた。どんな傷も癒やし、肌を白く変える魔法の泥があると」
「傷を癒やすのは言い過ぎですが、肌を健やかに保つお手伝いはできますわ」
私は彼の顔をじっと観察した。
職業病というやつだ。
仮面で隠されていない方の肌は、驚くほど整っている。
だが、微かに乾燥の兆候が見えた。
そして何より、仮面の隙間から見える右頬の肌が、酷く炎症を起こしているのが分かった。
「……そこのお客様。その仮面の下、かなり痛むのではありませんか」
私の言葉に、男の空気が一瞬で凍りついた。
後ろに控えていた彼の護衛らしき男たちが、剣の柄に手をかける。
しかし、男はそれを手で制した。
「……なぜ分かる」
「私は美の専門家です。肌が助けを求めている悲鳴は、隠しても聞こえてしまいますわ」
私は一歩踏み出し、彼の目の前に立った。
男の背は高く、見上げる形になる。
だが、私の瞳に迷いはなかった。
「その傷は、単なる外傷ではありませんね。魔力の残滓が皮膚にこびりつき、慢性的な炎症を起こしています。さらに、仮面で密閉されているせいで蒸れ、細菌が繁殖しやすい状態です」
「……」
「今すぐ、その仮面を外して、私のラボへ来なさい」
それは、一介の伯爵令嬢が、正体不明の男に放つ言葉ではなかった。
だが、今の私は領主の娘ではなく、プロの技術者だ。
目の前に肌のトラブルを抱えた人がいて、放置できるはずがない。
男は呆然としたように私を見つめていた。
これほど強く、迷いなく命じられたのは初めてだったのだろう。
「……面白い女だ。俺の顔を見て、悲鳴を上げなかったのはお前が二人目だ」
「悲鳴? そんな暇があるなら、保湿の準備をしますわ」
私はくるりと背を向け、地下のラボへと歩き出した。
「お父様! 至急、最上級の精製オイルと、昨日抽出したハーブの蒸留水を持ってきてください! 深刻な患者様ですわ!」
後ろで、仮面の男が小さく笑った気配がした。
彼の名はカイザル。
後に私の人生を大きく変えることになる、隣国の皇帝その人である。
だがこの時の私は、ただ彼を「最高にやりがいのある顧客」としか認識していなかった。




