聖女召喚に巻き込まれましたが、絶対に帰りたくありません!
「ふぅ…。」
人もまばらな駅のホーム。ベンチに腰を下ろした私は、誰に聞かせるでもなく深い溜息をついた。
広告のガラスに映る自分の顔は、目の下に濃いクマをこさえたゾンビ…ではなく、巷で言うところのブラック企業に絶賛勤務中のアラサーOL。
今日は久々に早く…と言っても終電も近い時間帯だけれど…とにかく、始発まで会社に残らずに済んだというだけで、小躍りしたい気分だった。
「このまま家に帰って、あったかいお風呂に入って、カップ麺でもなんでもいいからお腹に入れて、ベッドにダイブ…。」
それが今の私にとって、最も切実で、最も輝かしい願い。
アフターファイブだとか、ワークライフバランスなんて言葉は、私にとっては桃源郷のように遠い世界の概念なのだから…。
連日の激務が、私の思考の全てを「生きる」だけに集約させる。とにかく今は、自宅が恋しい。
しかし、そのささやかな夢は、隣でスマホをいじっていた女子高生によって、思わぬ形で中断されることになる。
制服のポケットから、かわいらしいピンクのパスケースが滑り落ちるのが視界の端に映ったのだ。私は反射的に手を伸ばし、それを拾い上げた。
「あの、これ…落としましたよ。」
声をかけると、女子高生ちゃんはハッとした顔で振り返った。
「わっ、ありがとうございます! 気が付かなくて。助かりました!」
まだあどけなさが残るけれど、アイドルでも通用しそうなほど愛らしい顔立ち。印象的なクリっと大きな瞳の中に、疲れ切った私の顔が映る。
(なんてかわいい子なんだろう…! 若さって、眩しいなぁ)
私のひそかな感動には気付かず、女子高生ちゃんは恐縮した様子で深々と頭を下げた。
「はい、どうぞ。」
私がにっこり笑ってパスケースを手のひらに返した、その一瞬だった。
ゴオオオオオオッ!
突如、激しい光と轟音がすべてを包み込んだ。
全身が内側から熱くなるような、奇妙な浮遊感。何事かと見渡しても、視界は真っ白で何も見えない。
(なにこれ!? 地震? テロ?!)
思考が追いつかないまま、反射的にぎゅっと目を閉じた私が次に目にしたのは、石造りの薄暗い部屋だった。
「…え?」
中央には豪華な装飾が施された祭壇のようなものがあり、周囲では色とりどりの髪や瞳を持つ西洋風の人々が、いかにもなローブ姿でバタバタと忙しそうにしている。
そして横を見れば、先ほどパスケースを渡した女子高生ちゃんが、青ざめた顔で呆然と立ち尽くしていた。
ローブの男たちが口々に呟く声が聞こえる。
「ああ、聖女様、無事のご様子。女神に感謝を。」
「まさか、一般人まで巻き込んでしまうとは…。」
なんだかお約束な言葉が聞こえるけれど、とりあえずその辺は置いておいて…。
私は不安と戸惑いのせいか、今にも泣き出しそうな顔をしている女子高生ちゃんに声を掛けることにした。
「大丈夫?」
「っ! さっきの…! ここはどこなんですか?」
「わからないけど、きっと説明があるはずだから。まずは落ち着いて待ちましょう。」
声を掛けるまで女子高生ちゃんはパニックで周りが見えていなかったようで、目が合った瞬間に少しだけ安堵した表情を見せてくれた。
まだ周囲の人間は近寄ってくる様子がない。とりあえず女子高生ちゃんを落ち着かせるためにも、私は努めて冷静に自己紹介をした。
「私はちょっとブラックな会社に勤めるただのOLよ。あなたは?」
「…ふふ。…わたしも、ちょっと受験に追われてる普通の高校生です…。」
そう名乗ると、女子高生ちゃんは少しだけ力なく笑ってくれた。作戦成功、かな。
それから少しの間、すぐに声を掛けられるわけでもないので、現実逃避のように周囲の喧騒は気にせずに、あの場にいた経緯をお互いに語り合う。
女子高生ちゃんは受験に向けて塾で遅くまで勉強をしていたらしい。あんな時間まで大変だね、と驚いたけれど、誰もが知る難関大学を目指していると聞いて納得した。
「お話し中申し訳ない。今、よろしいだろうか。」
だんだんと緊張が解けてきた頃、周囲にいたローブ姿の中でも一番貫禄がありそうな男性、賢者様やっとこちらに話しかけてきた。
その視線は私ではなく、一直線に女子高生ちゃんに向けられている。
せっかく笑顔が戻りかけていた女子高生ちゃんは、その重々しい視線に怯え、私の後ろに隠れるように移動してしまったので、代わりに私が問いかける。
「私たちは気付いたらここにいました。ここはどこなのでしょうか。」
「ここは召喚の間。貴女は、聖女を召喚する儀式によって呼び出された異世界人です。」
聖女? 異世界?
まるで小説かゲームのような話に、一瞬頭がフリーズしたが、すぐに私の口角がピクリと上がりかけた。
(うわー、やっぱりテンプレきたー!)
不謹慎ながらも、心のどこかで非日常への期待が膨らむのを止められない。
賢者様はしわだらけの手を差し伸べる。私の後ろに隠れた、女子高生ちゃんに向けて。
「どうかこの世界をお救いください。聖女様。」
彼女は祭壇へ連れて行かれ、聖女の使命とチート能力の説明を受けることになった。しかしその表情は一向に明るくならず、終始不安そうに私の方を振り返っている。
一方、私は放置されていたので、ちらちらと女子高生ちゃんを確認しながら、近くのローブ姿の人に自分から声を掛けた。
「…あの、じゃあ、私も元の世界に帰らなくて済むということですか?」
ふと湧いた疑問を口にすると、私の心臓が早鐘を打ち始める。これで、あの地獄のような会社に行かなくていい。そう考えた瞬間、歓喜で指先が震えた。
「巻き込まれた一般の方には、大変申し訳ないことをした。今すぐにでも帰還の魔法陣を起動させよう。」
「……え。」
帰還? 今すぐ?
「お願いです、どうかこの世界に留まらせてください! 何でもします!」
気が付けば、私は賢者様の前に土下座していた。床の冷たさも感じないほど必死だった。
あの世界に戻るくらいなら、この世界で奴隷になったほうがマシ。本気でそう思うから。
「…そこまで懇願されるとは、よほど元の世界が過酷だったのだろう。」
賢者様は同情的な目で私を見下ろした。
「しかし、貴女を城内に留める理由がない。能力も不明な一般人を無為に養うことはできん。」
私はすぐに顔を上げ、必死に訴える。ここで引き下がってしまっては、元の世界に戻されてしまう!
「私、これまでたくさんのバイトを掛け持ちして、ブラック企業で鍛え抜かれた体力と精神力があります! 掃除、洗濯、料理、書類整理、肉体労働まで…全て経験があります! 体の頑丈さと器用貧乏なのが取り柄なんです、私!なんでもやりますから!」
私の必死すぎるプレゼンに、賢者様たちは困惑して顔を見合わせた。そこに、女子高生ちゃん…もとい、聖女ちゃんが遠慮がちに口を挟んでくれる。
「あの…賢者様。私、元の世界の人が近くにいてくれたら、心強くて…。お姉さんと一緒だと、お仕事がもっと頑張れるかもしれません。」
聖女ちゃんの願いをきいた賢者様は、しばらく考えるようなそぶりをした後、私に向かって厳かに告げた。
「よかろう。貴女は、第五騎士団にて、下女兼、聖女の話し相手として勤務せよ。聖女の願いであり、貴女の体力と資質を評価し、この世界への永住を許可する。」
私は歓喜に打ち震えた。これで、私はあの会社から解放されて自由になったんだ!
名前の出てきた第五騎士団の城塞は、下女たちの間では「不人気な職場」として知られていた。
貴族が少なく玉の輿を狙いにくい上、年中人手不足。仕事は掃除、洗濯、料理の補助に書類整理の手伝いと多岐にわたり、団長や副団長の指導も厳しいという。
けれど、実際に働いてみてわかった。ここは私にとって「理想郷」だと。
確かに仕事は忙しい。息つく暇もないほど次から次へとタスクが降ってくる。
でも、ここは不正がない。サボる人間もいない。全員が自分の役割に誇りを持ち、真剣に働いている。
ブラック企業とは違い、ここには明確なルールと、頑張った分だけ認められる「正当な評価」が存在する!
「おーい、新人! シャツのここ、まだシワが残ってるぞ。」
「こらこら、お皿の曇りは心の曇り! もっとピカピカに頼むぜ?」
厨房や洗濯場では、そんな遠慮のない指摘が毎日のように飛び交う。
でも、そこに陰湿さは微塵もない。
「お前の性格が気に入らない」だの「俺の機嫌が悪いから」だのといった理不尽な人格否定は一切なく、あるのは「より良い仕事をするため」の前向きな言葉だけ。
「はい、すぐにやり直します! すみません!」
私は心からの笑顔で応じる。
体がクタクタになるまで働いても、精神的な疲れは不思議とない。労働時間は明確で、温かい食事と睡眠時間が保証されている。それだけで、ここは天国だった。
特に仕事に厳しかったのが、第五騎士団の副団長様だった。
端正な顔立ちと、常に冷静沈着な立ち居振る舞い。彼は一見近寄りがたいけれど、部下たちのことを誰よりもよく見ている人だった。
「この報告書、ちょっと話が散らかってるな。団長は忙しいから、もっと要点を絞って、順序よく並べ替えないと。……整理できるか?」
彼の厳しさは、「能力のある者には正当な評価を下す」という公平さの裏返しだ。
元OLとして培った書類整理のスキルを活かして彼の要求に応じると、彼は驚いたように目を見開き、そして満足げに頷いてくれた。
「ほう…君が直したのか。とても論理的で分かりやすい。迅速で正確だ。見事だよ。」
まっすぐな称賛の言葉が、ブラック会社で踏みにじられ続けてきた私の自尊心を、少しずつ、丁寧に回復させていく。
厳しいけれど、ちゃんと見ていてくれる。そんな安心感が、私のやりがいに変わっていった。
ある日の夕暮れ時。彼の執務室で書類の確認をしていると、ふいに副団長様がペンを置き、静かに口を開いた。
「君は、どんな時でも完璧な笑顔を崩さないな。」
「…え? あ、はい。仕事ですから。」
条件反射で口角を上げると、彼は困ったように眉を下げた。
「だが、無理をしているようにも見える。瞳の奥に、まだ疲れと……何かに怯えているような色が残っている。」
ド キリとした。彼はそこまで深く、私を観察していたのか。
「以前の仕事で、感情を殺すことが癖になってしまったのかもしれないな。だが、ここではそんなに張り詰めなくていい。仕事のミス以外で君を責める者はいないし、誰も君を傷つけたりしない。」
彼は上司として部下を気遣っただけなのだろう。でも、その不器用で温かい声色が、私の胸を打った。
「安心して、ここでは貴女らしく生きていい。」
彼の存在は、私にとってこの世界で再び光を見出すきっかけだった。それはいつしか単なる上司への敬愛を超え、淡い恋心へと変わっていく。
騎士団での生活は充実し、ブラック企業の影も薄れ始めている。私は副団長様への想いを胸に秘めながら、必死に働く毎日を送っていた。
一方、聖女ちゃんも聖女としての重圧に苦しみながらも、一年間の使命を見事に全うした。
「お姉さん、私、明日帰れるんです! 怖かったですけど、これでやっと…。」
「うん! お疲れ様、聖女ちゃん。盛大に見送るね!」
私は、別れが寂しい反面、彼女の願いが叶うことを心から喜んだ。
彼女は元の世界に居場所があり、未来がある。帰るべき場所へ帰るのだ。
翌日。私たちは、初めて召喚されたあの広場に来ていた。聖女ちゃんは賢者様たちに囲まれ、魔法陣の中央に立つ。
「聖女様の帰還の儀式を執り行う!」
賢者様の言葉と共に、魔法陣が激しい光を放った。
ゴオオオオオオッ!
光が収まり、誰もが彼女の消失を確認しようとした。
しかし、彼女はまだそこに立っていた。
「…え?」
「なぜだ?! 失敗したのか?!」
賢者様たちは慌てふためき、聖女ちゃんは絶望の顔で立ち尽くした。そして、堰を切ったようにその場に泣き崩れた。
「嫌だ! 帰りたい!お母さん…!」
私は駆け寄り、泣き叫ぶ彼女の肩を抱いた。
「大丈夫だよ、聖女ちゃん。きっと魔力の調整がうまくいかなかっただけだよ。」
賢者様たちは必死に魔法陣を解析し、やがて顔を青ざめさせた。
「まさか…原因は、貴女だ!」
賢者様は私を指差した。
「聖女様を召喚した際、貴女が巻き込まれたことで、この術は二人をひとりとして認識してしまったようだ。本来、儀式の直後に貴女を返していれば問題なかったが…。今や、貴女が同条件で召喚陣に乗らなければ、聖女様は元の世界に戻れない。」
私は、目の前が真っ暗になった。私の「永住したい」という執着が、彼女の帰還を阻んでいるというのか。
「そんな…っ!」
「…ごめんなさい! 私、どうしてもあの世界に帰りたいんです! この世界に残りたいと思っているのは分かってますけど…お願いします!」
聖女ちゃんは、私の服を掴み、泣きながら懇願した。そんな必死の願いを、私は無碍にすることはできない。けれど…。
「…元の世界に戻った後、私だけ再召喚してもらうことはできますか?」
それが私の精一杯の妥協案であり、ささやかな希望。しかし、賢者様の返事は非情だった。
「それは不可能だ。聖女ではない貴女を、この世界に留めるための明確な目印がなければ、魔力の特定ができない。」
「…どうすればいいんですか。」
「誰かと子を成すのだ。この世界の血を、その身に宿すこと。それが、唯一の目印となる。」
私は言葉を失う。
「帰還の術の再準備には一週間かかる。それまでに決断をするのだ。」
そう言い残し、賢者様たちは対応策を練るために忙しなく部屋を去っていった。残されたのは、呆然とする私と、泣きじゃくる聖女ちゃんだけ。
「ごめんなさい、ごめんなさいお姉さん…。」 「大丈夫だよ。聖女ちゃんは悪くないよ。…一緒に帰ろう。」
私は震える心を必死に抑え込み、無理やり口角を上げて笑顔を作った。なんとか聖女ちゃんを安心させて、部屋まで見送る。
だけど、一人になった途端、張り詰めていた糸が切れ、私は表情を取り繕うこともできないまま、重い足取りで自室へと向かった。
薄暗い廊下を歩きながら、思考を巡らせる。 この世界の血を宿す。つまり、妊娠するということ。 それには相手が必要だけど、私にはそんな関係の男性はいない。
(…お金で解決できないかな?)
ふと、街の裏通りにあるという店の存在が頭をよぎる。けれど、すぐにその考えを打ち消した。
この国の男娼は、貴族の女性たちの遊び相手として、トラブル防止のために不妊の手術を受けていると聞いたことがある。それでは意味がないのだ。
諦めて、あの地獄に帰るしかないの…。また、あの終わりのない罵倒と暴力の日々に?
「それとも、ダメ元で知り合いに頼む…?でも、そんな気軽に頼めることじゃないし!」
失意のまま、私は城の隅にあるベンチで項垂れていたら、突然、よく知る声が降ってきた。
「どうした? そんなところで小さくなって。……顔色が真っ青だぞ。」
見上げると、副団長様が静かに私を見下ろしていた。
私は、子を成さねば一週間後の帰還の術で強制帰還させられる可能性があることを、言葉を詰まらせながら伝えた。
(私、副団長様に何てことを話しているんだろう…。)
そう思いながらも、涙も口も止まらない。
一気に話し終わった後、彼はしばらく無言で私を見つめ、そして、深く息を吸い込んだ。
「それなら……私では、駄目だろうか?」
「…え?」
耳を疑った。
「君がこの世界に残りたいと、あれほど必死になっているのは知っている。君の努力と、この世界への愛着は、私自身が最もよく理解している。……それに、君のような優秀な部下を失うのは、騎士団にとっても大きな損失だからな。」
彼の瞳は、強い決意に満ちていた。それらしい理由をつけてくれるところも、副団長様の優しさを感じられる。
だけど、その奥には、帰ってこられないかもしれない私への、言葉にできない感情が揺れているように見えた。
「一週間後、君が再召喚できるかどうかもわからない。だが、君の未来のために……いや、私の個人的な願いとしても、力にならせてほしい。」
彼はあくまで、部下を思う上司の善意として、そして一人の男として、協力を申し出てくれたのだ。
その誠実さに、私は涙が止まらなかった。
その日から、私と副団長様は秘密の逢瀬を重ねることになった。
場所は王城の片隅にある、彼の私室。
夜の帳が下りる頃、私は人目を忍んでそこへ通った。
副団長様は、震える私を慈しむように優しく抱きしめ、心と体のこわばりを一つずつ解いてくれた。
彼の体温に包まれている時だけは、迫りくる別れの恐怖を忘れることができる。
「またこちらに戻ってこれる可能性は、低いかもしれない。それでも、君は…。」
ある夜、彼は私を腕の中に閉じ込めながら、悲痛な声で問いかけた。私は彼の胸に頬を寄せ、心からの言葉を紡ぐ。
「副団長様。私は、この一週間で、生きたいという望みを、さらに強くしました。子どもを授かれなくても、貴方が私のためにしてくれたことは、一生忘れません。」
私たちは、言葉よりも雄弁な口づけで互いの想いを確認し合う。
それは、期限付きだとわかっているからこそ燃え上がる、切なくも愛おしい時間だったと思う。
そして一週間は、まるで砂時計の砂が落ちるように、残酷なほど早く過ぎ去っていく。
ついに、帰還の術の準備が整う日が訪れてしまった。けれど別れ際、私は涙をこらえて笑って副団長様に向き合う。
「きっと、戻ってきます。そしたら伝えたいことがあるんです。」
「わかった。待っているから、必ず帰っておいで。」
そう言って、私は副団長様と別れを告げ、帰還の魔法陣に聖女ちゃんと二人で、足を踏み入れた。ついに儀式がはじまる。
ゴオオオオオオッ!
光が収まり、次に私が立っていたのは、見慣れた駅の通路で…。ふと、壁にかかった時計や電光掲示板の日付が目に入る。
……嘘でしょ?
異世界で一年を過ごしたというのに、こちらの世界ではあの日、あの瞬間から一秒たりとも時間が進んでいなかったのだ。
隣には、聖女ちゃんがいた。私たちはお互いの様子を確認し、どちらともなく笑いがこみ上げる。
少なくとも、現代に帰る魔法は成功したらしい。
二人でベンチに腰掛けたあと、聖女ちゃんは私の手を握りしめ、再召喚の瞬間を待つと言ってくれた。
「ごめんなさい。私のせいで…でも、絶対に……あっちの世界に戻れるはずです!」
私は、彼女の優しさに心底感謝した。しかし、待てど暮らせど、何も起こらない。行き交う人々の足音。遠くで聞こえる電車の音。冷たい現実の空気が、肌にまとわりつく。
「もう遅い時間だから、貴女はもう帰って。お母さんが心配するわ。私は、もう少しだけ待つから。」
彼女は、そう声を掛けた私の顔を見て、申し訳なさそうに立ち上がった。
「はい…。ごめんなさい。明日も、ここで待ってますから!」
聖女ちゃんは、私に別れを告げ、何度も振り返りながら帰宅した。私は、一人、終電の時間まで待った。
けれど、何も起こらない。
奇跡は起きなかった。絶望に体が震えたが、明日こそはと、私は重い足取りで帰宅する。
翌日。目覚めても、私は日本の自宅にいた。
一年前はあんなに帰りたかった自分の家も、今となっては虚しさしか感じることができない。
スマホを見ると、会社から数十件の着信と、罵詈雑言のメッセージが溜まっていた。
『おい、何をしている! 仕事が溜まっているだろうが! 今すぐ会社に来い!』
「……嘘でしょ。」
あの地獄に戻るという絶望に、全身の力が抜けていく。
副団長様とのあの一週間は、夢だったのだろうか。
重い足取りで会社に行くと、上司から理不尽な怒鳴り声を浴びせられた。
「お前、昨日何で俺の許可もなく勝手に帰ったんだ! 常識がねえのか! お前のせいで、どれだけ俺が迷惑を被ったと思ってんだ!」
「昨日? 昨日は…自分の仕事が終わったので帰りました。」
異世界にいたなんて、言えるわけがない。
怒鳴られ、理不尽に仕事を押し付けられ…ついに私の精神は限界を迎え、プツリと、私の中でなにかが切れる。
「…もう、辞めます!」
気が付くと、私はそう叫んでいた。
「あぁ?! 今なんつった、このクソ女が!」
上司が顔を真っ赤にして怒鳴りながら、逃げようとする私の腕を、あざができるほどの強さで乱暴に掴んだ。恐怖と痛みで身がすくんだ、その瞬間だった。
ゴオオオオオオッ!
視界が光に包まれた。
次に目を開けた時、私はすっかり見慣れた祭壇の中央に立っていた。
目の前には、愛しい副団長様。そして、私の腕を掴んだまま、目を白黒させている上司。
「無事か!」
副団長様は、私を強く抱きしめ、安堵の表情を浮かべた。
「副団長様…! 再召喚が成功したんですね。」
「そうだ。賢者様が、君の体内に宿った新たな魔力の痕跡を見つけ出してくれた。君の命が危機に晒された瞬間、その魔力が強く反応したのだろう。」
彼は、私の顔を両手で挟み、まっすぐな瞳でプロポーズの言葉を口にした。
「君がこの世界に残ってくれた。もう、元の世界に帰る理由はない。だから、私は隠さない。君を愛している。君と、そして私の子を、生涯守りたい。私の妻として、永遠にこの世界で生きてほしい。」
私から伝えるつもりだったのに、先を越されてしまったようだ。
「もちろんで…」
私が返事をしようとした、その時だった。
「ちょ、ちょっと待て!一体何なんだ! なんでこんな変なとこに!」
上司が、突然、大声で叫び出した。
「え? あれ、上司も召喚されてる?!」
「ああ、巻き込まれたらしい。賢者殿、彼女は無事に召喚できたので、彼を戻せば、もう問題ないな。」
副団長様は、冷ややかな目で上司を見つめたあと、賢者様に目配せをした。賢者様は、溜息を一つついて、魔法陣を起動させた。
「待ってくれ! 俺を、この世界に置いてくれ! 私はこの世界の…」
上司の絶叫は、光の中に消えていった。彼は、私が脱出したブラック会社という地獄へ、再び放り込まれたのだろう。
「これで、もう大丈夫だ。」
副団長様は、私を抱きしめ直した。
そして、私の耳元で静かに、しかし熱烈に囁く。
「改めて、私の愛しい人。私と結婚して、一生、私のそばにいてほしい。」
「はい、もちろんです!私も愛しています…!」
私は、副団長様の腕の中で、かつての『仮面』ではない、心からの笑顔を浮かべた。
この世界で授かった小さな命と、愛する彼と共に歩む未来。もう二度と、あの孤独で冷たい日々に戻ることはないだろう。
私の本当の人生は、ここから始まっていくのだから。




