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王都の天才時計師と、銀雪の令嬢 ~「君の領地を時計の聖地にする」と約束した彼は、伝説の師から託された《究極の機構》で国を救い、私と結ばれました~  作者: ぱる子
第2章:銀雪の工房

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第8話:廃鉱山の再利用

 翌日から、私たちは早速「工房作り」に着手した。

 場所は、広場の高台にある旧銀山管理事務所。

 かつては鉱石の管理や帳簿付けが行われていたレンガ造りの建物だが、閉山してからの十数年、放置されていたせいで見る影もない。


「……こりゃひどいな」


 重い鉄扉を押し開けた瞬間、アルドが顔をしかめた。

 中からカビと埃の匂いがムワッと噴き出し、足を踏み入れると、埃が雪のように舞い上がった。

 窓ガラスは割れ、床には枯れ葉やゴミが散乱している。部屋の隅には巨大な蜘蛛の巣が張られ、ここが長い間、人間の領域ではなかったことを物語っていた。


「構造自体は悪くない。壁は厚いし、床も石張りで頑丈だ。大型の工作機械を置いてもびくともしねえだろう。だが……」

「掃除が必要ですね。それも、大掛かりな」


 私が続けると、後ろについてきていたハンスたち老人衆が、困ったような顔を見合わせた。


「お嬢様。掃除と言っても、わしらだけでは何日かかるか……」

「屋根の修繕もしなきゃならんし、立て付けの悪い窓も直さなきゃなんねえ」


 彼らの口調は重かった。

 昨日は「仕事がある」と少し活気づいたものの、一夜明けて冷静になったのだろう。

 彼らの視線には、明らかな「諦め」と、私への「疑念」が混じっていた。


(どうせ、貴族様の気まぐれな道楽だ)


 口には出さないが、そう言いたげな空気が漂っている。

 無理もない。今まで多くの貴族が、思いつきで事業を始めようとしては、泥臭い現実に直面して放り出してきたのを見てきたのだろう。

 「時計作り」なんて優雅な響きに聞こえるけれど、その準備段階は、埃と汗にまみれる重労働だ。伯爵令嬢が本気でやるわけがないと、彼らは思っているのだ。


「……ハンス。バケツと雑巾、それに箒をありったけ集めてきてちょうだい」

「は、はい。しかしお嬢様、この埃ですぞ。お召し物が汚れてしまいます」

「構わないわ。急いで」


 私が強い口調で命じると、ハンスは渋々といった様子で道具を取りに戻った。


 その間、アルドは部屋の中央に立ち、腕組みをして天井を見上げていた。

 彼は試すような目で私を一瞥すると、何も言わずにポケットからチョークを取り出し、床に線を引いていく。

 ここに旋盤、ここに作業机、ここに炉。

 彼の頭の中では既に、工房の完成図ができあがっているのだ。


 やがて、ハンスたちが道具を持って戻ってきた。

 それと一緒に、村の他の住人たち――主に女性たちも様子を見に集まってきた。

 遠巻きに見守る彼らの視線は冷ややかだ。

 「いつまで続くかね」「どうせ三日で音を上げるさ」というひそひそ話が聞こえてくる。


 私は深呼吸を一つした。

 今、ここで言葉で反論しても意味はない。

 必要なのは行動だ。


 私は着ていた厚手のコートを脱ぎ、近くのフックに掛けた。

 下に着ていたのは、ドレスではない。今朝、屋敷の衣装部屋の奥から引っ張り出してきた、昔の使用人用の作業着だ。サイズを直して、動きやすいように紐で縛ってある。


「お、お嬢様? その格好は……」


 ハンスが目を丸くする。

 私は答えず、髪を紐で高く結い上げると、氷の膜が張ったバケツの水に、躊躇なく両手を突っ込んだ。


 冷たい、というより痛い。

 まるで無数の針で刺されたような激痛が走る。

 けれど私は眉一つ動かさず、雑巾を絞った。


「掃除を始めるわよ」


 言い放つと同時に、私は床に膝をつき、真っ黒に汚れた石畳を力任せに拭き始めた。

 ゴシッ、ゴシッ。

 こびりついた泥と油汚れはしつこい。爪が割れそうなほど力を込めないと落ちない。

 冷たい水で感覚が麻痺し、指先が赤く腫れ上がっていく。それでも手は止めない。


「お、おやめくださいお嬢様! そんなことは私たちが……!」

「いいえ、私もやるわ。これは私の工房でもあるんだから」


 慌てて止めに入ろうとするハンスを、私は視線だけで制した。


「あなたたちは窓の補修と、高い所の煤払いを願い。床は私がやる」

「し、しかし……」

「ハンス。この工房は、この村の心臓になる場所よ。心臓に汚れがあっては、いい血液は流れないわ。だから、徹底的に綺麗にしなきゃいけないの」


 私は雑巾をバケツですすぎ、水が真っ黒になるのを見て、また新しい水を汲みに行く。

 その繰り返しだ。

 ドレスを着て優雅にお茶を飲んでいた手は、みるみるうちに荒れ、泥にまみれていく。

 背中には、遠巻きに見ていた村人たちの視線が突き刺さっている。

 

 ――痛い。寒い。辛い。

 本音を言えば、泣き出しそうだ。

 けれど、ここで弱音を吐いたら、ギルバート様に言われた「華がない女」に戻ってしまう。

 私は、飾り人形じゃない。

 この泥だらけの床の上に、未来を築くと決めたのだ。


 三十分、一時間。

 無心で床を磨き続ける私の横に、ふと誰かが立った。

 アルドだ。

 彼は何も言わず、私のバケツを取り上げると、自分が持っていた綺麗な水の入ったバケツと交換してくれた。


「……ここ、歪んでるな」


 彼は私が磨いた床の一角を指差した。


「石が少し沈んでる。これじゃ旋盤を置いた時に水平が出ねえ。おい、爺さんたち! ここを剥がして詰め物をしてくれ!」

「は、はいっ!」


 アルドの指示に、ハンスたちが慌てて動き出す。

 アルドは私に視線を戻し、ニヤリと笑った。


「悪くねえ磨きっぷりだ、雇い主様。だが見てられねえな」


 彼は袖をまくると、自分も雑巾を手に取り、私の隣に膝をついた。


「俺の工房だ。一番汚れる仕事は俺がやる」

「アルド……あなたは機械の整備があるでしょう?」

「機械は逃げねえ。だが、汚れは今落とさなきゃ、いつまでも残る」


 彼はそう言うと、私以上の力強さと速さで、床を磨き始めた。

 その背中を見て、胸が熱くなった。

 彼は「貴族のくせに」とか「女のくせに」とは言わない。ただ、同じ目的に向かう仲間として、隣に並んでくれた。


 その光景を見ていた村人たちの中に、変化が起きた。

 最初は一人、また一人と、遠巻きに見ていた女性たちが近づいてきたのだ。


「……お嬢様。そのバケツ、貸してください」


 一人の年配の女性が、私の手から雑巾を取ろうとした。

 その手は節くれ立ち、長年の労働で荒れていたけれど、とても温かかった。


「あんたみたいな細い腕じゃ、いつまで経っても終わらないよ。掃除なら、私らに任せな」

「でも……」

「いいから! ほら、あんたたちも何突っ立ってんだい! お嬢様がここまで本気なんだ、私らが恥かいてどうする!」


 彼女の号令で、他の女性たちも一斉に動き出した。

 箒を持つ者、窓を拭く者、蜘蛛の巣を払う者。

 男衆も負けじと、建付けの悪い扉を外し、蝶番の修理を始めた。


「ここの板が腐ってるぞ! 新しいのを持ってこい!」

「お湯を沸かして! 冷たい水じゃ汚れが落ちないよ!」

「おい、誰か脚立を持ってこい!」


 静まり返っていた廃墟に、喧騒が戻ってきた。

 それは、ただの騒音ではない。

 「働く」という活気の音だ。


 私はその光景を、床に座り込んだまま呆然と見ていた。

 冷たかった村人たちの目が、今は違う熱を帯びている。

 「貴族の道楽」を見る目ではない。

 共に汗を流す「仲間」を見る目だ。


「……へっ。やっとエンジンがかかってきたな」


 隣でアルドが、額の汗を拭いながら笑った。


「あんたが火をつけたんだぜ、エリアナ」


 名前で呼ばれた。

 その響きが、冷え切った体に温かく染み渡る。


「私は……ただ、必死だっただけで……」

「それがいいんだよ。口先だけの命令より、泥だらけの背中の方が、職人(やつら)には響く」


 アルドは立ち上がり、私に手を差し伸べた。

 その手は汚れていたけれど、とても頼もしく、大きかった。


「立てるか?」

「ええ」


 彼の手を借りて立ち上がる。

 膝も腰も痛いし、手はボロボロだ。ドレスも泥だらけで、王都の貴族が見たら卒倒するだろう。

 でも、今の私は、きっとギルバート様と一緒にいた時の何倍も、胸を張っている。


 夕方になる頃には、工房は見違えるようになっていた。

 床は本来の石の色を取り戻し、窓ガラスは応急処置ながら透明な板が嵌め込まれ、夕日が綺麗に差し込んでいる。

 黴臭さは消え、代わりにワックスと木の香りが漂っていた。


「よし! これなら機械を搬入できる!」


 アルドが声を上げると、村人たちから歓声が上がった。

 みんな泥だらけで、疲労困憊だ。けれど、その顔には達成感による笑顔が輝いていた。


 ハンスが私のところへやってきた。


「お嬢様……いえ、工房長。これからの指示を」

「工房長?」

「へえ。これだけ働いたんです。あんたは立派なここの責任者だ」


 ハンスの言葉に、周りの村人たちも深く頷いた。

 私は胸がいっぱいになり、深くお辞儀をした。


「ありがとう、みんな。……明日は機械の搬入よ。アルドの指示に従って、慎重にお願いね」

「「「はいっ!!」」」


 力強い返事が、高い天井に響き渡った。


 廃鉱山に灯った、小さな灯火。

 それはまだ弱々しいけれど、決して消えない強さを秘めている。

 私は綺麗になった床を見つめ、ここから世界を変える時計が生まれる未来を、はっきりと幻視していた。

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