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王都の天才時計師と、銀雪の令嬢 ~「君の領地を時計の聖地にする」と約束した彼は、伝説の師から託された《究極の機構》で国を救い、私と結ばれました~  作者: ぱる子
第1章:泥の中の歯車

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第6話:王都脱出

「出発は、明日の夜明け前です」


 私がそう告げると、アルドは一瞬だけ目を丸くし、それから短く「分かった」とだけ答えた。

 無駄な質問はしてこない。

 なぜそんなに急ぐのか。なぜ夜逃げ同然に王都を去らねばならないのか。

 彼もまた、王都という場所の醜さを――あるいは、権力を持った者の執念深さを、痛いほど理解しているからだろう。


 ギルバート様は、プライドの高い方だ。

 私ごときに公衆の面前で「結構です」と去られたことを、根に持っているはずだ。それに加えて、彼が敵視している「時代遅れの時計師」と私が手を組んだと知れば、どんな嫌がらせをしてくるか分からない。

 ギルドの権力を使ってアルドを拘束するか、あるいは物理的にこの工房を潰しに来るか。

 どちらにせよ、悠長に引越しの準備をしている時間はないのだ。


「必要なものだけまとめてください。大型の機械や、代えの利く家具は置いていきます。重要なのは、あなたの腕と、その設計図だけですから」

「馬鹿言え。この旋盤は師匠の代から使ってる特注品だ。置いていけるか」


 アルドは愛しげに、油で黒光りする重そうな鉄の塊を撫でた。


「向こうに行けば、もっといい機械を用意します」

「……分かってないな、お嬢様。道具ってのはな、職人の手の延長なんだ。新品がありゃいいってもんじゃない」


 彼は頑として譲らなかった。

 結局、私たちは一晩かけて、工房の中にある主要な機材を全て梱包することになった。


 作業は深夜まで続いた。

 私もドレスの裾をまくり上げ、木箱への詰め込みを手伝った。最初は「貴族の手を借りるわけにはいかない」と渋っていたアルドも、私の手際の良さ(没落しかけの家では、使用人の数も限られていたので、梱包作業などお手の物だ)を見て、黙認するようになった。


 ガランとした工房。

 壁に掛かっていた無数の時計たちが木箱に収められ、あのチクタクという賑やかな音は消えてしまった。

 祭りの後のような寂しさが漂う中、アルドは最後に、壁の一角に掛けられていた古びた肖像画を外した。

 厳格そうな老人が、ルーペを片手にこちらを見ている絵だ。


「……行くぞ、師匠」


 彼がボソリと呟き、その絵を丁寧に布で包むのを見て、私は胸が締め付けられるような思いがした。

 彼はここを去るのではない。

 この場所にあった「魂」ごと、私の領地へ移住してくれるのだ。

 その責任の重さを、私は改めて噛み締めた。


          * * *


 翌朝。

 空が白み始めた頃、私たちは一台の幌馬車に揺られていた。

 私が最後の資金を叩いて雇った、乗り合いの大型馬車ではない、荷物運搬用の貸し切り馬車だ。御者台には、口の堅そうな初老の男性が座っている。


 王都の巨大な城門が見えてきた。

 早朝のため、検問は緩い。

 眠そうな衛兵が、馬車の荷台を軽く覗き込む。


「なんだ、このガラクタの山は」

「北へ引っ越すんです。時計の修理屋でして」

「ふーん……。まあいい、通れ」


 アルドの機転の利いた(そして自虐的な)返答で、私たちはあっさりと門を通過した。

 石造りの門をくぐり抜けた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。

 終わった。

 そして、始まったのだ。


 馬車は石畳の街道を北へと進む。

 車輪が回るゴトゴトという音だけが響く中、私たちは向かい合って座っていた。

 幌の隙間から、遠ざかっていく王都の街並みが見える。

 高くそびえる王城の尖塔。貴族たちの住む白亜の屋敷街。

 煌びやかで、華やかで、そして私には息苦しかった場所。


「……未練はあるか?」


 ふいに、アルドが尋ねてきた。

 彼は腕を組み、私の視線の先にある王都を睨むように見ていた。


「いいえ。全く」


 私は即答した。強がりではなかった。


「あの街には、私の居場所はありませんでしたから。あるのは、『可哀想な没落令嬢』という役回りだけ。……あなたこそ、後悔していませんか? あそこは、流行の最先端が集まる場所です。職人としてのチャンスは、やはりあちらの方が多かったのでは?」


 アルドは鼻を鳴らし、ガタガタと揺れる木箱に背中を預けた。


「チャンスねえ。……昨日までの俺なら、そう思ってたかもな。いつかあの街で一旗揚げて、馬鹿にした連中を見返してやるって」

「今は違うのですか?」

「場所なんて関係ないって、気づいちまったからな」


 彼は懐から、小さな金属片を取り出した。

 それは、昨日彼が修理してくれた、私の懐中時計の余り部品――摩耗して交換した、古いネジだった。

 彼はそれを親指で弾き、空中でキャッチした。


「師匠はよく言ってた。『時計の中に宇宙を作れ』ってな。最高の精度、最高の機構。それを突き詰めるのに、王都の流行も、貴族の評判も関係ねえ。必要なのは、静かな環境と、没頭できる時間……そして」


 彼は言葉を切り、私を見た。

 その瞳は、朝焼けの光を受けて琥珀色に輝いていた。


「それを理解してくれる、たった一人の理解者だ」


 ドキリ、と心臓が跳ねた。

 理解者。

 それは、私のことだろうか。

 

「あんたは俺に賭けた。俺の技術を『本物』だと言って、全財産に近い投資をした。……正気の沙汰じゃないな」

「あら、私は計算高い女ですよ? これは勝算のある投資です」


 私が少しムキになって言うと、アルドは肩を震わせて、くっ、と喉の奥で笑った。


 笑った。

 初めて見る、彼の本当の笑顔だった。

 皮肉めいた冷笑でも、不敵な笑みでもない。

 年相応の青年の、無邪気で、少しだけ照れくさそうな、柔らかい笑顔。

 無愛想で強面だと思っていた彼の顔が、朝日の中で驚くほど優しく見えた。


「あんた、変わった令嬢だな」


 彼は言った。

 その声色は、呆れているようでいて、どこか慈愛に満ちていた。


「普通、貴族の娘ってのは宝石だのドレスだのに夢中になるもんだ。なのにあんたは、油まみれの歯車を見て目を輝かせる。……俺の師匠以外で、あんな目をする奴を初めて見た」

「……変わっていると言われるのは、慣れています」

「褒め言葉だよ。俺にとってはな」


 アルドは視線を逸らし、幌の隙間から外の景色へ目を向けた。

 街道の先には、まだ見ぬ北の大地が広がっているはずだ。


「北の雪山か……。悪くない。師匠の設計図を実現するには、雑音が多すぎる王都よりも、静かな場所の方がいい」


 彼は独り言のように呟き、そして聞こえるか聞こえないかくらいの声で付け足した。


「……それに、あんたの言っていた『銀色の雪景色』ってやつを、俺も見てみたくなった」


 馬車が大きく揺れた。

 私は彼に聞こえないように、胸元の懐中時計をぎゅっと握りしめた。

 トクトクと伝わってくる鼓動が、私の胸の高鳴りと重なる。


 不安がないと言えば嘘になる。

 領地は貧しい。借金もある。村人たちがアルドを受け入れてくれるかも分からない。

 これから向かう先には、雪と氷に閉ざされた厳しい冬が待っている。


 けれど、隣には彼がいる。

 止まっていた時間を動かしてくれた、魔法使いのような時計師が。


「アルド」

「ん?」

「寒いわよ、私の領地は。覚悟しておいてね」

「へっ。俺の懐の寒さに比べりゃマシだろ」


 軽口を叩き合いながら、私たちは笑った。

 王都はもう、地平線の彼方に霞んで見えなくなっていた。


 太陽が昇りきる。

 眩しい光が、これからの私たちの道を照らすように、真っ直ぐに伸びていた。

 長い旅が始まる。

 そして、伝説となる時計作りへの第一歩が、今ここに刻まれたのだ。

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