第6話:王都脱出
「出発は、明日の夜明け前です」
私がそう告げると、アルドは一瞬だけ目を丸くし、それから短く「分かった」とだけ答えた。
無駄な質問はしてこない。
なぜそんなに急ぐのか。なぜ夜逃げ同然に王都を去らねばならないのか。
彼もまた、王都という場所の醜さを――あるいは、権力を持った者の執念深さを、痛いほど理解しているからだろう。
ギルバート様は、プライドの高い方だ。
私ごときに公衆の面前で「結構です」と去られたことを、根に持っているはずだ。それに加えて、彼が敵視している「時代遅れの時計師」と私が手を組んだと知れば、どんな嫌がらせをしてくるか分からない。
ギルドの権力を使ってアルドを拘束するか、あるいは物理的にこの工房を潰しに来るか。
どちらにせよ、悠長に引越しの準備をしている時間はないのだ。
「必要なものだけまとめてください。大型の機械や、代えの利く家具は置いていきます。重要なのは、あなたの腕と、その設計図だけですから」
「馬鹿言え。この旋盤は師匠の代から使ってる特注品だ。置いていけるか」
アルドは愛しげに、油で黒光りする重そうな鉄の塊を撫でた。
「向こうに行けば、もっといい機械を用意します」
「……分かってないな、お嬢様。道具ってのはな、職人の手の延長なんだ。新品がありゃいいってもんじゃない」
彼は頑として譲らなかった。
結局、私たちは一晩かけて、工房の中にある主要な機材を全て梱包することになった。
作業は深夜まで続いた。
私もドレスの裾をまくり上げ、木箱への詰め込みを手伝った。最初は「貴族の手を借りるわけにはいかない」と渋っていたアルドも、私の手際の良さ(没落しかけの家では、使用人の数も限られていたので、梱包作業などお手の物だ)を見て、黙認するようになった。
ガランとした工房。
壁に掛かっていた無数の時計たちが木箱に収められ、あのチクタクという賑やかな音は消えてしまった。
祭りの後のような寂しさが漂う中、アルドは最後に、壁の一角に掛けられていた古びた肖像画を外した。
厳格そうな老人が、ルーペを片手にこちらを見ている絵だ。
「……行くぞ、師匠」
彼がボソリと呟き、その絵を丁寧に布で包むのを見て、私は胸が締め付けられるような思いがした。
彼はここを去るのではない。
この場所にあった「魂」ごと、私の領地へ移住してくれるのだ。
その責任の重さを、私は改めて噛み締めた。
* * *
翌朝。
空が白み始めた頃、私たちは一台の幌馬車に揺られていた。
私が最後の資金を叩いて雇った、乗り合いの大型馬車ではない、荷物運搬用の貸し切り馬車だ。御者台には、口の堅そうな初老の男性が座っている。
王都の巨大な城門が見えてきた。
早朝のため、検問は緩い。
眠そうな衛兵が、馬車の荷台を軽く覗き込む。
「なんだ、このガラクタの山は」
「北へ引っ越すんです。時計の修理屋でして」
「ふーん……。まあいい、通れ」
アルドの機転の利いた(そして自虐的な)返答で、私たちはあっさりと門を通過した。
石造りの門をくぐり抜けた瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
終わった。
そして、始まったのだ。
馬車は石畳の街道を北へと進む。
車輪が回るゴトゴトという音だけが響く中、私たちは向かい合って座っていた。
幌の隙間から、遠ざかっていく王都の街並みが見える。
高くそびえる王城の尖塔。貴族たちの住む白亜の屋敷街。
煌びやかで、華やかで、そして私には息苦しかった場所。
「……未練はあるか?」
ふいに、アルドが尋ねてきた。
彼は腕を組み、私の視線の先にある王都を睨むように見ていた。
「いいえ。全く」
私は即答した。強がりではなかった。
「あの街には、私の居場所はありませんでしたから。あるのは、『可哀想な没落令嬢』という役回りだけ。……あなたこそ、後悔していませんか? あそこは、流行の最先端が集まる場所です。職人としてのチャンスは、やはりあちらの方が多かったのでは?」
アルドは鼻を鳴らし、ガタガタと揺れる木箱に背中を預けた。
「チャンスねえ。……昨日までの俺なら、そう思ってたかもな。いつかあの街で一旗揚げて、馬鹿にした連中を見返してやるって」
「今は違うのですか?」
「場所なんて関係ないって、気づいちまったからな」
彼は懐から、小さな金属片を取り出した。
それは、昨日彼が修理してくれた、私の懐中時計の余り部品――摩耗して交換した、古いネジだった。
彼はそれを親指で弾き、空中でキャッチした。
「師匠はよく言ってた。『時計の中に宇宙を作れ』ってな。最高の精度、最高の機構。それを突き詰めるのに、王都の流行も、貴族の評判も関係ねえ。必要なのは、静かな環境と、没頭できる時間……そして」
彼は言葉を切り、私を見た。
その瞳は、朝焼けの光を受けて琥珀色に輝いていた。
「それを理解してくれる、たった一人の理解者だ」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
理解者。
それは、私のことだろうか。
「あんたは俺に賭けた。俺の技術を『本物』だと言って、全財産に近い投資をした。……正気の沙汰じゃないな」
「あら、私は計算高い女ですよ? これは勝算のある投資です」
私が少しムキになって言うと、アルドは肩を震わせて、くっ、と喉の奥で笑った。
笑った。
初めて見る、彼の本当の笑顔だった。
皮肉めいた冷笑でも、不敵な笑みでもない。
年相応の青年の、無邪気で、少しだけ照れくさそうな、柔らかい笑顔。
無愛想で強面だと思っていた彼の顔が、朝日の中で驚くほど優しく見えた。
「あんた、変わった令嬢だな」
彼は言った。
その声色は、呆れているようでいて、どこか慈愛に満ちていた。
「普通、貴族の娘ってのは宝石だのドレスだのに夢中になるもんだ。なのにあんたは、油まみれの歯車を見て目を輝かせる。……俺の師匠以外で、あんな目をする奴を初めて見た」
「……変わっていると言われるのは、慣れています」
「褒め言葉だよ。俺にとってはな」
アルドは視線を逸らし、幌の隙間から外の景色へ目を向けた。
街道の先には、まだ見ぬ北の大地が広がっているはずだ。
「北の雪山か……。悪くない。師匠の設計図を実現するには、雑音が多すぎる王都よりも、静かな場所の方がいい」
彼は独り言のように呟き、そして聞こえるか聞こえないかくらいの声で付け足した。
「……それに、あんたの言っていた『銀色の雪景色』ってやつを、俺も見てみたくなった」
馬車が大きく揺れた。
私は彼に聞こえないように、胸元の懐中時計をぎゅっと握りしめた。
トクトクと伝わってくる鼓動が、私の胸の高鳴りと重なる。
不安がないと言えば嘘になる。
領地は貧しい。借金もある。村人たちがアルドを受け入れてくれるかも分からない。
これから向かう先には、雪と氷に閉ざされた厳しい冬が待っている。
けれど、隣には彼がいる。
止まっていた時間を動かしてくれた、魔法使いのような時計師が。
「アルド」
「ん?」
「寒いわよ、私の領地は。覚悟しておいてね」
「へっ。俺の懐の寒さに比べりゃマシだろ」
軽口を叩き合いながら、私たちは笑った。
王都はもう、地平線の彼方に霞んで見えなくなっていた。
太陽が昇りきる。
眩しい光が、これからの私たちの道を照らすように、真っ直ぐに伸びていた。
長い旅が始まる。
そして、伝説となる時計作りへの第一歩が、今ここに刻まれたのだ。




