第5話:二人の「不適合者」
「……動いた」
私の掌の中で、祖父の懐中時計は力強い鼓動を刻んでいた。
チチチチチチ……。
その規則正しい音は、今の私にとってどんな音楽よりも美しく響いた。止まっていた私の人生が、再び息を吹き返したかのような錯覚さえ覚える。
私は顔を上げ、作業机の向こうにいる青年、アルドを見た。
彼はルーペを外し、作業用のライトを消したところだった。薄暗い工房の中で、彼の瞳だけが、まだ熱を帯びて光っている。
「……礼を言うのはまだ早い。これからが本番だ」
彼はぶっきらぼうにそう言ったが、その声には職人としての自負が滲んでいた。
私は確信した。
この人は、ただの時計修理工ではない。
王都の煌びやかな店に並ぶ、どんな有名な時計師たちよりも、遥かに優れた技術と、そして何より「時計への愛」を持っている。
「ありがとうございます……本当に。なんと御礼を申し上げればよいか」
私は時計を両手で包み込み、深く頭を下げた。
アルドは少し居心地が悪そうに視線を逸らし、油で汚れた手を布で拭った。
「礼なら金でいい。……と言いたいところだが、あんた、今は持ち合わせがないんだろ?」
図星を突かれて、私は言葉に詰まった。
確かに、手持ちの現金は少ない。実家の借金返済に追われ、自分の装飾品やドレスのほとんどを売ってしまった私に、彼のような凄腕の職人に支払えるような報酬は用意できていなかった。
「出世払いでいい。どうせ俺も、今は暇だからな」
彼はそう言って、私を追い払うように手を振った。
その横顔には、諦めのような、どこか自嘲的な影が落ちていた。
暇だから。
違う。そんなはずはない。
私は先ほど、扉の外で見てしまった光景を思い出した。
『期限は来週だ』『店を畳んで権利書をよこせ』と怒鳴る借金取りたちの姿を。
彼こそ、今すぐにお金が必要なはずだ。
それなのに、彼は私から金を取ろうとしない。
きっと、私の身なりを見て、同じように追い詰められている人間だと悟ったのだろうか。それとも、単に自分の技術を金に変えることに執着していないのか。
どちらにせよ、このままではいけない。
このままでは、彼は来週にはこの場所を失い、その素晴らしい才能と共に路頭に迷うことになる。
それは、世界にとっての損失だ。
そして何より――私自身が、それを許せなかった。
私の胸の奥で、カチリ、と何かのスイッチが入る音がした。
それは、かつて銀山を経営していた祖父から受け継いだ、ベルンシュタイン家の「当主としての血」だったかもしれない。
私は一歩、彼に近づいた。
「アルド様。……いいえ、マイスター・アルド」
「なんだよ、改まって」
「単刀直入に申し上げます。私に、あなたへの投資をさせていただけませんか?」
アルドの手が止まった。
彼は怪訝そうな顔で私を振り返り、まじまじと見た。
「投資? あんた、自分が何言ってるか分かってるのか? 俺は王都のギルドから爪弾きにされた、落ちこぼれの職人だぞ。それに借金まみれだ」
「存じております。先ほど、取り立ての方々がいらしたのも拝見しました」
「……盗み聞きとは趣味が悪いな」
彼は不快そうに眉を寄せたが、私は怯まなかった。
ここで引いたら、私の未来も、彼の未来も閉ざされてしまう。
「私は、エリアナ・ベルンシュタイン。北部の山岳地帯にある、ベルンシュタイン伯爵家の娘です」
「ベルンシュタイン……ああ、聞いたことあるな。かつて銀山で栄えたが、今は廃坑寸前の貧乏貴族、だったか」
「ええ、その通りです」
私は否定しなかった。事実だ。
ギルバート様が言ったように、寒々しくて、何もない土地。
「私の領地は、一年の半分が雪に閉ざされています。産業はなく、若者は仕事を求めて都市へ流出していくばかり。残っているのは、枯れかけた鉱山と、頑固な老人たちだけ」
「……それがどうした。身の上話なら他所でやってくれ」
「似ていると思いませんか?」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「時代遅れと言われる私の領地と、時代遅れと笑われるあなたの時計。どちらも、この華やかな王都では『不適合者』です」
アルドの瞳が、僅かに揺れた。
「ですが、私は知っています。私の領地の雪景色がどれほど美しいか。そして、あなたの作る時計が、どれほど素晴らしいか」
私は懐中時計を胸の前に掲げた。
「あなたは言いましたね。今の王都で流行っているのは、薄くて軽い、煌びやかな時計だと。あなたの作る時計は、頑丈すぎて分厚いから、誰にも見向きもされないと」
「ああ、そうだ。それが現実だ」
「でも、私の領地では違います」
私は言葉に力を込めた。
「北部の冬は過酷です。吹雪けば馬車は揺れ、極寒の気温は金属を収縮させます。王都で貴族様が身につけているような繊細な宝飾時計など、私の領地では一日と持ちません。すぐに止まってしまうでしょう」
アルドが、ハッとしたように顔を上げた。
職人である彼なら、すぐに理解できるはずだ。
環境が変われば、求められる性能も変わるということを。
「私たちが求めているのは、飾りではありません。どんな吹雪の中でも、どんな衝撃を受けても、決して止まらない『強さ』です。あなたの作る、その質実剛健な時計こそが、私の領地には必要なのです」
工房の空気が、変わった気がした。
アルドの瞳から、諦めの色が消え、代わりに鋭い光が宿り始めていた。
「……俺の時計が、必要だと?」
「はい。あなたの技術は、王都では評価されないかもしれません。でも、私の領地なら、あなたは英雄になれます」
私は彼に手を差し伸べた。
これは、プロポーズではない。
生き残るための、魂の契約だ。
「私の領地に来てください。住む場所と、工房を用意します。借金も、私がなんとかします」
「どうやって? 金はないんだろ」
「現金はありません。ですが、土地と資材はあります。廃坑になった鉱山には、まだ使える設備が残っています。それに……」
私は覚悟を決めて、最後の切り札を切った。
「あなたが必要としている『静寂』と『時間』を提供できます。王都の喧騒から離れ、誰にも邪魔されず、あなたが理想とする『究極の時計』を作るための環境を。その代わり、私の領地に産業を興してください。村の人々に技術を教え、あなたの時計で、あの貧しい土地を救ってほしいのです」
アルドは黙り込んだ。
彼は腕を組み、壁に掛けられた古時計たちを眺め、そして作業机の上に置かれたままの書きかけの設計図に視線を落とした。
師匠の遺した、夢の設計図。
ここにいては、それは永遠に紙切れのままだ。借金取りに奪われ、燃やされて終わるだけだ。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと息を吐き、私に向き直った。
その顔には、ニヤリと不敵な笑みが浮かんでいた。
それは、初めて会った時に見せた職人の顔とも、借金取りに見せた怒りの顔とも違う。
共犯者に向けるような、悪戯っぽい少年のごとき表情だった。
「……とんだ食わせ者だな、あんた」
「あら、お褒めの言葉と受け取っておきます」
「俺の借金は安くないぞ。それに、俺は愛想が悪い。村人と喧嘩するかもしれない」
「構いません。口喧嘩くらい、私が仲裁します」
「俺は妥協しない。材料費も馬鹿にならないぞ」
「どうぞ、最高のものを作ってください。その代わり、売れるものにしてくださいね」
アルドは肩をすくめ、やれやれといった様子で頭をかいた。
だが、その瞳は笑っていた。
「分かった。……乗ってやるよ、その話」
彼は私の差し出していた手を、ゴツゴツとした大きな手で握り返した。
油の匂いと、金属の冷たさ、そして人間の体温。
その握手は、どんな誓いの言葉よりも力強く、私を安心させた。
「俺の名前はアルド。アルド・ヴァン・ラインだ。よろしく頼むぜ、雇い主様」
「ええ。よろしくお願いいたします、私の最高の時計師様」
私は微笑んだ。
婚約破棄されたばかりの「可愛げのない」令嬢と、ギルドを追放された「頑固で不器用」な職人。
王都からはじき出された二つの歯車が、今ここでガチリと噛み合った。
私たちは、不適合者。
けれど、だからこそ描ける未来があるはずだ。
私は握りしめた手に力を込めた。
窓の外では、再び雪がちらつき始めていたが、もう寒さは感じなかった。
私の胸の奥には、彼が灯してくれた情熱の火が、確かに燃え始めていたからだ。




