第39話:結婚式
その日の朝、領地は抜けるような青空に覆われていた。
昨晩降り積もった新雪が、朝日に照らされてダイヤモンドダストのように煌めいている。
かつて「寒々しい」と言われたこの景色が、今日はまるで、世界中の光を集めた祝福のステージのように見えた。
私の部屋の鏡の前。
そこに映っているのは、かつての「地味で不幸な令嬢」ではない。
純白のドレスに身を包み、頬を紅潮させた、一人の幸せな花嫁だった。
「……お美しいです、お嬢様」
侍女たちが、涙ぐみながらヴェールを整えてくれる。
このドレスは、王都の有名デザイナーに頼んだものではない。領地の女性たちが、この日のために最高級の羊毛と絹を使い、総出で織り上げてくれたものだ。
胸元や袖口には、銀糸で繊細な刺繍が施されている。
雪の結晶と、歯車を模した模様。
私たちの「誇り」が刻まれたドレス。どんな高価なブランド品よりも、私にとっては価値がある。
「準備はよろしいですか、お嬢様」
ドアがノックされ、ハンスが入ってきた。
彼は今日のために新調したモーニングコートを着ていたが、その目は既に真っ赤に腫れていた。
「ハンス……。泣くのは早いわよ」
「だ、だって……ううっ……こんな日が来るなんて……! 旦那様に見せて差し上げたかった……!」
ハンスはハンカチで顔を覆い、号泣している。
私は苦笑しながら、彼に近づき、その背中を優しく撫でた。
「ありがとう、ハンス。あなたがいてくれたから、私はここまで来られたのよ。……さあ、エスコートをお願い」
「は、はいっ! 喜んで!」
ハンスが震える腕を差し出す。
私はその腕に手を添え、部屋を出た。
屋敷の外に出ると、冷たく澄んだ空気が肌を刺した。
けれど、寒くはない。
屋敷から村の教会へと続く道には、赤い絨毯……ではなく、村人たちが撒いてくれた赤い木の実と、常緑樹の葉が敷き詰められていたからだ。
「おめでとうーッ!!」
「エリアナ様ー! 綺麗だよー!」
「幸せになれよー!」
沿道には、村人だけでなく、近隣の町や、遠く王都からも駆けつけた人々が溢れていた。
鉄道会社の職員、海洋商会の船乗りたち、そして私たちの時計を愛用してくれている顧客たち。
誰もが笑顔で手を振り、花びらを投げてくれる。
私は手を振り返しながら、一歩ずつ歩いた。
二年近く前、この道を馬車で通った時は、誰もいなかった。
閉ざされた窓と、諦めに満ちた静寂だけがあった。
それが今、こんなにも温かい声で満たされている。
私たちが作ったのは、時計だけじゃない。この「笑顔」も作ったのだ。そう思うと、胸がいっぱいになった。
教会の前に着くと、そこには15人の弟子たちが整列していた。
彼らもまた、作業着ではなく、それぞれの晴れ着(何十年も前の流行遅れのものだが、綺麗にプレスされていた)を着て、誇らしげに胸を張っている。
「お嬢様、到着だ!」
「親方が中でガチガチになって待ってますぜ!」
ブルーノ爺さんがニカッと笑い、重い木の扉を開けた。
パイプオルガンの音色が響き渡る。
私はハンスの腕から離れ、祭壇へと続くバージンロードを見据えた。
ステンドグラスから差し込む光の先に、彼が立っていた。
アルド。
彼は、白銀色のタキシードを着ていた。
『ベルン・シルバー』をイメージしたというその色は、彼の琥珀色の瞳と黒髪によく似合っていた。
彼は緊張した面持ちで、私が歩いてくるのを直立不動で待っている。
その強張った表情が愛おしくて、私は自然と笑みがこぼれた。
一歩、また一歩。
彼との距離が縮まるたびに、思い出が走馬灯のように蘇る。
路地裏での出会い。
雪の中の契約。
暖炉の前での温もり。
そして、嵐の海での約束。
全てが、今日この瞬間のためにあったのだ。
祭壇の前まで来ると、アルドが手を差し伸べた。
私はその手を取った。
大きくて、温かくて、そして少し汗ばんだ手。
この手が、世界を変え、私を救ってくれた手だ。
「……綺麗だ」
彼が、誰にも聞こえないような小声で囁いた。
「見惚れて、心臓が止まるかと思った」
「ふふ。時計師が心臓を止めちゃダメでしょう?」
「違いない」
彼がいつものようにニッと笑い、私の緊張も解けた。
神父様が咳払いをして、式を始める。
誓いの言葉は、ありきたりなものだった。
病める時も、健やかなる時も。
でも、私たちにとってその言葉は、机上の空論ではない。
本当に病める時も、貧しい時も、死にかけた時も、共に乗り越えてきたからこそ、言葉の一つ一つが重みを持って響く。
「……誓います」
私が答えると、次は指輪の交換だ。
アルドがポケットから取り出したのは、この日のために内緒で作ってくれていた『ベルン・シルバー』の指輪。
小さな歯車とネジが埋め込まれた、世界に一つだけの指輪だ。
彼は私の左手を取り、震える指で、薬指にそれを滑らせた。
冷たい金属が肌に触れ、すぐに体温で馴染んでいく。
「……俺の時間は、すべて君に捧げる」
彼は祭壇の前で、もう一度その言葉を口にした。
神への誓いではなく、私への誓いとして。
「私も。……私の命が続く限り、あなたと共に時を刻みます」
私も、彼のために用意した指輪を、彼のごつごつした指にはめた。
お揃いの、洋銀の指輪。
これで私たちは、名実ともに夫婦となり、永遠のパートナーとなった。
「では、誓いの口づけを」
神父様の言葉に、アルドが私のヴェールを上げた。
至近距離で見つめ合う。
彼の瞳の中に、私が映っている。
私の瞳の中にも、彼が映っているだろうか。
彼がゆっくりと顔を近づける。
まつ毛が触れ合う距離。
そして、唇が重なった。
柔らかく、温かい感触。
工房の夜にしたキスよりも、少し長く、深いキス。
その瞬間だった。
ゴーン、ゴーン、ゴーン……。
教会の鐘が鳴り響いた。
正午を告げる鐘だ。
でも、それだけではなかった。
カラン、カラン、カラン……。
キン、コン、カン、コン……。
村の至る所から、鐘の音が響き始めたのだ。
工房の始業の鐘。
広場に新設された時計塔の鐘。
そして、学校のチャイム。
音色はバラバラだ。重厚な音、軽やかな音、高い音、低い音。
けれど、そのリズムは完全に一致していた。
一秒のズレもなく、完璧に調和した大合唱となって、谷間の村全体に響き渡る。
「……っ!」
私は驚いて唇を離した。
アルドを見ると、彼は悪戯っぽく笑っていた。
「……驚いたか?」
「アルド、これ……」
「村中の時計を、電信で繋いで同期させたんだ。この瞬間に、一斉に鳴るようにな」
彼は窓の外を指差した。
「これが、俺たちの『新しい時』の始まりの合図だ」
村全体が、祝福の音色に包まれている。
それは、私たちが作り上げた産業の音であり、人々の生活の音であり、そして平和の音だった。
かつて静寂に支配されていたこの村が、今はこんなにも賑やかな「時」を歌っている。
「……素敵。最高の演出だわ」
私は涙をこらえきれず、また彼に抱きついた。
教会の中からも、外からも、割れんばかりの拍手と歓声が湧き上がる。
「おめでとう!!」
「最高だぞ、親方!」
「お幸せにー!!」
フラワーシャワーが降り注ぐ中、私たちは腕を組んでバージンロードを歩き出した。
扉の向こうには、眩しいほどの光が溢れている。
教会の外に出ると、空には白い鳩が放たれ、青空へ向かって舞い上がっていった。
その先には、雪を頂いた山々が聳え立っている。
厳しい冬も、美しい春も、これからは二人で見ていくのだ。
「……エリアナ」
アルドが、隣で私を呼んだ。
「愛してる」
直球だった。
照れ屋の彼が、皆の前で、大声で言った。
私は顔が真っ赤になるのを感じたけれど、それ以上に胸が熱くなった。
「私もよ。……愛してるわ、アルド」
私たちはもう一度、光の中でキスをした。
鐘の音はまだ鳴り響いている。
それは、私たちの物語がハッピーエンドを迎えた合図であり、同時に、これから始まる長い長い未来へのファンファーレでもあった。
かつて止まっていた時間は、もう二度と止まらない。
私たちは歩き出す。
永遠に続く、愛しい時の中へ。




