第37話:英雄の帰還
王都を出発してから十日。
私たちは再び、白銀の世界へと戻ってきていた。
馬車の窓から見える景色は、見慣れた雪山と針葉樹の森だ。
かつては、この白さが「絶望」の色に見えた。寒々しく、何も生み出さない、死に絶えた土地。
けれど今は違う。
太陽の光を反射してキラキラと輝く雪原は、まるで一面にダイヤモンドを散りばめたように美しく、私たちを祝福してくれているようだ。
「……帰ってきたな」
向かいの席で、アルドが伸びをした。
彼は王都で着ていた窮屈な礼服を脱ぎ捨て、いつもの着慣れた作業着(王都で新調した上等なものだが)に戻っている。やはり彼には、この姿が一番似合う。
「ええ。やっぱり、ここの空気が一番美味しいわ」
「違いない。王都の空気は煤煙と香水の匂いがキツすぎて、鼻が曲がりそうだった」
アルドは窓を少し開け、冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
その表情は、王都にいた時のような張り詰めたものではなく、工房で作業している時のような、穏やかで満ち足りたものだった。
馬車が峠を越え、盆地にある私たちの村が見えてきた。
その瞬間、私は目を疑った。
「……あれは?」
村の入り口から広場にかけて、色とりどりの旗がはためいている。
よく見ると、それは古い布や服を継ぎ接ぎして作った手製の旗だった。
そして、黒山のような人だかり。
村人だけではない。近隣の町や、もしかしたら遠方の都市からも人が集まっているのかもしれない。
馬車が近づくと、ドォォォン! という音が響いた。
祝砲? いいえ、あれは昔、鉱山の発破に使っていた火薬の音だ。
「お帰りなさいませぇぇぇぇッ!!」
「万歳! ベルンシュタイン万歳!」
「マイスター・アルド万歳!」
地鳴りのような歓声が巻き起こった。
御者が馬を止めるのと同時に、私たちは歓喜の渦に飲み込まれた。
馬車を降りると、真っ先にハンスが飛び込んできた。
彼は王都には同行せず、留守を預かっていたのだ。
「お嬢様……! マイスター……! 新聞を見ましたぞ! 王都での快挙、号外が出ておりました!」
ハンスは新聞の切り抜きを握りしめ、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「『銀の明星、嵐を征す』! 『辺境の奇跡、王室御用達に』! ……長生きはするもんですなぁ、こんな晴れがましい日が来るなんて!」
「ただいま、ハンス。留守の間、ありがとう」
私がハンスの手を握ると、後ろから15人の弟子たちが押し寄せてきた。
ブルーノ爺さんを筆頭に、みんな誇らしげな顔をしている。
「親方! 見ましたか、今の発破! タイミングばっちりだったでしょう!」
「バカ野郎、煙が多すぎてお二人が見えねえじゃねえか!」
「それより親方、留守の間のノルマ、全部終わらせておきましたぜ! 検品お願いします!」
彼らは口々に叫びながら、アルドを取り囲んだ。
アルドは「うるせえぞ、お前ら」と苦笑しながらも、弟子たちの頭をくしゃくしゃと撫でたり、肩を叩いたりしている。
その光景を見て、私は胸が熱くなった。
ここはもう、寂れた廃村ではない。
世界一の時計師と、その誇り高き弟子たちが住む「職人の街」なのだ。
広場には、長いテーブルが並べられ、村中の食料とお酒が集められていた。
即席の凱旋パーティーだ。
誰かがアコーディオンを弾き始め、広場はダンスホールへと変わる。
私たちも、もみくちゃにされながら乾杯の音頭を取った。
「ベルンシュタインの未来に!」
「「「乾杯!!」」」
安いエール酒だったが、その味は王宮で飲んだ最高級ワインよりもずっと芳醇で、心に染み渡った。
宴の最中、私は一人の商人風の男に声をかけられた。
身なりは良いが、靴は泥だらけだ。遠くから来たのだろう。
「お初にお目にかかります、伯爵令嬢。私は大陸鉄道会社の購買担当です」
男は恭しく名刺を差し出した。
「此度のコンペティションの結果を拝見し、居ても立っても居られず飛んでまいりました。単刀直入に申し上げます。貴社の時計を、我が社の全路線の公式時計として採用させていただきたい!」
「えっ……全路線、ですか?」
「はい! 駅の掛け時計から、車掌の懐中時計まで全てです! まずは千個、前金で発注させてください!」
千個。
桁違いの注文に私が呆気にとられていると、横から別の男が割り込んできた。
「ちょっと待った! うちは海洋貿易商会だ! ウチの船団にも『銀の明星』と同等のクロノメーターを十台、いや二十台欲しい!」
「ズルいぞ! こっちは北方の軍部だ! 将校用の時計を……」
あっという間に、私は数人の商人たちに囲まれてしまった。
彼らは皆、目を血走らせて注文書を突きつけてくる。
『壊れない時計』。
『王室が認めた精度』。
そのブランド力は、私の想像を遥かに超えるスピードで世界を駆け巡っていたのだ。
「あ、あの、皆様、順番に……! 今は在庫が……!」
嬉しい悲鳴を上げていると、アルドが助け舟を出してくれた。
彼は商人たちの前に立ちはだかり、無愛想に、しかし威厳を持って言った。
「悪いが、俺たちの時計は大量生産品じゃねえ。職人が一つ一つ手作業で調整してるんだ。千個も作るには、今の体制じゃ百年かかる」
商人たちが静まり返る。
チャンスを逃すのか、という落胆の空気が流れた。
だが、アルドはニヤリと笑った。
「……だが、待てるなら作ってやる。俺たちは逃げねえ。最高の品質を保証する代わりに、納期と値段は俺たちが決める。それでもいいなら、名前を書いていけ」
その強気な態度に、商人たちは怒るどころか、逆に目を輝かせた。
「待ちます!」「言い値で買います!」と、次々に契約書にサインをしていく。
これこそが、一流の証。
私たちはもう、誰かに頭を下げて買ってもらう必要はない。世界が、私たちの時計を求めて列を作っているのだ。
* * *
夜になり、宴が落ち着いた頃。
私とアルドは、工房の執務室にいた。
机の上には、山のような注文書と、王都から持ち帰った報奨金(金貨一万枚)の目録が置かれている。
「……すごいことになったわね」
私が呟くと、アルドは窓際でコーヒーを飲みながら肩をすくめた。
「ああ。これじゃあ、隠居生活どころか、死ぬまで働き詰めだ」
「嫌なの?」
「まさか。……望むところだ」
彼は窓の外を見た。
村のあちこちに明かりが灯り、活気に満ちている。
かつて廃墟寸前だったこの村が、今や大陸中が注目する「産業の中心地」になろうとしている。
「エリアナ。この金で、やりたいことがある」
アルドが金貨の目録を指差して言った。
「借金の返済や、設備の増強だけじゃねえ。もっと先のことだ」
「先のこと?」
「ああ。……『時計学校』を作る」
彼は真剣な瞳で私を見た。
「注文は増える一方だ。だが、俺と15人の弟子だけじゃ限界がある。それに、爺さんたちはいつか引退する。……技術を継承する若いのが必要だ」
時計学校。
それは、私の頭にはなかった発想だった。
「王都のギルドは閉鎖的だ。親方の許しがなけりゃ技術も教えてもらえねえし、才能があっても家柄がなけりゃ潰される。俺の師匠みたいにな」
彼の声に、静かな怒りと、そして希望が混じる。
「だから俺は、ここで誰にでも門戸を開く。身分も、年齢も、性別も関係ねえ。やる気と才能がある奴なら、誰でも一流の時計師になれる場所を作るんだ」
彼は窓の外の雪景色を指差した。
「この静かな環境は、時計作りを学ぶには最高だ。寮を作って、飯を食わせて、徹底的に技術を叩き込む。……そうすれば、十年後にはここから数百人のマイスターが生まれる」
私は想像した。
この谷あいの村に、美しいレンガ造りの校舎が立ち並び、制服を着た若者たちが希望に燃えて歩いている姿を。
工房からは絶えず旋盤の音が響き、ここから出荷された時計が、世界中の人々の時を刻む未来を。
「……素敵ね」
私は心からそう思った。
「『時計の聖地』……いいえ、新しい時代の『グラスヒュッテ(輝く小屋)』ね」
「グラスヒュッテ? なんだそりゃ」
「ふふ、なんでもないわ。私の好きな、古い物語に出てくる地名よ」
私はアルドの隣に立ち、同じ景色を見つめた。
かつて、私が彼に「投資」を持ちかけた時、こんな未来が来るとは想像もしていなかった。
私の投資は、金貨数枚から始まり、今や一つの都市を生み出そうとしている。
「やりましょう、アルド。私も手伝うわ。校舎のデザインは私がするし、経営のカリキュラムも作る。あなたは技術を教えることに専念して」
「ああ。頼もしいな、理事長」
「ふふ。あなたは校長先生ね」
私たちは顔を見合わせて笑った。
二人の間には、もはや言葉はいらなかった。
同じ夢を見ている。
そして、それを実現する力を持っている。
「……さて」
アルドがコーヒーカップを置き、私に向き直った。
その表情が、ふと真剣なものに変わる。
「エリアナ。仕事の話はこれで終わりだ。……少し、付き合ってくれないか?」
「え?」
「渡したいものがあるんだ。ここじゃなくて……静かな場所で」
彼の耳が少し赤い。
私は心臓が跳ねるのを感じた。
出発の朝、彼が言った言葉を思い出す。
『コンペに勝ったら、言いたいことがある』。
「……ええ。喜んで」
私は微笑んで頷いた。
外では雪が降り始めていた。
英雄の帰還。それは、物語の終わりではない。
ここから、本当の伝説が始まるのだ。
そして私たち二人の物語も、新しい章へと進もうとしていた。




