第34話:「時間」の証明
王都港の波止場は、数千人の観衆が息を飲む音さえ聞こえるほどの静寂に包まれていた。
夕闇が迫る中、篝火の炎がパチパチと爆ぜる音だけが響く。
仮設テーブルの上には、黒檀の箱が開かれて置かれている。
その中にあるのは、ベルンシュタイン&ライン工房が送り出した『銀の明星』。
三日間の嵐を潜り抜け、奇跡の生還を果たした時計だ。
審査委員長である海軍総司令官、隻眼の老提督が、震える手で懐中時計を取り出した。
それは、王立天文台の標準時刻と同期され、一秒の狂いもなく管理されている「基準時計」だ。
提督は、まず『銀の明星』の文字盤を凝視した。
青焼きされた秒針は、カチリ、カチリと、力強くリズムを刻んでいる。
6時位置にある『ジャイロ・ケージ』は、重力を嘲笑うかのように、空中で優雅な回転を続けている。
外装の洋銀には、潮風によるくすみ一つ見られない。
「……現在時刻、午後6時18分42秒」
アルドが静かに告げた数字。
提督は、手元の基準時計と見比べる。
43秒、44秒、45秒……。
二つの時計の秒針は、まるで示し合わせたかのように、全く同じ角度で動いていた。
提督が顔を上げない。
沈黙が長すぎる。
観衆の間に、不安と期待がさざ波のように広がり始めた時だった。
「……誤差、プラス一秒」
提督の掠れた声が、拡声器を通さずとも、最前列の人々の耳に届いた。
「いち……秒?」
誰かが鸚鵡返しに呟く。
その意味を理解するのに、人々は数瞬の時間を要した。
「三日間だぞ……? あの『魔の海域』の嵐の中で、船が転覆しかけるほどの揺れを受け続けて……たったの一秒しか狂っていないと言うのか!?」
提督が叫んだ。その隻眼には、信じられないものを見る驚愕と、そして深い畏敬の念が浮かんでいた。
既存の最高級クロノメーターでさえ、陸上の静止状態で日差数秒が当たり前だ。ましてや嵐の海上では、分単位のズレが生じるのが常識だった。
だが、この銀色の時計は、物理法則を超越したかのような精度を叩き出したのだ。
「……化け物だ」
審査員席にいた王立アカデミーの学者が、眼鏡をずり落としながら呻いた。
「あの『ジャイロ・ケージ』か……! 重力を相殺するあの機構が、揺れすらも動力に変えてしまったとでも言うのか!」
会場がざわめき始める。
まだ歓声ではない。あまりの衝撃に、声を上げることを忘れているのだ。
「次! アークライト子爵側の時計を検分する!」
提督が声を張り上げた。
比較対象がなければ、勝負は決まらない。
促され、ギルバート・アークライトの従者たちが、巨大な木箱をテーブルに運んできた。
『グラン・ロワ』から回収されたばかりの箱だ。
箱自体は立派な装飾が施されているが、その角は欠け、泥と海水で汚れている。
マイスター・ベルナールが、蒼白な顔で進み出た。
彼の手は激しく震えており、鍵穴に鍵を差し込むことすらままならない。
ガチャリ。
ようやく鍵が開き、重い蓋が持ち上げられた。
「あっ……」
覗き込んだ誰かが、短い悲鳴を上げた。
そこに在ったのは、「無惨」としか言いようのない残骸だった。
最高傑作『ロイヤル・グローリー』。
純金と宝石で飾られたその時計は、見るも無残な姿に変わり果てていた。
船の激しい揺れに耐えきれず、固定具が外れたのだろうか。ケースは凹み、風防のクリスタルガラスは粉々に砕け散り、文字盤の上のダイヤモンドは剥がれ落ちて箱の底に散らばっている。
そして何より致命的だったのは、その針だ。
時針は「2時」を、分針は「15分」を指したまま、ピクリとも動いていない。
出航した日の、嵐が始まった直後の時刻だ。
「……停止時刻、出航初日の午後2時15分」
提督が冷徹に告げた。
「以後の記録なし。……全壊と認める」
その宣告は、死刑判決のように重く響いた。
全壊。
修理不可能。
国の威信をかけ、莫大な予算と百人の職人を投じて作られた「至宝」は、自然の猛威の前では、ただの脆い宝石箱に過ぎなかったのだ。
「ひっ……!」
ベルナールが腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
ギルバートは、青を通り越して土気色になった顔で、ただ呆然と壊れた時計を見つめている。
彼のプライド、権威、そして未来。その全てが、砕けたガラスのように散らばっていた。
提督は二つの時計――輝き続ける『銀の明星』と、死に絶えた『ロイヤル・グローリー』を見比べ、静かに息を吐いた。
そして、毅然とした態度で観衆の方を向いた。
「勝負あった!」
提督の声が、夕闇の港に轟いた。
「アークライト側の時計は、嵐に耐えられず破損、停止した! 対して、ベルンシュタイン側の時計は、過酷な環境下においても機能を維持し、かつ『誤差一秒』という神業的な精度を証明した!」
提督は『銀の明星』を高々と掲げた。
篝火の炎を受けて、洋銀のケースが温かなオレンジ色に輝く。
「よって! 本コンペティションの勝者は、ベルンシュタイン&ライン工房! この時計こそが、我が国海軍の未来を託すに相応しい『王者の時計』であると認定する!!」
一瞬の静寂。
そして。
わああああああああああああああッ!!!!
爆発だった。
数千人の観衆が、一斉に歓声を上げた。
帽子が空を舞い、指笛が鳴り響き、足を踏み鳴らす音が地面を揺らす。
それは、単なる勝敗への興奮ではない。
「本物」を目撃した感動と、弱い者が強い者を実力でねじ伏せたカタルシスが、人々の心を熱狂させていた。
「すげえ! 本当にやりやがった!」
「誤差一秒だってよ! 信じられねえ!」
「見たか、あの輝きを! あれこそが職人の魂だ!」
アルドとエリアナの周りに、人々が押し寄せる。
ハンスをはじめとする弟子たちは、涙を流して抱き合っている。
『セイレーン』の船員たちも、甲板から帽子を振って祝福している。彼らもまた、この時計に命を救われた証人だ。
その喧騒の片隅で。
ギルバートは震える手で、壊れた時計の残骸に触れようとしていた。
「……なぜだ」
彼の唇が動く。
「金だぞ……。最高純度の金を使ったんだ。ダイヤモンドも、ルビーも……世界一美しいはずなのに……。なぜ、あんな薄汚い鉄クズに負けたんだ……」
彼はまだ理解していなかった。
時計の本質を。美しさの定義を。
「……ギルバート殿」
声をかけたのは、アルドだった。
彼は歓呼の輪を抜け出し、敗者の前に立っていた。
その表情に、嘲りはなかった。ただ、職人としての静かな誇りがあるだけだ。
「あんたは言ったな。『時計は貴族のアクセサリーだ』と」
アルドは壊れた『ロイヤル・グローリー』を一瞥した。
「確かに、その時計は綺麗だ。飾っておくには最高だろうよ。……だがな、海の上じゃ『重さ』は罪になるんだ」
アルドは自分の時計――『銀の明星』を指差した。
「俺たちは削った。余計な装飾も、無駄な贅肉も、全部だ。見栄を張るための重さを捨てて、ただ『動く』ことだけに特化した。……だから、生き残れたんだ」
引き算の美学。
エリアナと共に辿り着いた、真実。
「あんたが負けたのは、金が足りなかったからじゃねえ。……捨てられなかったからだ。プライドという重荷をな」
ギルバートは何も言い返せなかった。
彼はガクリと膝をつき、地面に拳をついた。
その背中は、かつての傲慢な貴族の姿ではなく、ただの敗北者のそれだった。
遠巻きに見ていた貴族たちからも、冷ややかな視線が注がれる。
「アークライト家も終わりだな」「見る目がなかったのさ」「これからはベルンシュタインの時代だ」
手のひらを返したような世間の声。それが、彼が今まで利用してきた「権力」の正体だった。
アルドはもう彼を見なかった。
踵を返し、待っているパートナーの元へ歩き出す。
エリアナが立っていた。
夕日を背に受け、涙を拭いながら、満面の笑みで彼を迎える。
その姿は、どんな宝石よりも美しく輝いて見えた。
「……終わったな」
「ええ。私たちの勝ちよ」
二人は見つめ合い、頷いた。
言葉は多くなくていい。
この会場を包む拍手の音と、そして時を刻み続ける『銀の明星』の音色が、全てを語っていたから。
提督が、恭しくアルドに近づいた。
「マイスター・アルド、そしてベルンシュタイン嬢。……素晴らしい仕事だった。国王陛下も、じきじきにお言葉をかけたいと仰せだ。王城へ参られよ」
それは、正式な勝利宣言であり、彼らが「王室御用達」として認められた瞬間だった。
貧乏な伯爵令嬢と、追放された時計師。
二人の「不適合者」が、世界を変えたのだ。
エリアナはアルドの腕をとった。
二人は堂々と、王城へと続く赤絨毯の上を歩き出した。
その背中を、割れるような喝采が見送る。
時計の針は進む。
新しい時代へと向かって、力強く、正確に。




