第33話:帰港
心臓の音が、打ち寄せる波音よりも大きく、激しく鼓膜を叩いていた。
私の視線は、夜霧が立ち込める水平線の一点に釘付けになっていた。そこに生まれた、頼りなく揺れる小さな光の粒。
それは、絶望という名の分厚い闇に穿たれた、唯一の希望の穴だった。
港にいた全員が、息を呑んでその光を見つめていた。
「もうダメだ」と吐き捨てて帰りかけていた群衆も、嘲笑を浮かべていたギルバート様たちも、足を止めて海を振り返っている。
誰も言葉を発しない。ただ、冷たい海風がヒューヒューと鳴り、カモメの不安げな声が遠くで響くだけだ。
光は、少しずつ、しかし確実にこちらへと近づいてくる。
一つではない。マストの灯りが二つ、ゆらゆらと重なり合いながら大きくなっていく。
生きて。
お願いだから、生きていて。
私は祈るように両手を胸の前で組み、爪が食い込むほど強く握りしめた。
やがて、霧が晴れるように、巨大な黒い影がその姿を現した。
「……船だ」
誰かが掠れた声で呟いた。
その言葉が合図だったかのように、人々が桟橋の先端へと押し寄せる。
現れた船の姿に、誰もが息を呑んだ。
ボロボロだった。
帆は裂け、ロープは千切れ、船体には荒波に叩かれた傷跡が無数に刻まれている。マストの一部は折れ、応急処置の跡が痛々しい。あの嵐との死闘がいかに壮絶で、過酷なものだったかを物語る、満身創痍の姿。
しかし、その船は沈んでいなかった。
傷だらけの船体を誇るように、波を切り裂き、堂々たる王者の風格でこちらへ向かってくる。
船首で波飛沫を浴びている、木彫りの像が見えた。
歌う魔物――セイレーン。
私たちが送り出した、あの古びたフリゲート艦だ。
あの日、「ボロ船」と笑われた彼女が、今は誰よりも美しく、力強く見えた。
「『セイレーン』だ……! 帰ってきたぞぉぉぉッ!!」
港が揺れるほどの歓声が上がった。
隣でハンスが泣き崩れ、地面に膝をついて「おお、神よ、神よ」と繰り返している。
私も叫びたかった。けれど、喉が詰まって声が出ない。ただ、熱い涙が止めどなく溢れ出し、視界を滲ませていく。
でも、驚きはそれだけではなかった。
『セイレーン』の後ろから、太いロープに引かれるようにして、もう一つの巨大な影がぬっと現れたのだ。
最新鋭戦列艦『グラン・ロワ』。
不沈艦と呼ばれたその巨体は、見る影もなかった。煌びやかだった金色の装飾は波にさらわれ、メインマストは根元からへし折れ、船体は大きく左に傾いている。自力航行もままならないのか、エンジンの音も聞こえず、ただ『セイレーン』に曳航されて無様に付いてくるだけだ。
まるで、驕り高ぶった巨人が自然の猛威に屈し、小さな勇者に手を引かれて帰ってきたような光景。
誰の目にも明らかだった。
どちらが主導権を握って帰ってきたのかが。
「……信じられない」
近くにいた貴族が、呆然と口を開けていた。
「あのボロ船が……最新鋭艦を助けて帰ってきたのか……?」
「じゃあ、時計は? アークライトの時計はどうなったんだ?」
「決まってるだろう! 船があんな状態で、時計が無事なわけがない!」
ざわめきが驚愕の波となって広がる中、『セイレーン』がゆっくりと接岸体制に入った。
甲板の上を、船員たちが走り回る。彼らの顔は煤と塩で真っ黒で、服は擦り切れ、誰もが疲労困憊の様子だった。だが、その瞳はどうだ。勝利の喜びにギラギラと輝き、白い歯を見せて笑い合っている。
彼らは誇り高き生還者なのだ。
ゴードン船長が大声で指示を出し、太い纜が桟橋のボラードに投げ渡された。
船が岸壁に当たり、ギシッという音と共に停止する。
そして。
タラップが降ろされると同時に、一人の男が姿を現した。
アルド。
見間違えるはずがない。
愛想のない仏頂面も、猫背気味の立ち姿も、すべてが愛おしい私のパートナー。
出発の時に私が選んだフロックコートは泥と油で汚れ、髪は潮風でボサボサになり、無精髭が伸びて疲れ切った顔をしている。
けれど、彼はしっかりと自分の足で立っていた。
その左脇には、黒檀の箱――『銀の明星』が入ったケースが、まるで赤子を抱くように大切に抱えられている。
「アルド……ッ!」
私は叫んだ。
貴族の品位も、淑女の作法も、もうどうでもよかった。
私はドレスの裾をまくり上げ、桟橋を駆けた。
「お嬢様、お待ちを!」とハンスが叫ぶのも聞かず、警備兵が制止しようと手を伸ばすのもすり抜けて。
一秒でも早く、彼に触れたかった。
彼が幻ではないことを、確かめたかった。
タラップの中ほどで、アルドが私に気づいた。
彼は驚いたように目を見開き、一瞬足を止めた。そして――ふっと、柔らかく相好を崩した。
あの、出発の朝に見せたのと同じ、無邪気で、どこか安心したような優しい笑顔。
「……ただいま、エリアナ」
彼が桟橋に降り立った瞬間、私はその胸に飛び込んだ。
「おかえりなさいッ!!」
勢い余ってぶつかるように抱きつく。
彼はよろめきながらも、空いている右腕で私をしっかりと受け止めてくれた。
鼻孔を満たす潮の匂い。機械油の匂い。そして、懐かしい彼の体温。
生きている。
ここにいる。
ドクン、ドクンという心臓の音が、私の胸の鼓動と重なって、力強く脈打っている。
「……遅いじゃないのよ、バカ……!」
涙で顔がぐしゃぐしゃになりながら、私は彼の胸に顔を埋めた。
安堵で膝が震え、彼にしがみついていなければ崩れ落ちそうだった。
「心配したんだから……! もう二度と会えないかと思った……! 海を見てたら、悪いことばかり考えて……っ!」
「悪かったよ。ちょっと寄り道しててな」
アルドは困ったように笑い、私の背中に回した手に力を込めた。
大きくて、ゴツゴツとした職人の手。
その手が、私の震えを鎮めるように、優しく、何度も背中を撫でてくれる。
「約束したろ? 必ず帰るって」
「……うん、うん……ッ!」
言葉にならなかった。
ただ、彼の温もりを確かめるように、しがみつくことしかできなかった。
周りからどう見られているかなんて関係ない。数万人の視線も、ギルバート様の目も、今はどうでもいい。
今、世界には私たち二人しかいなかった。
互いの体温を分け合い、生還の喜びを噛みしめる、この瞬間だけが真実だった。
「……コホン」
わざとらしい咳払いが頭上から降ってきた。
私たちはハッとして体を離した。
目の前には、タラップを降りてきたゴードン船長が立っていた。彼もまたボロボロの姿だが、その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。
「感動の再会を邪魔して悪いがな、お嬢ちゃん。まずはこいつの結果発表をさせてくれねえか? 俺たちはこいつのために、命がけで帰ってきたんだ」
船長は、アルドが持っている黒檀の箱を指差した。
周囲の視線が一斉にその箱に集まる。
いつの間にか、老提督をはじめとする審査員たちや、国王陛下の代理人たちも駆けつけてきていた。
そしてその背後には、青ざめた顔のギルバート様とベルナールの姿もあった。
「時計屋! 時計は無事か!?」
老提督が叫ぶように尋ねた。その隻眼は、期待と不安で揺れている。
アルドは私に目配せをし、一度だけ力強く頷くと、ゆっくりと箱を近くの仮設テーブルの上に置いた。
「ええ。船も、乗組員も、全員無事です。……そして、こいつも」
アルドは手際よく、運搬用の革カバーを解いた。
中から現れたのは、黒檀の化粧箱だ。
その蓋の留め金には、出発前に施された王家の封蝋が、砕けることなく残っている。
これこそが、航海中に一度も箱を開けず、不正な調整を行っていないことの証明だ。
アルドは審査員たちに封印が無事であることを示すと、自身の爪で封蝋を割り、蓋に手をかけた。
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた。
波の音さえ止まったかのような、張り詰めた静寂。
アルドが、私を見た。
その瞳は言っていた。
『見せてやるぞ。俺たちの勝利を』と。
彼はゆっくりと、黒檀の蓋に手をかけた。
さあ、審判の時だ。
私は胸の前で手を組み、祈るようにその手元を見つめた。
世界が変わる瞬間が、今、訪れようとしていた。




