第30話:止まらない心臓
出航から二日目の深夜。
『魔の海域』は、その忌まわしい名の通りの本性を現した。
海の色が変わった。
鉛色だった海面は、どす黒い墨汁を流したような色に変わり、空は厚い雨雲に覆われて昼間でも夜のように暗い。
風が唸りを上げて吹き荒れ、波は山脈のように隆起しては、俺たちが乗るフリゲート艦『セイレーン』を襲った。
「総員、配置につけぇぇぇ!! 帆を絞れ! 風に持っていかれるぞ!」
甲板では、船長の怒号と船員たちの叫び声が飛び交っていた。
船体は木の葉のように揉みくちゃにされ、ギシギシと悲鳴を上げている。
俺がいる船長室も、天地がひっくり返ったかのような惨状だった。固定していない椅子や小物が壁から壁へと飛び交い、床に立つことさえままならない。
「……クソッ、予想以上だな」
俺は壁に固定された手すりにしがみつき、必死で吐き気を堪えた。
船酔いはとっくに限界を超えている。胃の中身は全て吐き出し、今は苦い胃液の味しかしない。
だが、俺の目は一点に釘付けになっていた。
部屋の中央、床にボルトでガッチリと固定された台座。
その上に鎮座する、黒檀の箱。
『銀の明星』だ。
ドォォォォン!!
巨大な波が船腹に激突し、船が大きく右に傾く。傾斜角は45度を超えているだろう。普通の人間なら転がり落ちる角度だ。
俺は這うようにして時計に近づき、ガラス越しに文字盤を覗き込んだ。
……チチチチ……ヒュン……。
動いている。
船が激しく揺れ、重力がデタラメな方向からかかっているにも関わらず、6時位置にある『ジャイロ・ケージ』は、涼しい顔をして回転を続けていた。
テンプの鼓動は乱れていない。
まるで、この箱の中だけが、嵐の外にある静寂な空間であるかのように。
「……いい子だ」
俺は震える手で箱を撫でた。
『ベルン・スチール』の剛性と、『フライング・ケージ』の軽さが、この異常な環境下で真価を発揮している。
肉抜きされたスカスカの構造が、逆に衝撃を逃がし、片持ちの軸がしなやかに揺れを吸収しているのだ。
理論は正しかった。
俺たちの時計は、嵐に勝っている。
その時、船長のゴードンが転がり込んできた。
彼はずぶ濡れで、顔色は蒼白だった。
「おい、時計屋! 時間は無事か!?」
「ああ。テンプの振り角も落ちてねえ。……このリズムなら、一秒も狂っちゃいねえはずだ」
「本当だろうな!? 今、俺たちは濃霧の中で方向感覚を失ってる! 羅針盤はグルグル回って使い物にならん!」
ゴードンは悲鳴に近い声を上げた。
「この海域には『魔女の岩礁』と呼ばれる隠れ根があるんだ! 推測航法じゃ限界だ……もし位置を見誤れば、俺たちは全員海の藻屑だぞ!」
海の上で自分の位置(経度)を知るには、「出発地の正確な時間」と「現在の太陽の高さ(現地時間)」の差を計算する必要がある。
だが、太陽が見えない嵐の中では、最後の頼みの綱は「正確な経過時間」と「船速」から割り出す計算上の位置だけだ。
もし時計が狂っていれば、計算結果は嘘になり、船は死地へと導かれる。
航海士が海図を広げ、震える手で定規を当てた。
「船長……! もし時計が正しければ、我々は岩礁のわずか2海里手前を航行しています! すぐに進路を変えないと激突します!」
「だが、もし時計が遅れていたら? 進路を変えた先が岩礁かもしれないんだぞ!?」
極限の選択。
古びた時計(船の備え付け)と、俺の時計。
どちらを信じるか。命を預けるか。
「信じろ!」
俺は叫んだ。
「俺の時計は、重力に喧嘩を売って勝った時計だ! こいつは絶対に嘘をつかねえ!」
俺の気迫に、ゴードン船長が息を呑んだ。
彼は俺の目を見つめ、そして時計を見た。
チチチチ……。
揺るがないリズム。
この狂乱の船内で、唯一冷静さを保っている機械。
「……舵を切れぇぇぇッ!!」
ゴードンが吼えた。
「時計を信じる! 面舵一杯! 岩礁を回避するぞ!」
船体が大きくきしむ。
船員たちが死に物狂いで舵輪を回す。
見えない壁に向かって突っ込んでいくような恐怖。
俺は時計の箱を抱きしめ、祈った。
頼む。
俺たちの時間を、未来へ繋いでくれ。
数分後。
一瞬だけ雲が切れ、雷光が海面を照らした。
「……ひっ!」
見張り員が息を呑んだ。
左舷わずか数百メートル先に、波飛沫を上げる黒い岩肌が見えたのだ。
魔女の岩礁だ。
もし進路を変えていなければ、真正面から突っ込んでいた距離だ。
「……抜けた」
航海士がへたり込んだ。
「計算通りだ……。1秒のズレもなく、計算通りの場所に岩があった……!」
船内に、爆発的な歓声が上がった。
ゴードン船長が俺の胸ぐらを掴み――そのまま抱きしめた。
「すげえ……! なんて時計だ! こいつのおかげで、俺たちは助かったんだ!」
「ああ。……いい仕事をしやがった」
俺は『銀の明星』のガラスを指でなぞった。
相変わらず、涼しい顔で時を刻んでいる。
誇らしかった。
自分の子供が、多くの命を救ったのだ。
「現在地、特定完了! 北緯58度15分、東経18度05分! このままなら帰還できます!」
船長が叫ぶ。
俺たちは勝った。嵐に、そして迷いに。
だが、その時だった。
歓喜に湧く船内を切り裂くように、見張り員の声が響いた。
「船長!! 3時方向より、赤い閃光を確認!!」
「なんだと!?」
俺たちは窓に駆け寄った。
雨と闇の向こう、遥か彼方の海上で、弱々しい赤い光が明滅しているのが見えた。
赤。
それは、海の上で最も不吉な色。
「救難信号(SOS)」だ。
「……まさか」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
この海域にいる船は、俺たち以外にもう一隻しかない。
最新鋭艦『グラン・ロワ』。
王立中央工房の傑作時計を積んだ、あの巨艦だ。
「……あいつら、位置を見失ったのか?」
俺は赤い光を見つめ、拳を握りしめた。
俺たちの時計は時を刻み続けている。だが、彼らの時計は――?
嵐の夜は、まだ終わっていなかった。




