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王都の天才時計師と、銀雪の令嬢 ~「君の領地を時計の聖地にする」と約束した彼は、伝説の師から託された《究極の機構》で国を救い、私と結ばれました~  作者: ぱる子
第1章:泥の中の歯車

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第3話:音のない旋律

 工房の中に、張り詰めた静寂が満ちていた。

 外から聞こえる街の喧騒や、風の音さえも、この空間からは締め出されているようだった。

 ここにあるのは、無限に広がる微小な宇宙と、それに向き合う一人の職人だけだ。


 アルドは作業机の上のランプの芯を少し上げ、明かりを強めた。

 暖かなオレンジ色の光が、机の上に置かれた私の懐中時計だけをスポットライトのように照らし出す。

 彼は無造作に袖をまくり上げると、古びた、しかし手入れの行き届いた工具箱を開いた。


 ピンセット、精密ドライバー、拡大鏡ルーペ、そして用途の分からない微細な金属の棒たち。

 それらが整然と並ぶ様は、まるで熟練の外科医が使う手術道具のようだ。使い込まれた道具特有の鈍い光沢が、彼の腕の確かさを無言のうちに物語っている。


「……始めるぞ」


 誰に聞かせるでもない、彼自身のスイッチを入れるような呟き。

 アルドは右目にルーペを押し当て、左目を瞑った。

 その瞬間、彼の世界から私という存在が消えたのが分かった。彼が見ているのは、直径数センチの中に凝縮された金属の迷宮だけだ。


 私は息を潜め、その手元を見つめた。

 先ほど借金取りに対して見せた荒々しさとは対照的な、驚くほど静かな動きだった。

 ピンセットの先が、時計の裏蓋の隙間に滑り込む。

 カチリ、という微かな音と共に、裏蓋が開かれた。


 私は思わず、小さく息を呑んだ。

 露わになった時計の内部。

 それは、私の知るどんな宝石箱よりも美しかった。


 真鍮の地板プレートは経年で鈍く変色していたが、そこに整然と配置された大小様々な歯車たちは、計算され尽くした幾何学模様を描いていた。

 ギルバート様が見せびらかしていた時計のような、ダイヤやルビーの派手な輝きはない。装飾と呼べるものは、職人の手で刻まれた微細な波模様ギョーシェくらいだ。

 けれど、一つ一つの部品が「動く」というただ一つの目的のために削り出され、磨き上げられ、そこに在るという機能美が、圧倒的な説得力を持って迫ってくる。


「……いい仕事だ」


 アルドが作業をしながら、独り言のように漏らした。

 その声には、先ほどまでの刺々しさはなく、純粋な敬意が滲んでいた。


「地板の面取り、歯車の噛み合わせ(ホゾ)の研磨……手抜きがない。今の王都の職人で、ここまで丁寧に仕上げる奴はもういないだろうな。効率が悪いと笑われるのがオチだ」

「祖父が、大切にしていたものですから」


 私が答えると、彼は一度だけ頷き、すぐに手元へ視線を戻した。


「バラすぞ」


 宣言と共に、彼の指先が舞うように動き出した。

 速い。

 目で追うのがやっとのスピードだ。

 極小のネジを回し、ピンセットで米粒よりも小さな部品をつまみ上げ、シャーレの中に分類していく。

 迷いがない。

 まるで、最初からその時計の構造が頭の中に入っているかのように、次々と部品を取り外していく。あるいは、時計の方から自ら解かれていくことを望んでいるかのようだった。


 普通、時計の分解掃除オーバーホールといえば、もっと慎重に、恐る恐る時間をかけて行うものだと思っていた。少なくとも、私が今まで見てきた時計師たちはそうだった。

 けれど彼の作業は、まるで魔法を見ているようだ。

 流れるような手つき。無駄な動きが一切ない。

 金属同士が触れ合う音が、不思議と心地よいリズムを刻んでいる。

 チ、チ、カチャ、チ……。

 それは音のない旋律となって、静まり返った工房に響いていた。


 私は見惚れていた。

 彼の指先は油で汚れ、爪の間も黒ずんでいる。決して綺麗な手ではない。節くれ立ち、いくつもの小さな傷跡が残る、労働者の手だ。

 けれど、その武骨な指が繊細な部品を扱う様は、一流のピアニストが鍵盤を叩く指よりも、あるいは高名な指揮者がタクトを振る姿よりも、ずっと優雅で、美しく見えた。


 これが、職人。

 これが、「本物」。


 ギルバート様の言葉が脳裏をよぎる。

 『可愛げのない女』『機械のように正確に仕事をこなすだけ』。

 彼はそれを欠点だと言った。機械的な正確さなど、愛される要素ではないと。

 でも、目の前にいるアルドの姿を見ていると、それが欠点だなんてどうしても思えなかった。

 一つのことに没頭し、技術を極めようとするひたむきな姿は、こんなにも美しい。

 正確であること。揺るがないこと。それは、「信頼」という名の美徳ではないのか。


「……心臓部テンプだ」


 アルドの声で、私は我に返った。

 彼がピンセットで慎重につまみ上げたのは、渦巻き状の極細のバネがついた、小さな輪っかのような部品だった。

 時計において最も重要な、時間を刻むリズムを生み出す部分だ。


「時計の命だ。ここが死んでいなければ、まだ助かる」


 彼はその部品をルーペでじっと観察する。

 眉間に皺が寄り、鋭い眼光がさらに強まる。

 数秒の沈黙が、永遠のように長く感じられた。

 もし、ここが壊れていたら。

 もう部品はないと言われていた。直せないと言われていた。これが最後の望みなのだ。


 アルドはゆっくりと息を吐き、強張っていた口元をわずかに緩めた。


「……生きてる」


 その言葉に、私は張り詰めていた肩の力が抜け、膝が崩れそうになるのを必死で堪えた。


「ひげゼンマイに歪みはない。天真てんしんの摩耗も許容範囲だ。ただ、古い油が接着剤みたいに固着して、動きを止めてるだけだ。呼吸困難になって気絶してるようなもんだな」


 彼はシャーレに透明な洗浄液を注ぎ込み、部品を浸した。

 揮発性の独特な香りが鼻をくすぐる。

 彼は筆を使い、優しく、しかし確実に汚れを落としていく。

 黒く濁った洗浄液の中で、部品たちが本来の輝きを取り戻していくのが見えた。


「あんたの爺さんは、この時計を一度も落としてないな」


 洗浄を続けながら、アルドが唐突に言った。視線は手元から外さないままだ。


「え?」

「ケースには傷があるが、中身ムーブメントには衝撃の痕跡が全くない。本当に大切に扱われていた証拠だ。だから、こいつも100年近く前の機械なのに、まだ生きようとしてる。持ち主の愛着ってのは、機械にも伝わるもんだ」


 涙が出そうになった。

 祖父は厳格な人だった。

 いつも背筋を伸ばし、時間を守り、領民のために尽くしていた。この時計を取り出す時の、少し誇らしげな横顔を思い出す。

 この時計は、そんな祖父の生き様そのものだったのだ。

 それを「鉄クズ」と笑ったギルバート様や借金取りたちへの怒りが、そしてその価値を正しく理解し、敬意を払ってくれたアルドへの感謝が、胸の奥で熱い塊になった。


「ありがとうございます……」

「礼を言うのはまだ早い。これからが本番だ」


 全ての部品の洗浄を終え、乾燥させた後、組み立てが始まった。

 分解の時よりもさらに高い集中力が、彼の背中から立ち昇る。空気の密度が変わったかのような錯覚さえ覚える。


 注油。

 針の先ほどの量の油を、特定の箇所に、正確に差していく。

 多すぎれば溢れて抵抗になり、少なければ摩耗する。

 その加減は、長年の経験と勘だけが頼りだという。


 彼はまるで、枯れかけた花に一滴の水を与える庭師のようだった。

 あるいは、止まった心臓に再び血を通わせる外科医か。

 最後の一枚の歯車が収まり、受け板がネジで固定される。

 そして、先ほどの「心臓部テンプ」が定位置に戻された。


 アルドは一度手を止め、深呼吸をした。

 そして、リューズ(巻き上げノブ)に指をかける。

 カリ、カリ、カリ……。

 ゼンマイが巻かれる音が、静寂の中で高く響く。

 パワーが蓄えられていく。眠っていた力が、目覚めようとしている。


 彼はピンセットの先で、ちょん、とテンプの輪を弾いた。

 瞬間。


 チチチチチチチチ……。


 命の音が、産声を上げた。

 テンプが左右に激しく、しかし規則正しく回転を始める。

 まるで生き物が呼吸をするように、ひげゼンマイが伸縮を繰り返す。

 止まっていた時間が、今、再び流れ出したのだ。


「……動いた」


 私の口から、感嘆の声が漏れた。

 それは今まで聞いてきたどの時計の音よりも力強く、澄んだ音色だった。

 ギルバート様の持っていた煌びやかな腕時計のような、頼りない音ではない。大地を踏みしめて歩くような、確かな鼓動。

 この音だ。私がずっと聞きたかった、懐かしい音。


 アルドはまだ私の方を見ない。

 ルーペ越しに、復活したテンプの動きをじっと凝視している。

 その瞳は、技術者としての厳しいチェックを行っているようでもあり、同時に、生まれたばかりの子供を見守る親のような温かさも湛えていた。


 私は、そんな彼の横顔から目を離せなかった。

 ボサボサの髪も、汚れた作業着も、今の私には何の関係もなかった。

 ただ、この人はすごい。

 この人は、魔法使いではないけれど、確かな技術で奇跡を起こすことができる。


「すごいです……。これほどの技術をお持ちなのに、どうして」


 私は思わず問いかけていた。


「どうして、こんな場所にいらっしゃるのですか? 王都の有名店でも、あなたほどの職人はおりませんわ」


 私の言葉に、アルドはふと手を止め、自嘲気味に鼻を鳴らした。

 彼は視線を机の端にある、自分が作りかけていた分厚い時計の部品へと向けた。


「俺の作る時計は、流行らないからな」

「流行らない?」

「ああ。今の王都で流行ってるのは、薄くて軽い、煌びやかな時計だ。貴族の袖口を邪魔せず、ダンスの時にキラキラ光るアクセサリーさ」


 彼は忌々しそうに、けれどどこか寂しげに言った。


「俺が作るのは、こういう頑丈すぎて分厚い『鉄クズ』だ。衝撃に耐えるために板を厚くし、精度を出すために部品を大きくする。……だから、誰にも見向きもされない」


 そう言って、彼は再びテンプの動きに視線を戻した。

 その横顔には、自分の信じる道を突き進むがゆえの孤独が刻まれていた。


 冷たい風が吹き込む隙間だらけの工房で、古時計の刻む音だけが、高らかに響き渡っていた。

 それは私の中で、新たな決意のファンファーレのように聞こえた。

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