第29話:嵐
出航から二日目。
『魔の海域』は、その忌まわしい名の通りの本性を現した。
海の色が変わった。
鉛色だった海面は、どす黒い墨汁を流したような色に変わり、空は厚い雨雲に覆われて昼間でも夜のように暗い。
風が唸りを上げて吹き荒れ、波は山脈のように隆起しては、俺たちが乗るフリゲート艦『セイレーン』を襲った。
「総員、配置につけぇぇぇ!! 帆を絞れ! 風に持っていかれるぞ!」
甲板では、船長の怒号と船員たちの叫び声が飛び交っていた。
船体は木の葉のように揉みくちゃにされ、ギシギシと悲鳴を上げている。
俺がいる船長室も、天地がひっくり返ったかのような惨状だった。固定していない椅子や小物が壁から壁へと飛び交い、床に立つことさえままならない。
「……クソッ、予想以上だな」
俺は壁に固定された手すりにしがみつき、必死で吐き気を堪えた。
船酔いはとっくに限界を超えている。胃の中身は全て吐き出し、今は苦い胃液の味しかしない。
だが、俺の目は一点に釘付けになっていた。
部屋の中央、床にボルトでガッチリと固定された台座。
その上に鎮座する、黒檀の箱。
『銀の明星』だ。
ドォォォォン!!
巨大な波が船腹に激突し、船が大きく右に傾く。傾斜角は45度を超えているだろう。普通の人間なら転がり落ちる角度だ。
俺は這うようにして時計に近づき、ガラス越しに文字盤を覗き込んだ。
……チチチチ……ヒュン……。
動いている。
船が激しく揺れ、重力がデタラメな方向からかかっているにも関わらず、6時位置にある『ジャイロ・ケージ』は、涼しい顔をして回転を続けていた。
テンプの鼓動は乱れていない。
まるで、この箱の中だけが、嵐の外にある静寂な空間であるかのように。
「……いい子だ」
俺は震える手で箱を撫でた。
『ベルン・スチール』の剛性と、『フライング・ケージ』の軽さが、この異常な環境下で真価を発揮している。
肉抜きされたスカスカの構造が、逆に衝撃を逃がし、片持ちの軸がしなやかに揺れを吸収しているのだ。
理論は正しかった。
俺たちの時計は、嵐に勝っている。
その時、船長のゴードンが転がり込んできた。
彼はずぶ濡れで、顔色は蒼白だった。
「おい、時計屋! 時間は無事か!?」
「ああ。テンプの振り角も落ちてねえ。……このリズムなら、一秒も狂っちゃいねえはずだ」
「信じられん……この揺れだぞ!? 羅針盤でさえグルグル回って使い物にならんというのに!」
ゴードンは驚愕の表情で時計を見つめ、そして安堵の息を吐いた。
「助かった……。この嵐じゃ、太陽も星も見えねえ。自分の位置を知る頼りは、この時計だけだ」
海の上で自分の位置(経度)を知るには、「出発地の正確な時間」と「現在の太陽の高さ(現地時間)」の差を計算する必要がある。
太陽が見えない嵐の中では、推測航法(進んだ距離と方角から位置を割り出す方法)に頼るしかないが、潮流が激しいこの海域では、すぐに誤差が生じて遭難する。
だが、正確な時計さえあれば、「自分たちがどれくらいの時間を、どの速度で進んだか」を正確に把握でき、わずかな雲の切れ間から星が見えた瞬間に、完璧な位置修正ができる。
「現在時刻は午後2時14分30秒だ。……予定より少し遅れてるが、航路は外れてねえ」
「よし! なら、このまま嵐を突っ切るぞ!」
ゴードン船長が再び甲板へ戻ろうとした時だった。
彼は窓の外を指差した。
「見ろ! 僚船だ!」
俺はよろめきながら窓に駆け寄った。
雨と波飛沫にかすむ視界の向こう、数百メートル先に、巨大な船影が見えた。
最新鋭戦列艦『グラン・ロワ』だ。
その巨体は、確かに波に翻弄されていた。だが、沈没しかけているわけではない。船体は無事だ。
問題なのは、その動きだった。
風上に向かって立て直そうとするでもなく、波に乗るでもなく、ただあてもなくグルグルと彷徨っているように見える。
まるで、方向感覚を失った巨人のようだ。
「……目が潰れたな」
俺は呟いた。
想像通りの事態だ。
「目が潰れた?」
「時計が止まったんだよ、船長」
俺は確信を持って言った。
「あいつらの時計『ロイヤル・グローリー』は、確かに豪華だ。金や宝石をふんだんに使ってる。だが、それが命取りだ」
俺は窓ガラスに手をつき、荒れ狂う海を睨んだ。
「金は重い。宝石も重い。あんなに装飾過多な部品を詰め込めば、慣性モーメント(動きにくさ)は肥大化する。陸の上ならいいさ。だが、こんな嵐の中で船が叩きつけられたら……」
ドン! と、俺たちの船がまた大きく跳ね上がった。
この衝撃だ。
数キログラムもあるような重い時計内部の部品に、強烈なG(加速度)がかかる。
支えている軸は、その重さに耐えきれない。
「ポッキリ逝ったはずだ。テンプの軸か、あるいは脱進機の爪か。……いずれにせよ、あいつらの時計はもう、ただの綺麗なガラクタだ」
時計が止まれば、時間は分からない。
時間が分からなければ、経度が分からない。
この嵐の中で、東西南北も分からず、自分たちがどこにいるのかも見失った巨大船。
それは、目隠しをして断崖絶壁を歩くようなものだ。
パニックになるのも無理はない。
「……へっ、ざまあ見ろだ」
ゴードン船長が鼻を鳴らした。
「最新鋭艦だの不沈艦だのと威張っていたが、海をナメた報いだ。あいつらは今頃、艦長室で真っ青になってるだろうよ」
『グラン・ロワ』の船影は、雨のカーテンの向こうに遠ざかっていく。
あてもなく彷徨うその姿は、哀れですらあった。
俺は『銀の明星』に視線を戻した。
チチチチ……。
変わらぬリズム。揺るがぬ鼓動。
俺たちの時計は、まだ生きている。
「勝ったな」
俺は小さく呟いた。
まだ航海は終わっていない。だが、勝負はついた。
機能美が、装飾美に勝ったのだ。
だが、嵐はまだ終わらない。
むしろ、これからが本番だと言わんばかりに、風の音がさらに鋭さを増していく。
俺は時計の箱を抱きかかえるようにして、座り込んだ。
最後まで油断はできない。
俺はこの時計の守護者だ。何があっても、こいつだけは守り抜く。
船が大きくきしんだ。
闇のような海の上で、俺たちの長い夜はまだ続いていく。




