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王都の天才時計師と、銀雪の令嬢 ~「君の領地を時計の聖地にする」と約束した彼は、伝説の師から託された《究極の機構》で国を救い、私と結ばれました~  作者: ぱる子
第4章:嵐の海と審判

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第29話:嵐

 出航から二日目。

 『魔の海域』は、その忌まわしい名の通りの本性を現した。


 海の色が変わった。

 鉛色だった海面は、どす黒い墨汁を流したような色に変わり、空は厚い雨雲に覆われて昼間でも夜のように暗い。

 風が唸りを上げて吹き荒れ、波は山脈のように隆起しては、俺たちが乗るフリゲート艦『セイレーン』を襲った。


「総員、配置につけぇぇぇ!! 帆を絞れ! 風に持っていかれるぞ!」


 甲板では、船長の怒号と船員たちの叫び声が飛び交っていた。

 船体は木の葉のように揉みくちゃにされ、ギシギシと悲鳴を上げている。

 俺がいる船長室も、天地がひっくり返ったかのような惨状だった。固定していない椅子や小物が壁から壁へと飛び交い、床に立つことさえままならない。


「……クソッ、予想以上だな」


 俺は壁に固定された手すりにしがみつき、必死で吐き気を堪えた。

 船酔いはとっくに限界を超えている。胃の中身は全て吐き出し、今は苦い胃液の味しかしない。

 だが、俺の目は一点に釘付けになっていた。


 部屋の中央、床にボルトでガッチリと固定された台座。

 その上に鎮座する、黒檀の箱。

 『銀の明星』だ。


 ドォォォォン!!

 巨大な波が船腹に激突し、船が大きく右に傾く。傾斜角は45度を超えているだろう。普通の人間なら転がり落ちる角度だ。

 俺は這うようにして時計に近づき、ガラス越しに文字盤を覗き込んだ。


 ……チチチチ……ヒュン……。


 動いている。

 船が激しく揺れ、重力がデタラメな方向からかかっているにも関わらず、6時位置にある『ジャイロ・ケージ』は、涼しい顔をして回転を続けていた。

 テンプの鼓動は乱れていない。

 まるで、この箱の中だけが、嵐の外にある静寂な空間であるかのように。


「……いい子だ」


 俺は震える手で箱を撫でた。

 『ベルン・スチール』の剛性と、『フライング・ケージ』の軽さが、この異常な環境下で真価を発揮している。

 肉抜きされたスカスカの構造が、逆に衝撃を逃がし、片持ちの軸がしなやかに揺れを吸収しているのだ。

 理論は正しかった。

 俺たちの時計は、嵐に勝っている。


 その時、船長のゴードンが転がり込んできた。

 彼はずぶ濡れで、顔色は蒼白だった。


「おい、時計屋! 時間は無事か!?」

「ああ。テンプの振り角も落ちてねえ。……このリズムなら、一秒も狂っちゃいねえはずだ」

「信じられん……この揺れだぞ!? 羅針盤コンパスでさえグルグル回って使い物にならんというのに!」


 ゴードンは驚愕の表情で時計を見つめ、そして安堵の息を吐いた。


「助かった……。この嵐じゃ、太陽も星も見えねえ。自分の位置を知る頼りは、この時計クロノメーターだけだ」


 海の上で自分の位置(経度)を知るには、「出発地の正確な時間」と「現在の太陽の高さ(現地時間)」の差を計算する必要がある。

 太陽が見えない嵐の中では、推測航法(進んだ距離と方角から位置を割り出す方法)に頼るしかないが、潮流が激しいこの海域では、すぐに誤差が生じて遭難する。

 だが、正確な時計さえあれば、「自分たちがどれくらいの時間を、どの速度で進んだか」を正確に把握でき、わずかな雲の切れ間から星が見えた瞬間に、完璧な位置修正ができる。


「現在時刻は午後2時14分30秒だ。……予定より少し遅れてるが、航路は外れてねえ」

「よし! なら、このまま嵐を突っ切るぞ!」


 ゴードン船長が再び甲板へ戻ろうとした時だった。

 彼は窓の外を指差した。


「見ろ! 僚船グラン・ロワだ!」


 俺はよろめきながら窓に駆け寄った。

 雨と波飛沫にかすむ視界の向こう、数百メートル先に、巨大な船影が見えた。

 最新鋭戦列艦『グラン・ロワ』だ。

 その巨体は、確かに波に翻弄されていた。だが、沈没しかけているわけではない。船体は無事だ。


 問題なのは、その動きだった。

 風上に向かって立て直そうとするでもなく、波に乗るでもなく、ただあてもなくグルグルと彷徨っているように見える。

 まるで、方向感覚を失った巨人のようだ。


「……目が潰れたな」


 俺は呟いた。

 想像通りの事態だ。


「目が潰れた?」

「時計が止まったんだよ、船長」


 俺は確信を持って言った。


「あいつらの時計『ロイヤル・グローリー』は、確かに豪華だ。金や宝石をふんだんに使ってる。だが、それが命取りだ」


 俺は窓ガラスに手をつき、荒れ狂う海を睨んだ。


「金は重い。宝石も重い。あんなに装飾過多な部品を詰め込めば、慣性モーメント(動きにくさ)は肥大化する。陸の上ならいいさ。だが、こんな嵐の中で船が叩きつけられたら……」


 ドン! と、俺たちの船がまた大きく跳ね上がった。

 この衝撃だ。

 数キログラムもあるような重い時計内部の部品に、強烈なG(加速度)がかかる。

 支えているピボットは、その重さに耐えきれない。


「ポッキリ逝ったはずだ。テンプの軸か、あるいは脱進機の爪か。……いずれにせよ、あいつらの時計はもう、ただの綺麗なガラクタだ」


 時計が止まれば、時間は分からない。

 時間が分からなければ、経度が分からない。

 この嵐の中で、東西南北も分からず、自分たちがどこにいるのかも見失った巨大船。

 それは、目隠しをして断崖絶壁を歩くようなものだ。

 パニックになるのも無理はない。


「……へっ、ざまあ見ろだ」


 ゴードン船長が鼻を鳴らした。


「最新鋭艦だの不沈艦だのと威張っていたが、海をナメた報いだ。あいつらは今頃、艦長室で真っ青になってるだろうよ」


 『グラン・ロワ』の船影は、雨のカーテンの向こうに遠ざかっていく。

 あてもなく彷徨うその姿は、哀れですらあった。


 俺は『銀の明星』に視線を戻した。

 チチチチ……。

 変わらぬリズム。揺るがぬ鼓動。

 俺たちの時計は、まだ生きている。


「勝ったな」


 俺は小さく呟いた。

 まだ航海は終わっていない。だが、勝負はついた。

 機能美が、装飾美に勝ったのだ。


 だが、嵐はまだ終わらない。

 むしろ、これからが本番だと言わんばかりに、風の音がさらに鋭さを増していく。

 俺は時計の箱を抱きかかえるようにして、座り込んだ。

 最後まで油断はできない。

 俺はこの時計の守護者だ。何があっても、こいつだけは守り抜く。


 船が大きくきしんだ。

 闇のような海の上で、俺たちの長い夜はまだ続いていく。

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