第28話:別れの言葉
港には、強くなり始めた海風が吹き荒れていた。
空を覆う雲は厚く、カモメたちが低い位置を飛び回っている。熟練の船乗りでなくとも、これから海が荒れることは肌で感じ取れた。
私の目の前には、今回アルドが乗るフリゲート艦『セイレーン』が停泊している。
近くで見ると、その古さは歴然としていた。船腹の板は潮風に晒されて黒ずみ、所々に継ぎ接ぎの跡がある。隣の桟橋に停泊している最新鋭艦『グラン・ロワ』の、城のように巨大で煌びやかな姿とは比べるべくもない。
「……本当に、この船で大丈夫なの?」
不安が口をついて出た。
時計の性能勝負だとは分かっている。けれど、その舞台となる「船」の格差があまりにも大きすぎる。もし時計が無事でも、船ごと沈んでしまったら……。
悪い想像ばかりが頭をよぎり、私は無意識にドレスの裾を握りしめていた。
「心配すんな。見てみろよ」
アルドは荷物を肩に担ぎ直しながら、顎で『セイレーン』の甲板を示した。
そこには、出航準備に追われる船員たちの姿があった。
彼らの服はボロボロで、肌は革のように日焼けしている。だが、その動きには一切の無駄がなく、ロープを操る手つきは神業のように素早かった。
「あいつらは『海軍の除け者』かもしれねえが、海を知り尽くしたベテランだ。ピカピカの制服を着てパレードばかりしてるエリート連中より、よっぽど信用できる」
アルドはニヤリと笑った。
「それに、俺たちと同じ匂いがするだろ? 『不適合者』の匂いだ」
彼の言葉に、ふと肩の力が抜けた。
そうだった。私たちはいつだって、逆境をバネにしてきた。
整えられた環境で守られている時よりも、泥にまみれて足掻いている時の方が、私たちは強いのだ。
「……そうね。あなたらしい船だわ」
「だろ? ジャジャ馬くらいが乗りこなすには丁度いい」
出航を告げる鐘が鳴った。
第一打。
別れの時だ。
周囲の喧騒が、急に遠のいた気がした。
数万人の観衆の声も、風の音も、波の音も、今は背景のノイズに過ぎない。
世界には、私と彼、二人しかいないような錯覚。
アルドが私に向き直った。
その手には、黒檀の箱がしっかりと握られている。
中には『銀の明星』。
私たちの夢と、誇りと、そして未来が詰まった箱。
「……行ってくる」
短い言葉だった。
でも、その声音には、普段のぶっきらぼうさとは違う、深い響きがあった。
「エリアナ。あんたはここで待ってろ。寒いから、無理して桟橋に立ってる必要はねえ。宿に戻って、温かい茶でも飲んでればいい」
「……嫌よ。私はここから動かないわ」
私は首を横に振った。
「あなたの船が見えなくなるまで、いいえ、あなたが帰ってくるその瞬間まで、私は港で待っている。……私はあなたのパトロンよ? 投資の行方を見届ける義務があるもの」
強がりを言った。
そうでも言わなければ、今にも「行かないで」と泣きついてしまいそうだったからだ。
魔の海域。
そこは、多くの船が飲み込まれ、二度と戻らなかった場所だ。
もしこれが、彼との最期の会話になったらどうしよう。
そんな恐怖が、喉元までせり上がってくる。
アルドは困ったように眉を下げ、そして一歩、私に近づいた。
彼は右手を伸ばし、私の頬に触れた。
ゴツゴツとした、硬い職人の手。
でも、その温もりは優しく、私の震えを鎮めてくれるようだった。
「……この時計はな」
彼は黒檀の箱を少し持ち上げて見せた。
「ただの機械じゃねえ。俺の分身だ」
彼の琥珀色の瞳が、私の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「俺の技術、俺の魂、そして……あんたへの想い。全部、この中に詰め込んだ。こいつが動いている限り、俺は絶対に止まらねえ」
心臓が、大きく跳ねた。
あんたへの想い。
不器用な彼が精一杯紡いだその言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、私の胸を貫いた。
「必ず帰ってくる」
彼は誓うように言った。
「どんな嵐が来ようが、どんな波が来ようが、俺はこの時計を守り抜く。そして……必ず、あんたの元へ帰る」
それは、勝利宣言ではなかった。
一人の男としての、約束だった。
「だから……信じて待ってろ」
彼の顔が近づき、その額が私の額にコツンと当たった。
熱い。
彼の体温と、鼓動が伝わってくる。
「……俺の時間は、全部あんたに預けたんだ。勝手に終わらせたりしねえよ」
涙が溢れそうになり、私は必死で堪えた。
泣いてはいけない。
戦場へ向かう彼の背中を、涙で濡らしてはいけない。
私は笑顔で見送らなければならないのだ。
「不適合者」の相棒として。
「……ええ。信じているわ」
私は彼の手の上に、自分の手を重ねた。
「待っているわ、アルド。最高の時計と……最高の時計師の帰りを」
「ああ」
第二の鐘が鳴った。
アルドは名残惜しそうに離れると、踵を返し、タラップへと向かった。
一度も振り返らなかった。
その背中は、以前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
彼は『セイレーン』の甲板に立ち、船長に何やら言葉を交わすと、すぐに船内へと消えていった。
彼にとっての戦場は、甲板ではなく、時計が設置された船室なのだ。
「出航ーッ!!」
号令と共に、纜が解かれる。
帆が張られ、風を孕んで大きく膨らむ。
ギギギ……と船体がきしむ音を立てて、古びた軍艦が岸を離れていく。
隣の桟橋からは、『グラン・ロワ』も優雅に出航していくのが見えた。
王立楽団の演奏と、華やかな紙吹雪が舞う中での出立だ。
対してこちらは、カモメの声と、風の音だけ。
けれど、私には聞こえた気がした。
あの船の中から響く、力強い鼓動が。
チチチチ……ヒュン……。
『銀の明星』が刻む、勝利へのリズムが。
船はみるみるうちに遠ざかり、鉛色の水平線へと向かっていく。
風が強まり、私の髪を乱暴にかき乱す。
冷たい雨粒が、ポツリと頬を打った。
嵐が来る。
私は桟橋の先端に立ち尽くし、船影が霞んで見えなくなるまで、その場を動けなかった。
祈ることしかできない無力さが歯痒い。
けれど、胸の奥には不思議な温かさが残っていた。
彼が残していった言葉。
『俺の時間は、全部あんたに預けた』。
その言葉をお守りのように抱きしめ、私は海を睨みつけた。
負けないで。
荒れ狂う海よ、彼を飲み込めるものなら飲み込んでみなさい。
彼は重力さえもねじ伏せた男なのよ。
あなたごときに、私たちの時間を止めさせはしない。
遠くで雷鳴が轟いた。
戦いの幕が、切って落とされた。




