第27話:実証実験の開始
その日、王都の港湾地区は、建国以来の賑わいを見せていた。
カモメの鳴き声をかき消すほどの、人、人、人。
桟橋を埋め尽くす見物人たちの視線の先には、今日の主役である二隻の軍艦と、その背後に広がる鉛色の海があった。
王家主催、「航海用精密時計」実証実験。
それは単なる技術比べの枠を超え、国の威信と、莫大な利権、そして男たちのプライドを懸けた一大決戦となっていた。
「さあさあ、ご覧ください! いよいよ両陣営の登場です!」
特設ステージの上で、実況役の広報官が声を張り上げる。
ファンファーレが鳴り響き、二つのグループが桟橋へと姿を現した。
右手から現れたのは、アークライト子爵率いる王立中央工房チームだ。
彼らは揃いの深紅の制服に身を包み、誇らしげに行進している。その中心には、ギルバート・アークライトとマイスター・ベルナール。そして、屈強な衛兵たちに守られた黄金の時計『ロイヤル・グローリー』があった。
太陽の光を反射してギラギラと輝くその姿に、観衆からはどよめきと歓声が上がる。
「やはり本命はアークライトか。あの輝き、見ているだけで金運が上がりそうだ」
「王立工房の技術の粋を集めたらしいぞ。負けるはずがない」
対して、左手から現れたのは、ベルンシュタイン&ライン工房チーム。
人数は少ない。
エリアナ・ベルンシュタインと、時計師アルド・ヴァン・ライン。そして荷物持ちのハンスと数人の弟子たちだけだ。
彼らの服装は質素なダークグレーの作業着やコートだが、その背筋はピンと伸び、独特の静謐な空気を纏っている。
アルドが抱えているのは、飾り気のない黒檀の箱。中には『銀の明星』が眠っている。
「あれが噂の田舎時計か? なんだかパッとしないな」
「だが、予選で日差ゼロを出したって話だぞ」
「まぐれだろう。見てみろ、あの人数差を」
観衆の評価は半々、あるいはアークライト優勢といったところか。
だが、今日の勝敗を決めるのは彼らの評判ではない。
海だ。
海軍総司令官である隻眼の老提督が、壇上に立った。
彼が手を挙げると、数万人の喧騒が一瞬にして静まり返った。
「これより、最終試験を開始する!」
提督の低い、しかしよく通る声が響く。
「航路は、ここ王都港を出発し、北方の『魔の海域』を周回、三日後に帰港するルートとする。総距離はおよそ千海里!」
魔の海域。
その名を聞いた瞬間、船乗りたちの顔色が変わった。
そこは海流が複雑にぶつかり合い、常に強風が吹き荒れる難所中の難所だ。どんなベテラン航海士でも、正確な位置情報を失えば遭難は免れない。
「各時計は、それぞれ指定された軍艦に搭載される。航海中は一切の調整、修理を禁ずる! 封印された箱の中で、ただ時を刻むことのみが許される!」
提督は海を指差した。
「勝敗の条件は二つ! 一つ、生きて帰ってくること! 二つ、帰港時の時刻が、この港の標準時計と比べて『誤差一分以内』であること! 以上だ!」
極めてシンプル。
そして、極めて過酷なルールだ。
「では、乗船する船を発表する!」
広報官が再びマイクを握る。
ここからが、この勝負の最大の焦点――そして「不公平」の始まりだった。
「まず、アークライト子爵チームの時計を搭載するのは……最新鋭一等戦列艦『グラン・ロワ』!!」
ドォォォォン!!
祝砲と共に、港の中央に停泊していた巨大な船が霧笛を鳴らした。
全長六十メートルを超える巨体。三層の甲板に百門の大砲を備えた、王国の海の守護神だ。
その巨体ゆえに波の影響を受けにくく、揺れは最小限に抑えられる。まさに「王者の船」だ。
「おおお! グラン・ロワか! これなら揺れなんて関係ないぞ!」
「勝ったな。あの船なら食卓のワインもこぼれないって話だ」
ギルバートが勝ち誇ったように笑い、エリアナたちを見下ろす。
完全なハンディキャップマッチだ。
「続きまして、ベルンシュタイン&ライン工房チームの時計を搭載するのは……!」
広報官が一瞬、言葉を詰まらせた。
そして、どこか申し訳なさそうに告げた。
「……退役寸前の旧式フリゲート艦『セイレーン』!!」
港の端、寂れた桟橋に係留されていた船に、スポットライトが当たる。
それは、『グラン・ロワ』の半分ほどの大きさしかない、古びた木造船だった。
塗装は剥げかけ、マストには補修の跡が見える。
「セイレーン(歌う魔物)」という優雅な名とは裏腹に、船体は細く、少しの波でも木の葉のように揺れそうだ。
会場から、失笑と、同情の声が漏れる。
「おいおい、あんなボロ船で魔の海域に行くのか?」
「自殺行為だろ。時計以前に、船が沈むんじゃないか?」
「ひどい差別だ。最初から勝負させる気がないな」
あからさまな優遇と冷遇。
しかし、これは王家(というより、裏で糸を引く貴族たち)の決定だ。覆ることはない。
だが。
その不遇な宣告を受けても、ベルンシュタイン側の二人は眉一つ動かさなかった。
アルドは『セイレーン』を一瞥し、鼻を鳴らしただけだ。
(……悪くねえ。荒っぽいのが好みのジャジャ馬娘って面構えだ)
彼はむしろ、その過酷な条件を歓迎しているようにさえ見えた。
整備された街道を豪華な馬車で走っても、御者の腕は証明できない。
泥濘んだ荒れ地を走破してこそ、馬車の真価が問われるのだ。
「両チーム、乗船準備!」
号令がかかる。
それぞれの時計は、厳重な封印処理を施された後、各船の船長室へと運ばれていく。
そして、時計の管理者(メンテナンスはできないが、異常がないか監視する立会人)として、各工房から一名ずつ、技術者が乗船することになっている。
王立工房側からは、マイスター・ベルナールではなく、中堅の技師が選ばれた。ベルナールやギルバートのような高貴な人間が、危険な航海に出るはずもないからだ。彼らは港の貴賓席で、優雅にワインを飲みながら結果を待つ腹積もりだ。
対して、ベルンシュタイン側。
進み出たのは、工房長であり、この時計の生みの親であるアルド自身だった。
「おい、本気か? あの若造、自分で乗る気だぞ」
「死ぬ気か? あんなボロ船で」
ざわめきが広がる。
だがアルドは、エリアナと短く言葉を交わすと、迷いない足取りで『セイレーン』のタラップへと向かった。
その背中には、悲壮感など微塵もない。
あるのは、自分の作った時計と共に運命を共にするという、職人としての強烈な矜持だけだ。
海風が強まってきた。
空には黒い雲が湧き出し、これからの波乱を予感させる。
カモメたちが騒がしく鳴き交わす中、出航の時は刻一刻と迫っていた。
桟橋の上。
アルドが足を止める。
その後ろで、エリアナが彼を見つめていた。
群衆の喧騒が遠のく。
ここからは、二人だけの時間だ。




