第25話:王都への帰還
王都の城門が見えてきた瞬間、私の胸を去来したのは、恐怖でも感傷でもなく、静かな高揚感だった。
かつて、私たちは夜明け前の闇に紛れ、ボロボロの幌馬車でこの門をくぐった。
あの時、私の背中に張り付いていたのは「敗走者」という惨めなレッテルだった。
婚約破棄され、実家は没落寸前、未来など何一つ見えなかったあの頃。
けれど、今は違う。
「……随分と賑やかだな」
隣に座るアルドが、窓のカーテンを少し開けて外を覗いた。
彼が身につけているのは、いつもの油まみれの作業着ではない。王都への出発に際して、私が無理やり仕立てさせた、ダークグレーのフロックコートだ。
最初は「首が締まる」と文句を言っていたが、着てみれば驚くほど様になっている。背筋が伸び、鋭い眼光と相まって、気鋭の若手実業家か、あるいは孤高の芸術家のような雰囲気を醸し出している。
「コンペティションの影響でしょうね。国中から見物人が集まっているわ」
「へっ。物好きなことだ」
アルドは鼻を鳴らしたが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
彼もまた、変わった。
かつての彼は、王都という場所に怯え、常に肩を怒らせて世界を拒絶していた。
だが今の彼は、自然体だ。自分の技術に対する絶対的な自信が、彼を内側から支えている。
馬車が城門に差し掛かる。
ベルンシュタイン家の紋章――銀の山と雪の結晶――が描かれた馬車を見て、衛兵たちが敬礼をして道を空けた。
ボロボロの馬車で怪しまれたあの日とは、待遇が雲泥の差だ。
石畳の大通りを進む。
懐かしい王都の街並み。華やかなショーウィンドウ、行き交う紳士淑女たち。
以前の私なら、この煌びやかさに圧倒され、自分の地味さを恥じて縮こまっていただろう。
でも今は、それらがただの「景色」として映る。
私たちが作ってきたもの――『銀の明星』の輝きを知ってしまった今では、街中のどんな宝石も、少し色褪せて見えた。
「……あら?」
ふと、通り沿いのカフェテラスから、こちらを指差す人々が見えた。
「見て、あの紋章……ベルンシュタイン家よ」
「噂の『壊れない時計』の工房か?」
「へえ、本当に来たんだ。どんな田舎者かと思えば……」
ひそひそ話が聞こえてくる。
私たちはもう、無名ではない。
鉄道員や船乗りたちの間で広まった『ベルンシュタイン・ウォッチ』の評判は、確実に王都の市民たちにも届いていたのだ。
私は背筋を伸ばし、扇子を使わずに堂々と窓の外を見返した。
今の私が纏っているのは、流行のパステルカラーのドレスではない。
領地特産の、最高級の羊毛を使って織り上げられた、深いミッドナイトブルーのドレスだ。
装飾は最小限。首元には、ダイヤの代わりに、磨き上げられた一粒の『ベルン・シルバー』のペンダント。
シンプルだが、素材の良さと仕立ての良さが際立つその装いは、今の私の――そして私たちのブランドの哲学そのものだ。
「……綺麗だ」
沿道の誰かが呟いたのが聞こえた。
「地味」ではない。「洗練」されていると、彼らの目には映ったようだ。
* * *
馬車は、コンペティションの会場である王城前の広場に到着した。
そこには既に、巨大な特設テントが張られ、国中から集まった時計師たちや、審査員となる海軍提督、そして貴族たちでごった返していた。
馬車を降りた瞬間、無数の視線が突き刺さる。
好奇、嫉妬、値踏み。
特に、王都の時計ギルドの職人たちからの視線は冷たかった。彼らにとって私たちは、田舎から出てきた成り上がり者であり、自分たちの既得権益を脅かす邪魔者なのだ。
「……空気が悪いな」
アルドが私の隣に立ち、小声で言った。
彼は右手に、黒檀のケースをしっかりと握りしめている。
「気にしないで。私たちは私たちの仕事をするだけよ」
「ああ。分かってる」
私たちは腕を組み、会場の受付へと向かった。
その時。
「おや、誰かと思えば……生きていたのかい、エリアナ」
粘着質な声がかかった。
人混みが割れ、取り巻きを引き連れたギルバート様が現れた。
彼は相変わらず、目が痛くなるような金色の刺繍入りコートを着て、これ見よがしに宝石をジャラジャラとさせている。
「ごきげんよう、ギルバート様。ええ、おかげさまで」
「ふん。少しは見られる格好になったじゃないか。だが、その色は陰気だな。まるで喪服だ」
彼は私のドレスを鼻で笑った。
以前なら傷ついていたかもしれない。けれど今は、「まだそんなレベルの話をしているの?」と呆れる気持ちの方が強かった。
「これは『夜明け前の空の色』ですわ。これから昇る太陽を迎えるための」
「減らず口を……。まあいい、すぐに吠え面をかかせてやる」
ギルバート様は、隣に控えていた初老の男性を前へ出した。
白髪をオールバックにし、金縁の眼鏡をかけた威厳ある人物。
王立中央工房の長、マイスター・ベルナールだ。王都の時計界における絶対的な権威。
「紹介しよう。今回、私がスポンサーを務める王立工房の最高傑作を作り上げた、ベルナール殿だ」
「……お初にお目にかかります、ベルンシュタイン嬢。そして……そちらが、噂の『異端児』アルド君かね」
ベルナールの視線が、アルドに向けられた。
その目は、職人としての探究心というよりは、害虫を見るような冷徹な響きを持っていた。
「君の師匠のことは知っているよ。才能はあったが、協調性のない男だった。君も同じ道を歩んでいるようだな」
「……師匠を愚弄するな」
アルドが低く唸った。
空気が凍りつく。
「事実を言ったまでだ。時計作りとは、個人の自己満足ではない。組織の力と、伝統の重みによって成されるものだ」
ベルナールは、後ろの従者が持っていた巨大なケースを顎で示した。中身は見えないように、厳重な覆いがかけられている。
「我々が用意したクロノメーターは、王都の粋を集めた究極の至宝だ。……たかだか十数人の田舎工房が、及ぶ相手ではないことを教えてやろう」
「数じゃねえ」
アルドが一歩前に出た。
彼はベルナールの威圧感に一歩も引かず、むしろ見下ろすような気迫で言い放った。
「時計に必要なのは、百人の手じゃねえ。たった一つの『魂』だ。……アンタらの時計には、それがねえ音がする」
「なっ……! 若造が!」
ベルナールの顔が紅潮する。
ギルバート様が割って入った。
「そこまでだ! 続きはステージの上でやろうじゃないか。……せいぜい、その『鉄クズ』が動かなくならないように祈っているんだな」
彼らは捨て台詞を吐いて、会場の奥へと消えていった。
「……嫌な奴らだ」
アルドが肩の力を抜いて、ふぅと息を吐いた。
「大丈夫?」
「ああ。むしろスッキリしたぜ。あいつらが相変わらずで安心した」
彼はニヤリと笑った。
「あいつらは何も変わっちゃいねえ。権力と金に胡座をかいて、時計そのものを見てねえ。……勝てる」
その言葉に、私も強く頷いた。
王都は変わっていなかった。相変わらず、表面的な煌びやかさだけで回っている。
だからこそ、私たちが勝つ意味がある。
本物を突きつけることで、この街の目を覚まさせるのだ。
「行きましょう、アルド」
「ああ」
私たちは顔を上げ、会場の入り口をくぐった。
高い天井。シャンデリアの光。
かつて私を拒絶した世界。
けれど今、私の隣には最高のパートナーがいる。
そして私の手の中には、世界を変える『銀の明星』がある。
鐘が鳴り響いた。
コンペティションの開始を告げる、運命の鐘だ。
私は一歩、また一歩と、確かな足取りで未来へと歩み出した。
もう、俯くことはない。
私たちは、勝つために帰ってきたのだから。




