第23話:最後のワンピース
王都への出発前日。
工房の外では、明日の旅立ちに向けて準備をする馬車の音や、村人たちのざわめきが聞こえていた。
だが、俺の耳にはそれらは届いていなかった。
今の俺の世界は、直径わずか4センチメートルの、金属の円盤の中だけに存在している。
作業机の上には、完成したはずの『ジャイロ・ケージ』搭載ムーブメントが置かれている。
動いてはいる。
重力の影響も、計算通り相殺できている。
だが、まだ足りない。
基準時計と比較すると、一時間で0.5秒の遅れが出ているのだ。
一日にすれば12秒。
普通の時計なら優秀な数字だが、「王家のコンペ」で勝つには致命的な誤差だ。
「……ヒゲゼンマイの重心か」
俺は顕微鏡を覗き込みながら、小さく独り言ちた。
テンプの振動を司る、髪の毛より細いヒゲゼンマイ。
その渦巻きの形状が、ミクロン単位で歪んでいる。それが回転時の遠心力で増幅され、微かな遅れを生んでいるのだ。
修正するには、ゼンマイのカーブを手作業で曲げ直すしかない。
だが、相手は『ベルン・スチール』だ。強靭なバネ性を持つこの金属は、生半可な力では曲がらないし、力を入れすぎれば折れるか、逆方向に弾け飛ぶ。
許される誤差はゼロ。
やり直しは効かない。
俺は一度顕微鏡から目を離し、深呼吸をした。
酸素を肺の底まで入れ替え、心拍数を強制的に下げる。
指先の感覚を研ぎ澄ます。
皮膚の厚さが邪魔だ。俺は指先をヤスリで少し削り、神経を露出させる感覚で鋭敏にした。
そして、胸ポケットからあるものを取り出した。
古びた、真鍮枠のキズミ(ルーペ)。
師匠の形見だ。
ガラスには無数の傷が入っている。師匠が何万回と覗き込み、時計と格闘してきた証だ。
俺はそれを右目に嵌め込んだ。
冷たい金属の感触が、まぶたに馴染む。
瞬間、俺の視界に師匠の背中が重なった気がした。
『アルド、よく見ろ。時計は喋らないが、嘘もつかない』
師匠の声が聞こえる。
『誤差には必ず原因がある。部品が泣いている場所を探せ』
ああ、分かってるよ、師匠。
聞こえるぜ。こいつの悲鳴が。
「もっと速く回りたいのに、何かが足を引っ張ってる」ってな。
俺は再び顕微鏡を覗き込んだ。
右手のピンセットでヒゲゼンマイの外端を掴み、左手のピンセットで内側を支える。
息を止める。
心臓の鼓動すら邪魔だ。鼓動と鼓動の間の、一瞬の静寂を狙う。
今だ。
クッ。
指先に、ごく僅かな力を込める。
視認できないレベルの動き。だが、指先には金属分子がキシリと悲鳴を上げ、配列を変えた感触が伝わってきた。
0.001ミリ、内側へ。
俺はピンセットを離した。
ゼンマイは美しいアルキメデスの螺旋を描き、歪みは消えていた。
「……よし」
俺は息を吐き出した。
だが、まだ終わりではない。
次はアンクルの爪だ。
ガンギ車を蹴り出すルビーの爪。こいつの角度が深すぎて、摩擦を生んでいる。
俺はダイヤモンドペーストをつけた極細の棒を手に取り、ルビーの表面を磨き始めた。
削りすぎればスカスカになり、時計は暴走する。
磨く回数は三回。それ以上はダメだ。
シュッ、シュッ、シュッ。
リズムよく、かつ慎重に。
研磨されたルビーの粉末が、油の中でキラリと光る。
時間は溶けるように過ぎていく。
喉が渇いた。
空腹で胃が痛い。
だが、この集中状態を切るわけにはいかない。
俺は今、機械と対話しているんじゃない。物理法則そのものと交渉しているんだ。
「もう少しだけ、重力さん、負けてくれませんか」と。
ふと、視界の端に白い手が差し出された。
濡れたタオルだ。
エリアナだ。彼女はずっと俺の横に立ち、俺が汗をかけば拭き、喉を鳴らせば水をストローで飲ませてくれていた。
言葉は発しない。俺の邪魔にならないよう、気配すら消している。
だが、その体温だけが、俺を現実に繋ぎ止めてくれている。
ありがとう。
心の中で呟き、俺は最後の工程に入った。
テンプの重量バランス調整。
回転するケージの中で、テンプ自体の重心が偏っていては意味がない。
俺はテンプの縁に、微細な金のワッシャーを噛ませていく。
その重さ、一粒あたり0.0001グラム。
鼻息一つで飛んでいく砂粒のような部品を、所定の位置にねじ込んでいく。
一つ。二つ。
まだだ。まだ回転にブレがある。
三つ目。
……違う。重すぎる。
俺はワッシャーを外し、ヤスリで一撫でして軽くしてから、再びセットした。
その時。
テンプの回転音が変わった。
チチチチ……という音から、雑音が消えた。
ヒュン……ヒュン……。
風を切る音すら消え、完全な静寂の中で、ただ視覚的な残像だけが回っているような錯覚。
抵抗ゼロ。
摩擦ゼロ。
エネルギーの損失が極限までなくなった状態。
「……来た」
俺は震える手で顕微鏡から目を離した。
基準時計を見る。
計測開始。
一分。
十分。
一時間。
……ズレなし。
秒針の位置は、コンマ一秒たりとも狂っていない。
さらに、俺は時計を傾けた。
45度、90度、180度。
どの角度にしても、あの静寂な回転は乱れない。
かつて師匠が夢見、過去の偉人たちすら到達できなかった「姿勢差ゼロ」の領域。
俺は椅子に深くもたれかかった。
全身から力が抜け、指先が痺れている。
終わった。
いや、始まったんだ。
「……アルド?」
エリアナが、恐る恐る声をかけてきた。
俺はゆっくりと彼女の方を向いた。
右目のルーペを外す。
そこには、心配そうに、でも期待に満ちた瞳で俺を見つめる彼女の顔があった。
「……入ったよ」
「え?」
「最後のワンピースが、ハマった」
俺は作業机の上の時計を指差した。
「完成だ。……これ以上の時計は、神様でも作れねえ」
エリアナが息を呑み、そして両手で口元を覆った。
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「よかった……! 本当によかった……!」
彼女は俺に抱きつこうとして、ためらい、代わりに俺の手を両手で包み込んだ。
温かい。
冷え切った俺の指先に、彼女の熱が流れ込んでくる。
「お疲れ様、アルド。本当に……すごいわ」
「あんたがいてくれたからだ」
俺は彼女の手を握り返した。
師匠のルーペをポケットにしまう。
師匠、聞こえたかい?
あんたの弟子は、あんたを超えたぜ。
でも、これはゴールじゃねえ。
この時計を使って、俺たちの未来を切り拓くんだ。
「……日が暮れるな」
俺は窓の外を見た。
いつの間にか空は茜色に染まり、一番星が瞬き始めていた。
長く、苦しい調整が終わったのだ。
「行くぞ、エリアナ」
俺は立ち上がった。膝が少し笑ったが、気力は満ちていた。
「出発は明日だ。今夜はこの時計に、名前をつけてやらなきゃな」
俺たちの手には、世界を変える鍵(時計)が握られている。
宵闇の中で動き出したその小さな心臓は、明日からの激動の未来を予感させるように、力強く時を刻み始めていた。




