第22話:究極機構「ジャイロ・ケージ」
王都への出発まで、残り三日。
工房は、静寂に包まれていた。
数日前までの怒号や金属音はない。全ての部品の加工が終わり、あとは俺がそれを組み上げるだけの段階に入っていたからだ。
作業机の上には、弟子たちが命を削って作り出した部品たちが並んでいる。
『ベルン・スチール』から削り出された、髪の毛よりも細い支柱。
極限まで肉抜きされ、向こう側が透けて見えるような歯車。
そして、主役となる「回転カゴ(ケージ)」の土台。
俺はピンセットを手に取り、深呼吸をした。
ここからは、一発勝負だ。
この機構はあまりに繊細すぎて、一度組み間違えれば、部品が歪んで二度と使えなくなる。
失敗すれば、俺たちに後はない。
「……親方」
背後で見ていたブルーノが、震える声で呟いた。
「本当に、支えがなくて大丈夫なんですか? 上から吊るさなくて、倒れませんか?」
彼の不安はもっともだ。
俺がこれから組もうとしているのは、これまでの時計の常識を覆す「片持ち構造」だ。
テンプという心臓部を、下からの軸一本だけで支え、空中に浮かせたまま回転させる。
まるで、独楽の先端に家を建てるような無茶な所業だ。
「大丈夫だ。信じろ」
俺は短く答え、顕微鏡を覗き込んだ。
レンズの向こうに、金属の荒野が広がる。
俺はそこへ、神殿を建てるのだ。
まずは土台となるベアリングの設置。
ここに全ての荷重がかかる。0.001ミリの傾きも許されない。
俺は呼吸を止め、心臓の鼓動の合間を縫って指を動かした。
カチリ。
完璧な水平が出た。
次に、ケージの軸を通す。
『ベルン・スチール』特有の、青みがかった銀色の軸。
太さはわずか0.2ミリ。だが、この細い棒が、重力という巨大な敵と戦うための唯一の武器だ。
俺は祈るような気持ちで、それをベアリングの中心に沈めた。
スッ……。
吸い込まれるように収まった。
ガタつきはない。摩擦も感じない。まるで氷の上を滑るような滑らかさだ。
「……いいぞ」
俺の額を汗が伝う。エリアナがすかさず、清潔な布でそれを拭ってくれる。
彼女の気配が、俺の集中力を支えている。
一人じゃない。
師匠の時は孤独だった。だが今の俺には、最高の素材と、最高の弟子と、そして最高のパートナーがいる。
いよいよ、心臓部の組み込みだ。
テンプ、ヒゲゼンマイ、アンクル、ガンギ車。
通常なら地板に固定されるこれらの部品を、全てこの小さなケージの中に詰め込む。
空間がない。
部品同士の隙間は、紙一枚分もない。
互いが互いを避け合いながら、しかし密接に連動するように配置していく。
立体パズルだ。それも、失敗したら爆発するパズルだ。
俺の手が止まる。
ガンギ車を入れる角度が難しい。
無理に押し込めば、ヒゲゼンマイに接触する。
一度息を吐き、指先の筋肉をリセットする。
イメージしろ。
水車だ。
余計な枠を取り払い、自由に回る水車。
部品たちが「あるべき場所」に収まりたがっている声を聞け。
スッ、カチャ。
入った。
全ての臓器が、カゴの中に収まった。
最後に、テンプを上からセットする。
通常なら、ここから「ブリッジ」という蓋をして固定するのだが、今回はそれがない。
テンプは、下からの軸の先端だけで支えられ、宙に浮いている。
不安定に見える。
だが、その不安定さこそが、美しさの証だ。
「……組み上がった」
俺が顔を上げると、工房中が静まり返っていた。
全員が、作業机の上にある小さな機械を見つめている。
それは、異様な姿をしていた。
ムーブメントの地板にぽっかりと開いた穴。
その中心に、青白い鋼の檻が立っている。
支える柱も、視界を遮る屋根もない。
ただ、テンプと歯車が空中で絡み合い、重力に逆らって浮遊しているように見える。
「こいつは……」
ブルーノがゴクリと喉を鳴らした。
「まるで、魔法ですね。部品が浮いてるみてえだ」
「ああ。名付けて《飛翔する籠》」
俺はニヤリと笑った。
「あるいは、重力を支配する機構――『ジャイロ・ケージ』だ」
名前なんてどうでもいい。
重要なのは、こいつが動くかどうかだ。
理論上、上の支えをなくしたことで重量は劇的に軽くなった。摩擦も半分以下だ。
だが、片持ちの軸だけで、高速回転の遠心力に耐えられるのか?
「動かすぞ」
俺はリューズに手をかけた。
カリ、カリ、カリ……。
ゼンマイを巻く音が、審判の鐘のように響く。
パワーが蓄えられる。
さあ、目覚めろ。師匠が夢見て、俺たちが形にした、最強の怪物よ。
俺はピンセットの先で、空中に浮くテンプを優しく弾いた。
その瞬間。
ヒュンッ……。
ケージが回転を始めた。
一分間に一回転。
その中で、テンプがチチチチチ……と高速で脈動する。
回る。回る。
驚くほどスムーズに。
以前の試作品のような、苦しげな振動音はない。
風を切るような微かな音と共に、ケージは優雅に、軽やかに舞っている。
まるで、重力という鎖から解き放たれ、自由を謳歌しているかのように。
「……傾けるぞ」
俺は時計を持ち上げた。
弟子たちが息を呑む。
以前は、ここで止まった。自壊した。
俺は時計を垂直に立てた。
90度。
……回っている。
音のリズムは全く変わらない。
軸がたわむことも、回転がブレることもない。『ベルン・スチール』の強靭なバネ性が、カゴの重量を完璧に支えているのだ。
さらに傾ける。
裏返す。
振る。
チチチチチチチ……。
止まらない。
どんな姿勢にしても、ジャイロ・ケージは涼しい顔で回転を続け、重力を受け流し続けている。
「……成功だ」
俺が小さく呟くと、工房の中に安堵のため息が広がった。
歓声を上げようとした弟子たちを、俺は手で制した。
「まだだ。喜ぶのは早い」
俺は回転し続けるケージを見つめた。
機構としては完成した。
だが、これはまだ「動く」という段階に過ぎない。
コンペで求められるのは「一ヶ月の航海で誤差一分以内」という、神のごとき精度だ。
そのためには、ここからさらに微調整を行わなければならない。
ヒゲゼンマイの重心調整、アンクルの爪の当たり具合、油の量……。
無限とも言える変数を、全て最適解に導く必要がある。
「……ここからが本当の地獄だ」
俺は顕微鏡の倍率を上げた。
師匠の形見のルーペを握りしめる。
山頂は見えた。
だが、最後の一歩が、最も険しく、遠い。
俺は自分の魂を削ってでも、この時計に「永遠」を吹き込んでやる。
俺の目は、まだ勝利を確信してはいなかった。
ただ、目の前の小さな宇宙に、全存在を没入させていくだけだった。




