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王都の天才時計師と、銀雪の令嬢 ~「君の領地を時計の聖地にする」と約束した彼は、伝説の師から託された《究極の機構》で国を救い、私と結ばれました~  作者: ぱる子
第3章:王家のコンペティション

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第20話:スランプ

 工房の空気は、張り詰めた糸のように今にも切れそうだった。

 王都への出発まで、残り十二日。

 外では秋の冷たい雨が降り続いていたが、工房の中は熱気と、そして焦燥感で息苦しいほどだった。


 ガシャーン!


 何かが床に叩きつけられる音が響き、弟子たちがビクリと肩をすくめた。

 まただ。

 アルドが失敗した試作品を投げ捨てたのだ。


「違う……! これじゃねえ! なんでだ、なんでバランスが取れねえ!」


 アルドが髪をかきむしりながら叫ぶ。

 その姿は、見ていられないほど痛々しかった。

 頬はげっそりとこけ、無精髭が伸び、目は充血して血走っている。

 先日、私の差し入れを振り払って怒鳴って以来、彼は誰とも口を利こうとせず、食事すら拒否して作業机にかじりついていた。


 『重力制御籠ジャイロ・ケージ』の開発は、完全に泥沼にはまっていた。

 理論上は完璧なはずの設計図。

 けれど、実際に形にすると、複雑すぎる構造が仇となり、わずかな傾きや衝撃で自壊してしまう。

 それを修正しようと部品を足せば足すほど、機械は肥大化し、さらに繊細になり、また壊れる。

 悪循環だった。


「アルド……」


 私は遠巻きに彼を見つめることしかできなかった。

 声をかければ、また彼を追い詰めてしまうかもしれない。

 でも、このままでは彼の体が持たない。


「クソッ……! 動けよ! なんで動かねえんだよ!」


 彼は叫び、立ち上がろうとした。

 その時だった。


 ガタッ。


 椅子が倒れる音がした。

 アルドの体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


「アルド!」


 私は悲鳴を上げて駆け寄った。

 床に倒れた彼の体は、火のように熱かった。

 過労と高熱。限界を超えていたのだ。


「親方!」

「早く! 誰か医者を!」


 弟子たちが慌てて集まってくる。

 ハンスとブルーノ爺さんがアルドを抱え上げ、奥の仮眠室へと運んでいく。

 薄れゆく意識の中で、アルドがうわ言のように呟くのが聞こえた。


「……まだだ……まだ、回ってねえ……クソッ……」


 その声を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れた。

 彼は戦っている。

 見えない「重力」と、そして「師匠の死」という呪いと。


          * * *


 仮眠室の窓を叩く雨音だけが、静かに響いていた。

 ランプの明かりを絞った薄暗い部屋で、私はベッドの脇に座り、アルドの看病を続けていた。

 濡れタオルで額を冷やし、汗を拭う。

 村の診療所の医師は「極度の疲労と栄養失調」だと診断し、とにかく眠らせるようにと言って帰っていった。


 アルドは浅い呼吸を繰り返しながら、悪夢にうなされていた。


「……右に傾くと……止まる……摩擦が……」

「……師匠……すまねえ……」


 熱に浮かされながらも、彼の頭の中は時計のことでいっぱいなのだ。

 私は彼の手を握った。

 あんなに力強く、頼もしかった職人の手が、今は熱を持って震えている。

 その指先は、無数の傷と、鋼を削った時の鉄粉で黒く染まっていた。


「……ごめんね、アルド」


 私は彼の手を頬に押し当てた。

 あの日、彼が私の手を温めてくれたように、今度は私が彼を支えなければ。

 彼が私の手を振り払った時の、あの悲痛な表情が忘れられない。

 彼は私を拒絶したかったんじゃない。自分自身の不甲斐なさが許せなかったのだ。


 ふと、アルドが目を開けた。

 焦点が合っていない、虚ろな瞳。


「……エリアナ……?」

「ええ、ここにいるわ」

「……時計は? まだ……作らなきゃ……」


 彼は上体を起こそうとしたが、力が入らずに枕に沈んだ。


「ダメだ……解けねえ……。パズルが、複雑すぎて……出口が見つからねえんだ……」


 彼は子供のように弱々しい声で言った。


「足しても足しても、足りねえ。師匠もそうだった。俺も……同じ場所で迷子になっちまったみたいだ」


 迷子。

 彼は今、自分の作った複雑怪奇な迷宮の中に閉じ込められているのだ。

 どうすれば、彼を連れ戻せるだろうか。

 私には時計の知識はない。技術的な助言はできない。

 でも、私にできることが一つだけある。


 私はポケットから、あるものを取り出した。

 古びた真鍮の懐中時計。

 祖父の形見であり、アルドと私を出会わせてくれた、あの時計だ。


「……アルド。これ、覚えてる?」


 私は時計を彼の目の前にかざした。


「……あんたの……時計……」

「そう。あなたが最初に直してくれた時計よ」


 私はリューズを巻き、彼の耳元にそっと押し当てた。


 チチチチチチチチ……。


 静かな部屋に、規則正しい音が響き渡る。

 それは、今彼が作ろうとしている複雑なジャイロ・ケージの音とは違う。

 シンプルで、素朴で、でも何よりも力強い音。


「……いい音だろ?」


 アルドが目を閉じ、微かに笑った。


「ああ。……懐かしい音だ」

「あなたが蘇らせてくれた音よ」


 私は彼の手を握り直し、語りかけた。


「あの時、あなたは言ったわ。『いい仕事だ』って。『手抜きがない、正直な時計だ』って」


 アルドの呼吸が、少しずつ時計のリズムと合っていく。


「今のあなたは、焦りすぎているわ。完璧を求めすぎて、時計をいじめすぎている気がする」

「……いじめてる?」

「ええ。複雑にすればするほど、時計は苦しそうな音を立てていたわ。……もっと、信じてあげて」


 私は彼の熱い額に、自分の額をコツンと当てた。


「焦らないで、アルド。時は止まらないけど、逃げたりもしないわ」


 時は逃げない。

 それは、かつて私が絶望していた時に、自分に言い聞かせていた言葉だ。

 そして、彼が直してくれたこの時計が教えてくれたことでもある。


「あなたが積み上げてきた技術は、嘘をつかない。師匠の夢も、私の期待も、一度忘れていいの。……ただ、あなたが『美しい』と思う時計を作って」


 アルドは目を開け、私をじっと見つめた。

 その瞳から、狂気じみた焦燥の色が消え、代わりに静かな凪のような色が戻ってきていた。


 彼は耳元の時計の音に、じっと耳を澄ませた。

 チチチチ……。

 単純な構造。

 だからこそ、壊れない強さ。

 彼の原点。


「……そうか」


 彼がポツリと呟いた。


「俺は……難しく考えすぎてたのかもな」

「え?」

「師匠の設計図をなぞることばかり考えてた。でも、この音は……もっと単純で、強い」


 彼は何かを掴みかけたように見えたが、すぐに苦しげに眉を寄せた。


「だが、単純にすれば機能しねえ……。重力に負けちまう……。どうすればいい……」


 彼の声はまだ迷いの中にあった。

 精神的な落ち着きは取り戻したが、技術的な壁は依然として高くそびえ立っているようだ。

 ふっと力が抜け、まぶたが重く落ちていく。


「……ありがとう、エリアナ」


 彼は私の手を握り返した。


「少し……眠る。目が覚めても……まだ答えは見つからねえかもしれねえが……」

「ええ。それでもいいわ。私がずっとそばにいるから」


 彼は安らかな寝息を立て始めた。

 先ほどまでのうなされるような呼吸ではない。深く、泥のように眠っている。


 私は彼に毛布を掛け直し、しばらくその寝顔を見つめていた。

 雨音はまだ止まない。

 でも、部屋の中には、懐中時計の刻む優しい音だけが満ちていた。


 彼はきっと、戻ってくる。

 今はまだ暗闇の中かもしれないけれど、必ず出口を見つけてくれる。

 私はその時まで、彼の眠りを守り続けようと誓った。

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