第20話:スランプ
工房の空気は、張り詰めた糸のように今にも切れそうだった。
王都への出発まで、残り十二日。
外では秋の冷たい雨が降り続いていたが、工房の中は熱気と、そして焦燥感で息苦しいほどだった。
ガシャーン!
何かが床に叩きつけられる音が響き、弟子たちがビクリと肩をすくめた。
まただ。
アルドが失敗した試作品を投げ捨てたのだ。
「違う……! これじゃねえ! なんでだ、なんでバランスが取れねえ!」
アルドが髪をかきむしりながら叫ぶ。
その姿は、見ていられないほど痛々しかった。
頬はげっそりとこけ、無精髭が伸び、目は充血して血走っている。
先日、私の差し入れを振り払って怒鳴って以来、彼は誰とも口を利こうとせず、食事すら拒否して作業机にかじりついていた。
『重力制御籠』の開発は、完全に泥沼にはまっていた。
理論上は完璧なはずの設計図。
けれど、実際に形にすると、複雑すぎる構造が仇となり、わずかな傾きや衝撃で自壊してしまう。
それを修正しようと部品を足せば足すほど、機械は肥大化し、さらに繊細になり、また壊れる。
悪循環だった。
「アルド……」
私は遠巻きに彼を見つめることしかできなかった。
声をかければ、また彼を追い詰めてしまうかもしれない。
でも、このままでは彼の体が持たない。
「クソッ……! 動けよ! なんで動かねえんだよ!」
彼は叫び、立ち上がろうとした。
その時だった。
ガタッ。
椅子が倒れる音がした。
アルドの体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「アルド!」
私は悲鳴を上げて駆け寄った。
床に倒れた彼の体は、火のように熱かった。
過労と高熱。限界を超えていたのだ。
「親方!」
「早く! 誰か医者を!」
弟子たちが慌てて集まってくる。
ハンスとブルーノ爺さんがアルドを抱え上げ、奥の仮眠室へと運んでいく。
薄れゆく意識の中で、アルドがうわ言のように呟くのが聞こえた。
「……まだだ……まだ、回ってねえ……クソッ……」
その声を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れた。
彼は戦っている。
見えない「重力」と、そして「師匠の死」という呪いと。
* * *
仮眠室の窓を叩く雨音だけが、静かに響いていた。
ランプの明かりを絞った薄暗い部屋で、私はベッドの脇に座り、アルドの看病を続けていた。
濡れタオルで額を冷やし、汗を拭う。
村の診療所の医師は「極度の疲労と栄養失調」だと診断し、とにかく眠らせるようにと言って帰っていった。
アルドは浅い呼吸を繰り返しながら、悪夢にうなされていた。
「……右に傾くと……止まる……摩擦が……」
「……師匠……すまねえ……」
熱に浮かされながらも、彼の頭の中は時計のことでいっぱいなのだ。
私は彼の手を握った。
あんなに力強く、頼もしかった職人の手が、今は熱を持って震えている。
その指先は、無数の傷と、鋼を削った時の鉄粉で黒く染まっていた。
「……ごめんね、アルド」
私は彼の手を頬に押し当てた。
あの日、彼が私の手を温めてくれたように、今度は私が彼を支えなければ。
彼が私の手を振り払った時の、あの悲痛な表情が忘れられない。
彼は私を拒絶したかったんじゃない。自分自身の不甲斐なさが許せなかったのだ。
ふと、アルドが目を開けた。
焦点が合っていない、虚ろな瞳。
「……エリアナ……?」
「ええ、ここにいるわ」
「……時計は? まだ……作らなきゃ……」
彼は上体を起こそうとしたが、力が入らずに枕に沈んだ。
「ダメだ……解けねえ……。パズルが、複雑すぎて……出口が見つからねえんだ……」
彼は子供のように弱々しい声で言った。
「足しても足しても、足りねえ。師匠もそうだった。俺も……同じ場所で迷子になっちまったみたいだ」
迷子。
彼は今、自分の作った複雑怪奇な迷宮の中に閉じ込められているのだ。
どうすれば、彼を連れ戻せるだろうか。
私には時計の知識はない。技術的な助言はできない。
でも、私にできることが一つだけある。
私はポケットから、あるものを取り出した。
古びた真鍮の懐中時計。
祖父の形見であり、アルドと私を出会わせてくれた、あの時計だ。
「……アルド。これ、覚えてる?」
私は時計を彼の目の前にかざした。
「……あんたの……時計……」
「そう。あなたが最初に直してくれた時計よ」
私はリューズを巻き、彼の耳元にそっと押し当てた。
チチチチチチチチ……。
静かな部屋に、規則正しい音が響き渡る。
それは、今彼が作ろうとしている複雑なジャイロ・ケージの音とは違う。
シンプルで、素朴で、でも何よりも力強い音。
「……いい音だろ?」
アルドが目を閉じ、微かに笑った。
「ああ。……懐かしい音だ」
「あなたが蘇らせてくれた音よ」
私は彼の手を握り直し、語りかけた。
「あの時、あなたは言ったわ。『いい仕事だ』って。『手抜きがない、正直な時計だ』って」
アルドの呼吸が、少しずつ時計のリズムと合っていく。
「今のあなたは、焦りすぎているわ。完璧を求めすぎて、時計をいじめすぎている気がする」
「……いじめてる?」
「ええ。複雑にすればするほど、時計は苦しそうな音を立てていたわ。……もっと、信じてあげて」
私は彼の熱い額に、自分の額をコツンと当てた。
「焦らないで、アルド。時は止まらないけど、逃げたりもしないわ」
時は逃げない。
それは、かつて私が絶望していた時に、自分に言い聞かせていた言葉だ。
そして、彼が直してくれたこの時計が教えてくれたことでもある。
「あなたが積み上げてきた技術は、嘘をつかない。師匠の夢も、私の期待も、一度忘れていいの。……ただ、あなたが『美しい』と思う時計を作って」
アルドは目を開け、私をじっと見つめた。
その瞳から、狂気じみた焦燥の色が消え、代わりに静かな凪のような色が戻ってきていた。
彼は耳元の時計の音に、じっと耳を澄ませた。
チチチチ……。
単純な構造。
だからこそ、壊れない強さ。
彼の原点。
「……そうか」
彼がポツリと呟いた。
「俺は……難しく考えすぎてたのかもな」
「え?」
「師匠の設計図をなぞることばかり考えてた。でも、この音は……もっと単純で、強い」
彼は何かを掴みかけたように見えたが、すぐに苦しげに眉を寄せた。
「だが、単純にすれば機能しねえ……。重力に負けちまう……。どうすればいい……」
彼の声はまだ迷いの中にあった。
精神的な落ち着きは取り戻したが、技術的な壁は依然として高くそびえ立っているようだ。
ふっと力が抜け、まぶたが重く落ちていく。
「……ありがとう、エリアナ」
彼は私の手を握り返した。
「少し……眠る。目が覚めても……まだ答えは見つからねえかもしれねえが……」
「ええ。それでもいいわ。私がずっとそばにいるから」
彼は安らかな寝息を立て始めた。
先ほどまでのうなされるような呼吸ではない。深く、泥のように眠っている。
私は彼に毛布を掛け直し、しばらくその寝顔を見つめていた。
雨音はまだ止まない。
でも、部屋の中には、懐中時計の刻む優しい音だけが満ちていた。
彼はきっと、戻ってくる。
今はまだ暗闇の中かもしれないけれど、必ず出口を見つけてくれる。
私はその時まで、彼の眠りを守り続けようと誓った。




