第2話:路地裏の工房
翌朝、王都の空はどんよりとした鉛色に覆われていた。
昨夜の初雪は既に溶けてしまい、石畳の路面を濡らして黒光りさせている。吐く息は白く、私はコートの襟をかき合わせて、王都の目抜き通りを歩いていた。
大通りには、ショーウィンドウを磨き上げる店員たちの姿や、朝の仕入れに急ぐ馬車の音が響いている。
私が目指したのは、王都でも指折りの老舗時計店『王立時計塔支店』だった。
カラン、とドアベルを鳴らして中に入ると、暖房の効いた暖かい空気と、無数の時計が刻むチクタクという音が私を包み込んだ。
磨き上げられたマホガニーのカウンターの向こうから、白髪の上品な店主が顔を出す。
「いらっしゃいませ。おや、これはベルンシュタイン伯爵令嬢ではありませんか」
「ごきげんよう。少し、見ていただきたいものがあって」
私はポケットから、ハンカチに包んだ祖父の懐中時計を取り出した。
店主は片眼鏡をかけてそれを手に取ると、数秒眺めただけで、困ったように眉を下げた。
「ああ……これは。以前もお持ち込みになられましたな」
「はい。どうしても諦めきれなくて。部品がないなら、新しく作っていただくことはできませんか? 費用はなんとか工面します」
私の必死な訴えに、店主は首を横に振った。
「令嬢。これは金の問題ではないのです。この時計は……構造が古すぎる上に、特殊すぎる。今の規格に合う部品など一つもない。それに」
「それに?」
「……今朝方、アークライト子爵家の方から通達がありましてな。『ベルンシュタイン家との取引は、今後一切遠慮していただきたい』と」
心臓が冷たい手で掴まれたように跳ねた。
ギルバート様だ。
昨夜の今日で、もう手を回したのか。
「うちは王室御用達の看板を守らねばなりません。飛ぶ鳥を落とす勢いのアークライト家を敵に回すわけにはいかないのです。お引き取りください」
慇懃無礼に時計を返され、私は店を追い出された。
その後も、私はめげずに何軒もの時計店を回った。
二番目に有名な店、技術に定評がある工房、貴族御用達の宝飾店。
けれど、答えはどこも同じだった。
「その時計は直せない」
「アークライト子爵のご機嫌を損ねたくない」
断られるたびに、自分の無力さを突きつけられるようだった。
ギルバート様の影響力は、私が思っていた以上にこの王都の時計業界に浸透している。流行の最先端を行く彼の機嫌を損ねることは、商人たちにとって死活問題なのだ。
昼過ぎには、もう大通りに私の入る店はなくなってしまった。
冷たい風に吹かれながら、私は途方に暮れて立ち尽くす。
「……まだよ」
諦めない。
私は自分に言い聞かせるように呟くと、華やかな大通りに背を向けた。
表通りが駄目なら、裏へ行くしかない。
王都の裏路地。そこには、ギルドに属さない流しの職人や、訳ありの店がひしめいていると聞いたことがある。
伯爵令嬢が一人で足を踏み入れていい場所ではない。
でも、私にはもう失うものなんて、この動かない時計以外に何もないのだ。
一本、路地を入ると、空気は一変した。
香水の匂いは消え、代わりに油と鉄、そして石炭の焦げたような匂いが漂ってくる。
建物はどれも煤けていて、壁には配管が這い回り、頭上には洗濯物が万国旗のように干されている。
道行く人々も、身なりの良い貴族ではなく、作業着を着た職人や、目つきの鋭い労働者ばかりだ。
私はコートのフードを目深に被り、時計の修理ができそうな看板を探して歩いた。
『何でも修理屋』『からくり細工』……似たような店はあるが、どれも怪しげで、とても精密機械を預けられるような雰囲気ではない。
一時間、二時間。
歩き続けて、足が棒のようになってきた頃。
路地裏のさらに奥、まるで迷路のどん詰まりのような場所に、一軒の古びた建物を見つけた。
煉瓦造りの二階建て。窓ガラスは煤けていて中は見えない。
看板すら出ていないが、扉の横に小さな真鍮のプレートが打ち付けられていた。
――『ヴァン・ライン時計工房』。
飾り気のない、実用一点張りの字体。
その無骨さに、私は妙に惹かれるものを感じた。
ここなら、もしかして。
微かな希望を抱いて、私がドアノブに手を伸ばそうとした、その時だ。
「いい加減にしろよ、アルド!」
扉の向こうから、荒げた男の怒鳴り声が響いてきた。
私はビクリと手を止める。
中から、ドスッという何かが蹴り飛ばされたような音と、ガシャンと金属が床に散らばる音が聞こえる。
「さっさとこの店を畳んで、権利書をよこせって言ってんだよ! 先代が死んでから借金は膨らむ一方だろうが!」
「……断る」
怒鳴り声に対して、返ってきたのは低く、しかし芯のある静かな声だった。
「ここは師匠の場所だ。誰にも渡さない」
「ああん? まだそんな寝言を言ってやがるのか! 王都のギルドもお前みたいな頑固者は見限ってるんだよ! お前の作る時計はな、時代遅れの鉄クズなんだよ!」
鉄クズ。
その言葉に、私は昨夜のギルバート様の言葉を思い出し、胸が痛んだ。
扉の隙間から、中の様子がわずかに見える。
薄暗い工房の中。
作業机に向かって座っている一人の青年がいた。
背中を丸め、何かを守るようにじっと座っている。
彼の周りを取り囲んでいるのは、柄の悪そうな男たち。典型的な借金取りだ。
「おい、聞いてんのか! この『設計図』だってそうだ。こんなもん、紙屑にしかならねえんだよ!」
男の一人が、机の上に置かれていた羊皮紙の束を掴み取り、床に叩きつけた。
青年の肩が、ピクリと跳ねる。
「……触るな」
「なんだと?」
「汚い手で、師匠の夢に触るなと言ったんだ」
青年が立ち上がった。
ボサボサの黒髪。油にまみれた作業着。
けれど、その隙間から覗く瞳は、暗闇の中で光る狼の目のように鋭く、強烈な光を宿していた。
「俺は時計を作る。借金は必ず返す。だから失せろ」
「ちっ……! 威勢だけはいいご身分だな。だがな、期限は来週だ。それまでに金を用意できなきゃ、このボロ屋は強制的に差し押さえだ。覚えとけ!」
男たちは捨て台詞を吐くと、乱暴に扉を開けて出てきた。
私は咄嗟に路地の陰に身を隠す。
男たちは舌打ちをしながら去っていった。
静寂が戻った路地裏に、冷たい風が吹き抜ける。
私は隠れていた場所から恐る恐る出て、開いたままの扉から中を覗いた。
青年――アルドと呼ばれていた彼は、床に散らばった羊皮紙を一枚一枚、丁寧に拾い集めていた。
その手つきは、先ほどの威圧的な態度とは裏腹に、まるで壊れ物を扱うように優しく、繊細だった。
指先は油で黒く汚れているけれど、爪は短く切り揃えられ、節くれ立ったその手は、いかにも「職人の手」という感じがした。
彼は拾い集めた設計図を作業机に戻すと、ふぅ、と深く息を吐き、乱れた髪をかき上げた。
そして、ふと気配を感じたのか、ゆっくりとこちらを振り向いた。
目が合った。
深い、夜の海のような瞳だった。
そこには孤独と、焦燥と、そして決して消えない情熱の火種が燻っているように見えた。
「……客か?」
低く、少ししゃがれた声。
歓迎の色は全くない。むしろ、警戒心に満ちている。
こんなボロ着の、しかも借金取りに追われている男の店に、貴族の娘が入るなんて正気の沙汰ではないだろう。
普通なら、回れ右をして逃げ出す場面だ。
けれど、私は動けなかった。
彼が背後の作業机に置いていた、作りかけの時計の一部が見えたからだ。
拡大鏡の下に置かれたそれは、まだ歯車とバネが組み合わされただけの未完成品だったけれど、窓から差し込むわずかな光を反射して、息を呑むほど美しく輝いていた。
飾り気はない。宝石もない。
ただ、磨き抜かれた金属の光沢と、計算し尽くされた歯車の配置が作り出す、幾何学的な美。
――見つけた。
私の直感が、激しく鐘を鳴らした。
この人だ。
王都の煌びやかな宝飾店にはなかった、「本物」がここにある。
私は恐怖を飲み込み、一歩、店の中へと足を踏み入れた。
床板がギシ、と軋む。
「……修理を、お願いしたいのです」
私の声は少し震えていたかもしれない。
アルドは怪訝そうに眉を寄せ、私の着ている藍色のドレスと、フードの下の顔を値踏みするように見た。
「ここは貴族様が遊びに来る場所じゃない。冷やかしなら帰ってくれ」
「冷やかしではありません。私は……これを、直せる人を探しているんです」
私は懐中時計を差し出した。
アルドの視線が、私の手の中にある時計に落ちる。
瞬間、彼の瞳の色が変わった。
先ほどまでの警戒心が消え、純粋な職人としての好奇心が浮かび上がる。
「……見せろ」
彼は短く言い、私の返事も待たずに時計をひったくるように受け取った。
その手つきは乱暴に見えて、時計そのものには指紋一つ付けないよう、縁を慎重に保持していた。
彼は作業机のランプを引き寄せ、片目にルーペを嵌めると、無言で時計を凝視し始めた。
沈黙が落ちる。
聞こえるのは、壁に掛けられた無数の古時計が刻む、チク、タク、という音だけ。
私の心臓の音も、それに合わせて早鐘を打っている気がした。
他の店では、一目見て「無理だ」と言われた。
彼も同じだろうか。
また、「時代遅れの鉄クズだ」と笑われるのだろうか。
永遠にも感じる数分間の後。
アルドはゆっくりとルーペを外し、私を見た。
その表情は、依然として無愛想なままだったけれど、先ほどのような拒絶の色は消えていた。
「……いい機械だ」
ぽつりと、彼が呟いた。
その一言が、私の胸に温かく染み渡った。
初めてだ。この時計を、褒めてくれた人は。
「だが、油が完全に死んでる。主ゼンマイも金属疲労で限界だ。これじゃあ動くわけがない」
「直せますか……?」
祈るような気持ちで尋ねる。
アルドは鼻を鳴らし、口の端をニヤリと吊り上げた。それは皮肉な笑みのようでいて、どこか挑戦的な、自信に満ちた笑みだった。
「誰に言ってるんだ? 俺はアルド・ヴァン・ラインだぞ」
彼は作業机の上の工具を手に取った。
その瞬間、工房の空気が変わった気がした。
薄暗い部屋に、職人の魂という名の熱が灯る。
ここから、私の止まっていた時間が、再び動き出そうとしていた。




