第18話:ギルドの妨害
コンペまで残り三週間。
時間は砂時計の砂のように、残酷な速度で落ちていく。
俺たちは極限状態にあった。
睡眠時間は一日三時間。食事は作業机でパンをかじるだけ。
だが、誰も音を上げなかった。
俺たちが作ろうとしているのは、時計史における到達点。
重力を無効化する『重力制御籠』を搭載したマリン・クロノメーターだ。
設計図は完成した。
理論上、この機構ならば船がどんなに揺れようとも、重力の影響を相殺し、「絶対時間」を刻み続けられる。
あとは、形にするだけだ。
だが、その最大の難関は「素材」だった。
ジャイロ・ケージは、心臓部であるテンプを包み込んで回転させるため、コンマ数グラムの軽量化が求められる。
通常の真鍮や鉄では重すぎて、ゼンマイの力が負けてしまい、回転が止まってしまうのだ。
必要なのは、極限まで薄く削っても折れない強度と、羽のような軽さを併せ持つ、最高級の「特殊バネ鋼」だ。
「……遅えな」
俺は工房の窓から、峠へと続く道を睨みつけた。
今日、王都の商会からその特殊鋼材が届く手はずになっていた。
師匠の代から付き合いのある、老舗の鋼材問屋だ。あそこなら、俺の注文通りの厳しいスペックの鋼を用意してくれるはずだ。
その時、広場に馬車の音が響いた。
待ちわびた輸送馬車だ。
「来たぞ! 荷下ろしだ!」
俺は工具を置いて飛び出した。
ブルーノたち弟子も続く。
だが、馬車から降りてきた御者の顔色は、死人のように青白かった。
荷台には、食料や日用品は積まれているが、肝心の「厳重に梱包された木箱」が見当たらない。
「おい、どういうことだ。鋼材はどこだ?」
俺が詰め寄ると、御者は震えながら一枚の手紙を差し出した。
「も、申し訳ありません、ヴァン・ライン様……。問屋の主人が、これを渡せと……」
嫌な予感がした。背筋に冷たいものが走る。
俺は手紙をひったくり、乱暴に封を切った。
『アルド殿へ。
貴殿からの注文の品だが、急遽、在庫が確保できなくなった。
今後、当商会は貴殿との取引を一切停止させていただく。
理由は……聞かないでくれ。我々も生きるのに必死なのだ。
どうか、許してほしい』
紙面から、主人の苦渋と、そして何者かへの恐怖が伝わってくるようだった。
在庫がないなんて嘘だ。一ヶ月前から予約していた特注品だ。
「取引停止」。
その言葉の意味するところは一つしかない。
「……やりやがったな」
俺の手の中で、手紙がクシャリと潰れた。
ギルバートだ。そして奴と手を組んだ王都の巨大ギルドだ。
あいつらは、俺たちの工房に直接乗り込んでくるような真似はもうしない。
もっと陰湿で、致命的な方法を選んだのだ。
兵糧攻めだ。素材を断てば、どんな名人もただの人形だ。
「ふざけるなッ!!」
俺は怒りのあまり、手紙を地面に叩きつけ、近くにあった空の木箱を蹴り飛ばした。
ガシャッ!
木箱が派手な音を立てて砕け散る。
弟子たちが息を呑み、後ずさる。
「親方……?」
「終わりだ! あの鋼がなきゃ、ケージは作れねえ! 普通の鉄じゃ重すぎて回らねえんだよ!」
俺は頭を抱え、その場にしゃがみ込んだ。
全身の血が沸騰し、視界が赤く染まる。
師匠の時と同じだ。
権力を持った奴らが、理不尽な力で、俺たちの手足を縛り、首を絞めてくる。
技術じゃ勝てないから、盤面ごとひっくり返しやがったんだ。
「……畜生……畜生ッ!」
絶望が、どす黒いタールのように喉の奥からせり上がってくる。
間に合わない。
今から別の業者を探しても、王都中の鉄屋には手が回っているだろう。
俺たちは、戦う前に武器を奪われたのだ。
「……アルド。顔を上げて」
頭上から、凛とした声が降ってきた。
エリアナだ。
彼女はいつの間にか俺のそばに立ち、泥にまみれた手紙を拾い上げていた。
「どうするんだよ……。これじゃあ、戦えねえ……」
「戦えるわ」
彼女の声には、一点の曇りもなかった。
俺は顔を上げた。
彼女は、絶望するどころか、冷徹な計算をする「領主」の目をしていた。
「王都から買えないなら、自分たちで作ればいいじゃない」
「……は?」
俺は耳を疑った。
作ればいい? 鋼を?
パンやスープを作るのとはわけが違うんだぞ。
「無理だ。俺たちが欲しいのは、そこらへんのナマクラじゃねえ。炭素の含有量を0.01パーセント単位で調整した、最高級のバネ鋼だ。そんなもんを作るには、巨大な溶鉱炉と、熟練の精錬技術者が必要だ。こんな山奥にそんな設備が……」
「あるわ」
エリアナは、村の北側――廃鉱山の奥深くを指差した。
「忘れたの? ここはかつて、大陸有数の『銀山』だったのよ」
彼女の言葉に、ハンス爺さんがハッとして声を上げた。
「そ、そうです! 銀の精錬に使っていた反射炉が、まだ坑道の奥に残っております! あれなら、千度を超える高温が出せますぞ!」
「でも、鉄鉱石はどうするんだ? 銀山じゃ鉄は……」
「鉄ならあるわ」
エリアナは平然と言った。
「アルド、あなたが以前言っていたわよね。『この村の土は赤い』って」
「あ……」
思い出した。
雪解けのぬかるみを歩いた時、靴底についた泥が赤茶けていた。
あれは、酸化鉄の色だ。
「この山の土壌には、良質な砂鉄が含まれているの。昔は銀ばかり掘っていたから見向きもされなかったけれど、古い調査記録には残っているわ」
エリアナは手紙を丁寧に折りたたみ、ポケットにしまった。
そして、俺の両肩に手を置き、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「アルド。あなたは天才時計師よ。でも、あなたは『不器用』な天才だわ」
「……なんだよ、急に」
「既存の材料が手に入らないなら、自分の理想通りの材料を一から作れるチャンスだと思わない?」
彼女は不敵に微笑んだ。その笑顔は、どんな宝石よりも輝いて見えた。
「王都の問屋が売っている鋼は、所詮は『誰にでも使いやすい』汎用品よ。でも、私たちがここで作るのは、あなたの時計のためだけに調整された、世界に一つの『専用鋼』よ」
目から鱗が落ちるとは、このことだった。
俺は今まで、「部品は作るもの」「材料は買うもの」だと思い込んでいた。
だが、師匠は言っていたじゃないか。
『妥協するな』と。
買ってきた材料に自分の設計を合わせるんじゃない。
自分の設計に合わせて、材料そのものを生み出す。
それこそが、究極のものづくりじゃないのか。
「……専用鋼……」
その響きに、俺の中の職人魂が、再び激しく燃え上がり始めた。
ピンチ?
違う。これは、俺たちがさらに強くなるための試練だ。
「……分かった。乗ってやるよ、その話」
俺は立ち上がった。
足の震えはもう止まっていた。
俺は振り返り、弟子たちを見た。
「おい、ブルーノ! 野郎ども! ツルハシを持て!」
「お、親方? 時計作りはどうするんで?」
「一時中断だ! 今から俺たちは、時計屋じゃねえ! 鍛冶屋になるんだ!」
俺は叫んだ。
「王都の連中が売ってくれねえなら、結構だ! あいつらの鋼なんかより百倍すげえ鋼を、この手で叩き出してやる! 行くぞッ!」
「「「おうッ!!」」」
弟子たちの野太い声が、山々にこだました。
彼らは元鉱夫だ。
岩を砕き、鉱脈を探し、火を操ることにかけては、俺なんかより遥かにプロフェッショナルだ。
水を得た魚のように、彼らの目が輝き出した。
* * *
それからの三日間は、地獄のような熱気との戦いだった。
坑道の奥にある旧式の反射炉に、数十年ぶりに火が入れられた。
燃料は、村人総出で集めた木炭。
ふいごを吹くのは、力自慢の男たち。
「温度が足りねえ! もっと吹かせ!」
「砂鉄を投入するぞ! 不純物を絶対に入れるな!」
俺たちは真っ赤な炎の前で、汗だくになって鉄と格闘した。
エリアナも例外ではなかった。
彼女は煤で顔を真っ黒にしながら、温度計を読み上げ、配合比率の記録係を務めていた。
貴族の令嬢が、灼熱の炉の前で声を張り上げている。
その姿は、どんなドレス姿よりも美しく、頼もしかった。
「炭素量、目標値まであと少し!」
「今だ! 湯(溶けた鉄)を出すぞ!」
ドロドロに溶けた鉄が、火花を散らして流れ出てくる。
それを型に流し込み、叩き、冷やし、また焼く。
失敗の連続だった。
硬すぎて割れる。柔らかすぎて曲がる。
そのたびに、配合を変え、温度を変え、焼き入れのタイミングを変えた。
弟子たちの経験と勘、俺の理論、そしてエリアナの計算。全てを注ぎ込んだ。
そして、四日目の朝。
ついにその鋼は生まれた。
「……見てくれ」
俺は冷やされた薄い鋼の板を手に取った。
表面は、青みがかった深い灰色。
指で弾くと、キィーン……と、どこまでも澄んだ高い音が響き渡った。
俺はその板を万力に挟み、限界まで曲げてみた。
普通の鋼なら、ここまで曲げれば折れるか、曲がったまま戻らない。
だが、こいつは違った。
手を離した瞬間、バチンッ! と目にも止まらぬ速さで、元の真っ直ぐな状態に戻ったのだ。
「……すげえ」
ブルーノが呟いた。
圧倒的な弾力性。そして粘り強さ。
これなら、髪の毛より薄く削っても折れない。
そして、その軽さは、ジャイロ・ケージを回すのに十分すぎるほど軽い。
「王都の最高級品以上だ……」
俺は震える手で、その鋼板を撫でた。
これはただの鋼じゃない。
俺たちの執念と、この土地の恵みが結晶化した、奇跡の金属だ。
「名前をつけましょう」
エリアナが、煤で汚れた顔でニッコリと笑った。
「『ベルン・スチール』。洋銀の兄弟よ」
「ああ。いい名前だ」
俺は頷き、その鋼板を空に掲げた。
「見たか、ギルドの野郎ども! お前らが邪魔してくれたおかげで、俺たちは最強の武器を手に入れたぞ!」
俺たちの歓声が、朝焼けの空に吸い込まれていく。
妨害工作は、完全に裏目に出たのだ。
彼らは知らなかっただろう。
追い詰められた職人が、どれほどの爆発力を生むかを。
そして、このエリアナという女が、どれほど諦めの悪い「欲張りな領主」であるかを。
「さあ、ここからが本番だ」
俺は『ベルン・スチール』を握りしめ、工房の方を向いた。
「時計屋に戻るぞ! この鋼で、神様の呪い(重力)を断ち切る檻を作るんだ!」
残り二週間。
時間は少ない。だが、不安は微塵もなかった。
俺たちの手には、世界最高の素材があるのだから。




