第15話:星降る夜の約束
領地に夏が訪れていた。
北部の夏は短い。けれど、爆発するように生命が輝く季節だ。
雪解け水を含んだ大地からは緑が萌え出し、高山植物が一斉に花を咲かせる。
村の風景も、この半年で劇的に変わっていた。
広場には馬車が行き交い、かつては閑古鳥が鳴いていた宿屋も、遠方から『ベルンシュタイン・ウォッチ』を買い付けに来る商人たちで満室だ。
工房からは朝から晩まで、旋盤の回る音と、弟子たちの活気ある声が響いている。
「……信じられないわ」
私は執務室で、最新の帳簿を見つめながら溜息をついた。
今月の売上は、過去最高を記録していた。鉄道省からの追加注文に加え、軍部や海洋ギルドからの大口契約も決まったからだ。
その利益は、我が家が抱えていた膨大な借金を、全て完済してもまだ余るほどだった。
「おめでとうございます、お嬢様。これでベルンシュタイン家は安泰ですな」
向かいに座るハンスが、目尻のシワを深くして笑った。
「これも全て、あの時計のおかげです。……いや、あの方を連れてきたお嬢様のご慧眼のおかげですな」
「いいえ、ハンス。みんなが頑張ってくれたからよ」
私は窓の外を見た。
工房の煙突から、白い煙が真っ直ぐに空へ昇っていく。
一年ちょっと前、どん底で出会った私たち。
「不適合者」と笑われた私たちが、自分の足で立ち、世界に認めさせたのだ。
胸がいっぱいになり、私はペンを置いた。
今日は、もう仕事を終わりにしよう。
この喜びを、一番分かち合いたい人の顔が浮かんだからだ。
* * *
夕食後、私は工房へ向かった。
弟子たちは既に帰宅し、静まり返った工房には、アルド一人が残っていた。
彼はいつものように、作業机に向かっていた。
だが、手には工具ではなく、一枚の古ぼけた羊皮紙が握られている。
「アルド」
私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、慌てて羊皮紙を隠すように机の引き出しにしまった。
「……なんだ、エリアナか。驚かせるな」
「ごめんなさい。でも、珍しいわね。あなたがそんなに動揺するなんて」
「別に。……で、何か用か? 借金の完済祝いなら、さっきハンスから聞いたぞ」
彼は努めて平静を装っていたが、その横顔には、成功者の安堵よりも、どこか焦燥のような色が滲んでいた。
「ええ。そのことでお礼を言いに来たのだけれど……。邪魔だったかしら?」
「いや、ちょうど休憩しようと思ってたところだ」
アルドは立ち上がり、伸びをした。
そして、ふと窓の外を見た。
「……星が出てるな」
「ええ。今夜は新月だから、特によく見えるわ」
「少し、外の風に当たるか」
私たちは工房のテラスに出た。
昼間の熱気が嘘のように、夜風はひんやりとして心地よい。
頭上には、手が届きそうなほどの満天の星空が広がっていた。天の川が、夜空を二分するように白く流れている。
王都では絶対に見られない光景だ。
アルドは手すりに寄りかかり、しばらく無言で星を見上げていた。
「……綺麗だな」
「ええ。自慢の星空よ」
「昔、師匠が言ってた。『時計とは宇宙だ』ってな」
彼は夜空を指でなぞるように動かした。
「惑星は、太陽の周りを正確な周期で回ってる。一秒の狂いもなく、何億年もな。神様が作った、完璧な機械だ」
「ロマンチックね」
「だがな、人間が作る機械は、そうはいかねえ」
彼の声のトーンが、少し下がった。
「俺たちが作った《ユニティ・プレート》の時計は、確かに頑丈だ。王都のチャラチャラした時計よりはずっと精度もいい。だが……それでも『完璧』じゃねえ」
「完璧じゃない? 日差ゼロを記録したのに?」
「あれは、平置きの状態での話だ。時計ってのは、持ち主のポケットの中で、縦になったり横になったり、常に姿勢が変わる。そうすると、どうしてもズレが出るんだ」
アルドはポケットから、自分の懐中時計を取り出した。
それを紐でぶら下げ、ゆらゆらと揺らしてみせる。
「なぜだか分かるか?」
「……いいえ」
「重力だ」
彼は短く言った。
「地球の重力が、テンプのヒゲゼンマイを下に引っ張る。時計が傾けば、その引っぱられる方向が変わる。それが抵抗になって、リズムを狂わせるんだ。……神様が人間に与えた、逃れられない呪いみたいなもんだ」
重力。
当たり前すぎて意識したこともなかった力。
でも、極限の精度を追求する彼にとっては、それが最大の敵なのだ。
「師匠は、その呪いを解こうとしていた」
アルドは言った。
さっき彼が見ていた羊皮紙。あれはきっと、師匠の遺した設計図だったのだ。
「重力の影響をなくすことはできない。だったら、重力を『平均化』してしまえばいい。……心臓部そのものを、常に回転させ続けることでな」
彼は指先でクルクルと空中に円を描いた。
「一分間で一回転するカゴの中に、テンプと脱進機を閉じ込める。そうすれば、重力の影響は360度すべての方角から均等にかかり、プラスマイナスでゼロになる」
私は息を呑んだ。
機械の知識がない私でも、それがどれほど常軌を逸した発想かは想像がついた。
あんなに小さな時計の中に、さらに回転するカゴを入れる?
そんなことが物理的に可能なのだろうか。
「理論上は可能だ。だが、実現できた職人は歴史上まだ一人もいねえ。師匠でさえ、設計の途中で力尽きた」
「……それが、あなたの夢なの?」
「夢、か」
アルドは自嘲気味に笑った。
「呪いかもな。師匠の死に顔を見てから、ずっと頭から離れねえんだ。いつか俺の手で、あの回転するカゴを作らなきゃならねえって。……そうしなきゃ、俺は本当の意味で一人前の時計師になれない気がして」
彼は拳を強く握りしめた。
今の成功に満足していない理由が分かった。
彼は見ているのだ。もっと高い場所を。
王都を見返すとか、金持ちになるとか、そんなレベルではない。
神の作った宇宙の法則(重力)に、人間の知恵で戦いを挑もうとしているのだ。
その横顔を見て、私は愛おしさが込み上げてくるのを止められなかった。
この人は、なんて純粋で、なんて高潔なのだろう。
彼の目には、誰も見えていない未来が映っている。
私は一歩、彼に近づいた。
「……作れるわ」
「え?」
「あなたなら作れる。だって、あなたは私の見込んだ『最高の時計師』だもの」
私は彼の手を取り、自分の両手で包み込んだ。
ゴツゴツとした、硬い手。
この手が、廃村を復興させ、奇跡の時計を生み出したのだ。
「師匠が果たせなかった夢なら、あなたが果たせばいい。私が全力で支えるわ」
「エリアナ……」
「お金なら、もう心配いらないわ。借金はなくなったし、売上もある。必要な材料があれば、世界の果てからでも取り寄せる。時間が必要なら、私が全ての雑務を引き受ける」
私は真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「だから、遠慮しないで。あなたの作りたい『宇宙』を、この手で作って」
アルドの瞳が揺れた。
彼は驚いたように私を見つめ、やがて、その表情が柔らかく崩れた。
安堵と、信頼と、そして熱い情熱が混ざり合った、彼だけの表情。
「……やっぱり、あんたは変わった令嬢だ」
「ふふ、知ってるわ」
「普通のパトロンなら、『そんな金にならない研究はやめろ』って言うところだぞ。量産品をもっと作って儲けろってな」
「私は普通じゃないもの。それに……」
私は悪戯っぽく微笑んだ。
「その『重力を制する時計』が完成したら、それこそ世界中がひれ伏すわ。最高の投資だと思わない?」
アルドは噴き出した。
そして、私の手を握り返してくれた。強く、痛いほどに。
「ああ、違いない。……約束する」
彼は夜空を仰いだ。
「いつか必ず、この星空よりも美しい時計を作って、あんたに捧げる。重力なんてちっぽけな首輪、俺がねじ切ってやるよ」
頼もしい宣言。
夜風が、二人の間を吹き抜ける。
それは冷たくはなく、二人の体温を混ぜ合わせるように優しく頬を撫でた。
私たちはしばらくの間、手を繋いだまま星を見ていた。
言葉はなかったけれど、心は通じ合っていた。
私たちは「共犯者」だ。
神の領域に挑むという、途方もない大罪を企む、世界でたった二人の共犯者。
その時、夜空を一筋の流れ星が横切った。
「あ、流れ星!」
「……願い事をする暇もなかったな」
「いいえ、必要ないわ」
私は彼を見上げて微笑んだ。
「私の願いは、もうあなたが叶えてくれようとしているから」
アルドは照れくさそうに鼻をこすり、視線を逸らした。
その耳が赤いのが、星明かりでも分かった。
平和で、満ち足りた夜。
けれど、私たちは知らなかった。
この静かな時間が、やがて来る嵐の前の静けさであることを。
王都からの「招待状」が、もうそこまで迫っていることを。
でも、今の私に不安はなかった。
隣には彼がいる。
重力さえも超えようとする彼がいれば、どんな嵐も乗り越えられると信じていたから。




