第13話:初めての完成品
季節は巡り、領地に再び遅い春が訪れようとしていた。
私たちがこの雪深い村に来てから、ちょうど一年が経とうとしている。
工房の中は、熱気と緊張感に包まれていた。
窓の外では雪解け水が流れる音が響いているが、誰一人としてそちらに目を向ける者はいない。
15人の弟子たち、ハンス、そして私。全員の視線が、部屋の中央にあるアルドの作業机に注がれていた。
「……最後のネジだ」
アルドの声は、枯れていた。ここ数日、ほとんど寝ずに最終調整を続けていたからだ。
彼の手元には、一台の懐中時計がある。
私たちがこの一年、血と汗と涙を流して作り上げてきた、「領地製時計」の第一号だ。
道のりは、決して平坦ではなかった。
新素材『ベルン・シルバー』は美しかったが、加工は困難を極めた。真鍮よりも硬く、粘りがあるため、ヤスリがすぐに目詰まりを起こす。ドリルの刃は何十本も折れた。
弟子たちの指先は傷だらけになり、何度も心が折れかけた。
『できないなんて言うな! 金属が硬いんじゃない、お前らの意志が柔らかいんだ!』
アルドの怒号が飛び交う日もあった。
彼は一切の妥協を許さなかった。0.01ミリの誤差があれば、容赦なく「やり直し」を命じた。
泣きながら作業をする弟子たちを見て、私も心を痛めた日がある。
けれど、誰も辞めなかった。
自分たちの土地から出た素材で、世界一の時計を作る。その夢が、老人たちの枯れかけた魂に火をつけていたからだ。
そして今。
全ての苦労が報われる瞬間が来ようとしている。
アルドは震え一つない手で、青焼きされた極小のネジをドライバーの先に吸いつけた。
息を止める。
周囲の私たちも、つられて息を止める。
カリッ。
乾いた音がして、ネジが完全に締まった。
《ユニティ・プレート》が固定され、ムーブメントが一体化する。
アルドはゆっくりとドライバーを置き、リューズに指をかけた。
静寂の中で、ゼンマイを巻く音だけが響く。
ギリ、ギリ、ギリ……。
その音は、まるで怪物が目覚めの呼吸をしているかのように重厚だった。
「……いくぞ」
アルドが短く告げ、テンプを弾いた。
チチチチチチチチ……。
産声が上がった。
その瞬間、工房内の空気が震えた気がした。
今まで聞いた試作品の音とは違う。全ての部品が完璧に馴染み、一つの生命体として調和した「完成された音」。
低く、力強く、そしてどこまでも澄み渡るような鼓動。
「……精度はどうだ」
アルドはまだ笑わない。
傍らに置いてある基準時計(王都から持ってきた高精度の振り子時計)と睨めっこを始める。
一分、五分、十分。
長い沈黙。
私の心臓は、時計の音よりも激しく早鐘を打っていた。
やがて、アルドが顔を上げ、ふぅーっと長く息を吐き出した。
そして、ニヤリと笑った。
「……日差、プラスマイナス・ゼロだ」
その言葉の意味を理解するのに、一瞬の間があった。
ゼロ?
ズレがないということ?
「う、嘘だろ……?」
「王都の高級品だって、一日に一分はズレるぞ……」
弟子たちがざわめき始める。
アルドは満足げに頷き、時計を高く掲げた。
「完成だ。これが俺たちの――『ベルンシュタイン・ウォッチ』第一号だ!」
わあああああっ!!
爆発のような歓声が上がった。
ブルーノ爺さんが泣き崩れる。他の弟子たちも、互いに抱き合い、肩を叩き合って喜びを爆発させた。
「やった! やったぞ!」
「俺たちが作ったんだ! この手で作ったんだ!」
「見てくれ、この輝きを! 俺が磨いた地板だ!」
老人たちが子供のように泣いて笑っている。
私はその光景を見て、視界が滲んだ。
涙が溢れて止まらなかった。
アルドが人混みをかき分けて、私の元へ歩いてきた。
その手には、完成したばかりの時計がある。
「……エリアナ。約束通り、完成させたぞ」
彼はぶっきらぼうに言いながら、その時計を私に手渡した。
ずっしりと重い。
そして、温かい。
ベルン・シルバーのケースは、窓から差し込む春の光を受けて、シャンパンゴールドのような優しい輝きを放っていた。
飾り気はない。文字盤には数字と、メーカー名である『Bernstein & Rhein(ベルンシュタイン&ライン)』の文字だけ。
けれど、その潔いシンプルさが、圧倒的な品格を醸し出していた。
「綺麗……。本当に、宝石みたい」
私は震える指で、その滑らかな曲線を撫でた。
これが、私たちの結晶。
王都で「寒々しい」と笑われた土地と、「時代遅れ」と笑われた技術が出会い、生まれた奇跡。
「裏を見てみろ」
アルドに促され、私は時計を裏返した。
そこには、シリアルナンバー『No.001』の文字と、その下に小さな文字が刻まれていた。
――『To the Lady of Silver Snow(銀雪の令嬢へ)』。
「ア、アルド……これ……」
「第一号は、雇い主のものだ。文句あるか?」
彼はそっぽを向いて鼻をこすった。耳が赤い。
愛の言葉ではない。けれど、どんな宝石のプレゼントよりも嬉しかった。
「ありがとう……。一生、大切にするわ」
私は時計を胸に抱きしめた。
トクトクという鼓動が、私の心臓とリンクする。
その夜、村を挙げての宴が開かれた。
貧しい村だ。豪華な料理はない。保存食の煮込みと、少しの酒だけ。
けれど、これほど幸福な宴を私は知らなかった。
村人たちが次々と時計を見に来る。
「これが俺たちの村で作ったのか」「すげえ輝きだ」と、誰もが誇らしげな顔をしている。
ハンスが酒で赤くなった顔で、演説をぶっていた。
「見ろ! わしらはもう、ただの貧乏人じゃない! 世界一の時計を作る職人だ! これからは『時計の村』として生きていくんだ!」
「そうだ!」「乾杯!」と声が上がる。
その熱気を見て、私は確信した。
産業が生まれたのだ。
単にモノができただけではない。人々の心に「誇り」という火が灯り、それがこの土地を照らす光となったのだ。
喧騒から少し離れて、私は工房のテラスに出た。
夜風はまだ冷たいが、もう冬の刺すような寒さではない。
満天の星空の下、アルドが手すりに寄りかかって酒を飲んでいた。
「……騒がしいな、爺さんたちは」
「ふふ。嬉しかったのよ。あんなに生き生きとした彼らを見るのは初めてだわ」
私は彼の隣に並んだ。
アルドは夜空を見上げたまま、静かに言った。
「……あんたのおかげだ」
「え?」
「俺一人じゃ、ここまで来れなかった。技術があっても、素材があっても……俺を信じてくれる『場所』がなきゃ、この時計は生まれなかった」
彼は私の方を向き、真剣な瞳で見つめてきた。
「俺に居場所をくれて、ありがとう。エリアナ」
その言葉に、胸が熱くなる。
礼を言うのは私の方だ。
何もなかった私に、夢と希望をくれたのは彼なのだから。
「私こそ……ありがとう、アルド。あなたは私の誇りよ」
私たちは微笑み合った。
手は触れ合っていない。言葉も少ない。
けれど、同じ月を見上げる横顔には、確かな信頼と、そして名付けようのない親愛の情が満ちていた。
「さて、感傷に浸るのはここまでだ」
アルドはカップの中身を飲み干すと、ニヤリと不敵に笑った。
「作っただけじゃ終わらねえぞ。次はこいつを売り込んで、金を稼がなきゃならねえ」
「ええ。そうね」
「王都の連中に、この音を聞かせてやるんだ。腰を抜かすぜ」
彼の目には、もう次の戦いが見えているようだった。
そう、これはゴールではない。スタートラインだ。
この『ベルンシュタイン・ウォッチ』を持って、私たちは世界へ打って出るのだ。
私はポケットの中のNo.001を握りしめた。
その鼓動は、これからの激動の未来を予感させるように、高らかに時を刻んでいた。




