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番外編2・ひとりぼっちの鳥は、歌いも泣きもしない

 鎖骨の上に、ぽたんと一粒、雫が落ちた。

 それが彼の額から伝い落ちた汗だと理解(わか)ったのは、ぎゅうと抱き締められた後だった。ついさっき詩鶴の中で果てた、その人の背中はじわりと火照り、湿り気を帯びている。

 このひとも、汗をかいたりするんだ。

 当たり前のことなのに、普段の彼の涼しげな佇まいと汗というものの暑苦しい語感が、すんなり結び付かない。初めて見る気がした。でも、そんな筈ない。ちゃんと思い返してみれば、風呂上がりや厳しい日差しに、彼が首筋や額に汗を滲ませているのは見たことがあった。

 あぁ、そうか。見慣れないのは汗じゃない。軽く乱れた呼吸、眉間に刻まれた切なげな皺。腕の中に閉じ込めた詩鶴の体温を、感触を、肌に刻み込もうとするかのように、強く抱く。いつもの余裕はどこにもなくて、そのひとつひとつが、見慣れない。

 あぁでも、余裕がないのは私の方。

 体中がじんと熱く痺れて、輪郭がぼやける。こうしてきつく抱かれているから、ようやく体が形を保っているだけ。そうでなければ溶けて、流れ出てしまっていたかもしれない。

 

 頭の片隅に浮かぶ芒とした思考は、コーヒーの上にぐるりと落としたミルクのように、滲み、混ざり合い、いつしか溶けて、消えていった。


 ♢♢♢


 五月の連休、最終日の朝。いつもは早起きの詩鶴だったが、この日は八時を過ぎてもまだベッドの中にいた。

 「今日で連休も終わりかぁ」

 土日を含めて五日間の連休だった。序盤に二泊三日の旅行に出掛け帰って来た後は、ほとんどの時間を二人で家で過ごした。気の向くままに起きて眠り、食事をして、触れ合って抱き合って、寝ても覚めても夢(うつつ)のような時間を過ごしていた。

 今朝はよく晴れているようだ。カーテンの隙間から漏れ出てくる陽の光が明るい。噴水から弾け散る水飛沫みたいだ、と詩鶴は思う。

 「明日からの仕事が憂鬱なのか?休み明けは辛いって言うもんな。僕はどこかに勤めた事がないからわかってやれないけど」

 うつ伏せのまま枕を抱えている詩鶴の髪を、隣で横臥した基がくるくる指に巻き付けて遊んでいる。自由業を謳歌して悠々自適に暮らしているような口振りだけれど、時間と場所を選ばず書き続けている基の労働時間は、きっちり算出すれば詩鶴の比ではない筈だ。

 「基さんなんて休み無しで仕事してるじゃん。そっちこそ大変だとは思うけど…それに私も仕事がな訳じゃ、ないんだけど。でもなんか…」

 詩鶴はもごもごと口の中で言葉を捏ね回す。仕事に行くのが嫌な訳じゃない。ただ、ここ数日ずっと、こうして基の傍にいたから。手を伸ばせばすぐに触れられる距離に、ずっといたから。それが。

 「なぁ詩鶴。離れがたいな」

 纏まりのない、形を成さない詩鶴の気持ちに、基が名前を与える。

 そっか。そう言えばいいのか。そう詩鶴は納得した。

 返事の代わりに、枕を手放して基の胸に潜り込む。抱きとめてくれた基の腕は、はじめはただ温かく詩鶴を迎えてくれただけ。けれどいつしかその手は詩鶴の背骨をなぞり、下腹部をさ迷い始める。肌を求めるように這う唇は、また劣情の渦の中に、詩鶴を誘いこんだ。



 遅めの朝食を済ませた後、詩鶴はふと思い出して、自分の部屋で探しものを始めた。目当てのものはすぐに見つかって、詩鶴は嬉々として未開封のその箱を基に見せる。

 「デジタルフォトフレーム?」

 「うん。前に友達の結婚パーティーのビンゴで当たったの。でも私ちゃんとしたカメラ持ってなかったから、ずっとしまい込んでたんだよね。旅行の時に基さんのカメラでいっぱい写真撮ったから、やっと使えるかなって。写真、飾ってみない?」

 「ふぅん。使い方は簡単そうだな」

 「スライドショーで見てみたい!」

 取材用にカメラは持ってはいるものの、基も写真を飾る習慣はなかった。初めて手にする機器を物珍しそうに見ていたが、説明書にさっと目を通してすぐにセッティングしてくれた。

 「すごい綺麗に見えるね。あっ、基さん、私が寝てるとこ勝手に撮ったね⁈これは消して!…あれ、なんか私、食べてる写真ばっかりじゃない?」

 「実際食べてばっかりだったんだ。仕方ない」

 「そんな事ないもん。…まぁいっか。二人で撮ったのは後でプリントしよっと。アルバム買って来なきゃ。こうやって観るのも楽しいけど、やっぱり紙でも残しておきたいよね」

 御機嫌で上映会を楽しんでいたが、ふと、画面に見知らぬ街が映しだされた。

 「あれ?この写真なぁに?」

 「あぁ、これは去年撮ったものだな。データが残ってたんだ」

 暗い背景に、橙色の灯りがきらめくまばゆい夜の街。溢れるような人の波、出店もずらりと並んでいる。お祭りのような賑わいだったが、日本でないのは一目でわかる。どこか外国の、市場のようだった。

 「ここ、どこ?」

 「台湾だな。一度見てみたいと思ってた書店があってさ。割と近いし一人でふらっと行ってきたんだ。そのついでに立ち寄った夜市の写真だよ」

 「そうなんだぁ…一人でふらっと海外旅行なんて凄いね。私は旅慣れしてないから、海外なんて近くても構えちゃう」

 「いや、実際海外で女性が一人で歩き回るのは危ないよ。君が行きたいところがあるなら一緒に行こうか。夏休み…君の誕生日あたりにまた…」

 「──誕生日…!?」

 何気ない基の一言で、詩鶴は一瞬で固まった。凍りついた詩鶴の顔を見て、基は不思議そうに首を傾げる。

 「ん?君、八月生まれだったろ。ちょうど幼稚園の夏休み中だろうから…」

 「あ、うん、そうなんだけど、そうじゃなくて…」

 詩鶴の誕生日は八月二日。勤め先の幼稚園は夏休み中も預かり保育があるため、通常通り出勤する。職員の夏季休暇は一般企業のようにお盆に一斉に取るのではなく、園の夏休み中に、交代で五日程度取得する規則になっている。その話は以前基にした事があったが、しかしそれより──…

 「……基さんの誕生日って、いつだっけ?」

 「僕の?二月だよ。二月二十五日」

 詩鶴は愕然とした。全身から、さーっと血の気が引いていく。

 現在、五月初旬。お祝いどころかおめでとうの一言も言わないままに、三ヶ月近くが過ぎていた。自分が信じられない。何ヶ月も一緒に暮らしている夫の誕生日を知りもせず、素通りしていただなんて。

 「い…言ってくれれば…」

 「言う程の事じゃないだろ。そもそも今の今まで僕自身も忘れてたよ。いつのまにか過ぎてたんだな」

 嘘だ。絶対嘘だ。基ほどの人気作家なら、本人が忘れていたとしても、仕事の関係者やファンから祝いのメッセージくらい貰う筈だ。

 二月後半と言えば、詩鶴が光稀や関口友梨の事で苦悩していた頃。そんな時に言い出せなかったのだろう。いや、そうでなくとも基は、自分から今日が誕生日なんだと申告してくるような人じゃない。こちらが気にして覚えていて、当然のことなのに。

 「基さんは何で私の誕生日知ってたの?」

 「〈vita〉のデータに載ってたし婚姻届や保険関係の手続きとかで何度か確認してる」

 「そ…そっか…」

 そうだ。詩鶴だって結婚後、事務手続き等で何度も見た事があった筈だ。なのに心に留める事もなく、そのまま頭から消去していたのだ。

 「ありえない…」

 考えれば考えるほど、あり得ない。詩鶴はダイニングテーブルに突っ伏して、自分の愚かさを嘆いた。そんな詩鶴の頬を、基は指の背で軽く擦るように撫でる。

 「そんなに気にしなくていいよ。誕生日なんて大した事じゃない」

 「大した事だよ…!誕生日とはその人が生まれた記念すべき日であって、生まれてきてくれたことに感謝と祝福を贈る特別な一日で…」

 それは詩鶴の職場で、園児達に向けて誕生日とは何かということを説明する際に使う決まり文句だった。

 だがそれも尻すぼみに力を失くしていく。頭の中に、その特別な日を忘れていたのは誰だ、と糾弾してくる自分自身がいた。

 「うん、そうか。君の誕生日にかける熱烈な想いはよくわかった。来年改めて祝ってくれ」

 軽く受け流そうとした基の腕を、詩鶴は力一杯掴む。

 「──基さん。買い物に行こう。今すぐ何か欲しいものを探して、遅くなっちゃったけどプレゼントを」

 だが、基はきっぱり「嫌だ」と言った。

 「欲しい物は何もない。必要なものはその場でネットで買ってるよ。わざわざ混雑した街で存在するかどうかもわからない欲しい物を探し回って時間と労力を浪費したくない。君が買い物に行きたいっていうならともかく。僕の為だと言うなら、貴重な休日を君と二人きりで静かに過ごしたいっていう気持ちを最優先で尊重して欲しい」

 理路整然と断られ、詩鶴は悲壮な顔で眉を下げる。

 「じゃ、じゃあせめて、何か美味しいものを食べに行くとか…」

 「君が作ってくれる食事が一番美味しい」

 「…でも…」

 基はテーブルに肘をつき、掌の上に顎を乗せる。口の端を上げて薄く笑った。

 「誕生日は気付かなかったにしても、その前のバレンタインに贈り物をしてくれたじゃないか。時期も近いし、それがお祝いって事でいいだろ」

 基はそう言ってくれるけれど、バレンタインの贈り物だって手作りの焼菓子ひとつだった。そんなものでは気が収まらない。「でも」と言いかけた詩鶴を、基が目線で遮る。

 「いいから。こっちへおいで、詩鶴」

 手招きされて、詩鶴は戸惑いながらも腰を上げ、基の横に立った。基は座ったまま詩鶴を見上げ、両手を取る。

 「その頃の君と僕は、こうして触れ合っていてもどこか隔たりがあった。でも今はそうじゃない──それで充分なんだよ。僕が欲しいのは君だけだ」

 「…無欲だなぁ」

 わかる。基は詩鶴を黙らせるために、わざと気障な言葉を吐いている。そうすると詩鶴は照れくさがって、大人しくなるか話を逸らすから。むず痒さを誤魔化すように、詩鶴は唇をへの字に曲げた。幼げなその顔を見て、基は笑う。

 「そうでもないさ。この先の君を全部貰うつもりなんだ。むしろ欲深いんじゃないか」

 基が詩鶴のお腹のあたりに額を埋める。その体温は詩鶴の内側をじんと温めて、魔法が浸潤するみたいに、身体は基の言いなりになってしまう。

 「ひとりぼっちの鳥は、歌いも泣きもしない。君は僕に、歌も涙も与えてくれる」

 基が歌っているところも泣いているところも見たことがなかったけれど。そうなのかな。そうだといいなと思って、詩鶴は腹の上にある基の頭を撫でた。


 西陽が翳り始めた頃、基は眠ってしまった。

 昼も夜もなく仕事をしている基は、時々こうして不意に、寝入ってしまう事がある。放っておけば三、四時間は起きない。初めは随分長いうたた寝だなぁと思っていたが、それが基の一日の全睡眠であることを知った時はひどく驚いたものだ。けれど今日ばかりは、このタイミングで基が寝たのは都合がいい。詩鶴はそうっとベッドから抜け出して、脱ぎ散らかしていた服を身につける。

 「基さん、いってきます」

 眠る基の額をそっと撫でるが、深い寝息を立てたまま、目を覚ます気配はなかった。

 

 ♢♢♢


 基が目を覚ました時、既に日は落ちて辺りは暗かった。

 時計を見ると七時を回っている。隣にいた筈の詩鶴の姿はなかった。規則正しい生活が身についている詩鶴が、この時間に眠ることはほとんどない。

 何処へ行ったのだろう。そろそろ夕飯の時間だから、階下で食事の支度をしているのかもしれない。体を起こして服を拾った。

 寝室を出た瞬間、食べ物の匂いが鼻腔を満たす。あぁやっぱり、食事の支度をしてくれている。そういえば空腹を感じているような気もする。食事なんて脳を動かす為のエネルギー源としか思っていなかったのに、詩鶴といると、妙に腹が減る。

 リビングのドアを開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、基は思わず瞬きを繰り返した。

 シンプルだった部屋の様相が一変している。壁に飾られた星や葉の形をしたガーランド、キャビネットの上に置かれた大きな花束。そしてテーブルの上に、所狭しと並べられた大量の料理。

 「あっ、基さん起きちゃった⁈ごめん、あとちょっとなんだけどまだ途中で…!」

 キッチンミトンを両手に嵌めたまま、キッチンから詩鶴がひょこっと顔を出す。

 「…全部、僕が寝てる間に用意したのか?」

 ミモザサラダに生春巻、鶏の唐揚げとロールキャベツ。どれも以前食卓に並んだ時に、基がこれは特に好きだと言ったものばかりだった。

 「う、うん。部屋の飾り付けとか、よく考えたら子供っぽかったよね。仕事柄というか、つい癖で…あの、でも基さんの好きなグラタンも、あと焼くだけにしてあるから。あっあとケーキはちゃんとお店で買ってきて…」

 詩鶴はしどろもどろで、エプロンを握りしめている。

 「あの、あとね、パーティーっぽいかなと思ってローストビーフも作ってみたんだけど、基さん好きかな…な!?」

 不安そうに見上げてくる詩鶴を、基はぎゅうと抱き締めた。

 「…作り過ぎだ、詩鶴」

 「うっ…そうだよね。なんか焦っちゃってとりあえず前に美味しいって言ってくれたのを手当たり次第…ちょ、基さん、ちょっと苦しい…」

 基があまりにも力一杯抱き締めるので、詩鶴はうぅ、と唸っている。けど、知るものか。

 「次はちゃんと当日に、もっと時間かけて準備するから。プレゼントも用意するから。今日はあんまり時間なかったから近所のケーキ屋とスーパーに行くので精一杯で…」

 詩鶴は何かを誤魔化すように喋り続けるが、基は黙ったままだった。腕の中でじたばたもがいていた詩鶴も、つられてすんと大人しくなり、基の背中に手を回す。

 「…あのね。ごめんね、ちゃんと誕生日にお祝しなくって。すっごく遅くなっちゃったけど、お誕生日おめでとう」

 「うん。ありがとう」

 誕生日なんて、心底どうでも良かったのに。

 生まれてきてくれたことに感謝と祝福を。そう言った詩鶴の言葉が、胸の中でよみがえる。祝福という単語の意味は勿論知っていたけれど、初めてちゃんと理解した気がした。

 「詩鶴。好きだよ」

 「う⁈うん、あ、いや、うん、ありがとう。わ、私も…」

 「何でそんなどもる」

 「や、基さんあんまりシンプルにそういうこと言わないから、逆に戸惑う」

 「そうか。ごめんな」

 こういう時、あまり小難しい言葉は出てこないものだということも、初めて知った。

 「ね、グラタン焼くからさ。ごはんにしよ?唐揚げとかあったかい内に食べた方が美味しいよ」

 「うん。そうだな」

 基はようやく詩鶴の体を解放した。えへへ、と照れ臭そうに笑って、詩鶴はキッチンへ戻っていった。


 星や葉の形をしたガーランド、キャビネットの上に置かれた大きな花束。そしてテーブルの上に、所狭しと並べられた大量の料理。


 この光景は忘れないようにしよう。忘れようと思っても、忘れられないかもしれないけれど。

 リビングで一人になった基は、もう一度、それらをじっと眺めていた。

 今この時に祝福の象徴となったこの光景が、この先何年も何十年も繰り返されることを祈って、見つめていた。



 ── end.

本編『6・鳴かぬ蛍が身を焦がす』と『7・虎は千里を行って千里を帰る』の間にあたる時期です。


こちらの番外編で本作は完結となります。最後までお読みくださりありがとうございました…!

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