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7・虎は千里を行って千里を帰る(5)

 出産するにあたって心配事や不安は山程あったが、その内の一つが基の仕事だった。

 自分で出産する詩鶴は当然だが産休を取らざるを得ない。でもそれだけではなく、在宅仕事の基にとっても影響は大きいだろうと思っていた。

 赤ちゃんというのは、よく泣く。時間も場所も大人の都合も選ばずにとにかく泣く。ミルクを欲しがっては泣き、おむつを変えて欲しいと泣き、抱っこしてくれと泣き、眠りたいのに眠れないと泣く。家にいても落ち着いて仕事が出来る環境ではない筈だ。

 だがいざそうなってみても、基がその事で仕事に支障をきたしている様子はなかった。不満や愚痴を言うことすらなかった。

 「僕はやかましい楽屋裏で幼少期を過ごしてるからな。騒音には慣れてる。赤ん坊一人の泣き声くらい、可愛いもんだ」

 そんなふうに、平然としていた。

 「でも瀬尾さんも詩鶴と半々くらいで紡ちゃんのお世話してるんでしょ?子育てしながら新しい連載しごとなんて出来るもんなんだねぇ」

 すごいよね、と和歌が感心するが、それに関しては詩鶴も心底同意する。

 「そう。あの人不器用だから粉ミルク作るにも四苦八苦だしおむつ替えてもテープがズレてて漏れたりするんだけど、仕事に関してはあり得ないほど器用で…紡の寝かしつけしながら音声入力で仕事したりしてるんだよ」

 「何それ、どゆこと?瀬尾さんの新作語り聞かせ状態ってこと?」

 「そう。まさにそう。間近で見てても信じらんない。特殊スキル過ぎて正直ちょっと引いた」

 紙とペンさえあれば出来る仕事だなんて言っていたが、それすらなくても出来ている。尊敬を通り越して恐怖すら感じた。

 けれどそのスキルは、出産で弱りきった詩鶴にとって、大きな助けとなった。

 元々詩鶴は典型的な朝型人間で、睡眠もしっかり取る生活に慣れていた。夜中に何度も起きなければいけないのは、可愛い子供の為とはいえ辛かった。充分に眠ることが出来ない日が続き、日に日に憔悴していく詩鶴を見かね、基が詩鶴と紡の寝室を分けた。「夜は僕が見るから君は寝てろ」と言って。

 基は以前から昼も夜も区別ない生活だし、所謂ショートスリーパーで睡眠時間が短くても日常生活に支障がない。日中は詩鶴と交代して仕事も出来るし寝ることも出来るからと、夜間のお世話の大部分を担ってくれていた。不器用問題は簡単に用意出来る液体ミルクを使ったりパンツ型おむつに切り替えればいいだけの事だ。簡単に解決できた。

 「妊娠がわかってから頑張って書き溜めてた分もあるし、今のところそこまでペース落とさずに仕事出来てるって言ってた。紡がもう少し大きくなったら今とはまた違った意味で手がかかるようになるだろうけど、私が仕事復帰する頃には保育園に入れるから、多少は時間が出来る筈だし…」

 「それ!いつ頃復帰考えてます?詩鶴先輩が産休入った後に採用した先生、資格はあるけど未経験の人でまだまだ慣れなくて。保育時間中だけ勤務のパートでもいいから早めに戻ってきてフォローしてくれないかなって園長が言ってましたよ」

 「そうなの?そしたらそろそろ保育園当たってみようかなぁ。0歳児受け入れてくれるとここの辺少ないんだけど、短時間なら入れそうなところ、こないだ見つけたんだよね。お迎えは基さんが行ってくれるって言ってたし…」

 勤務先の幼稚園の保育時間は九時から二時まで。その保育園の預かり時間と全く同じだ。

 「お迎えは基さんに任せるとして、私が帰るまで約一時間か…。その間、紡を見てて貰えるかな。相談してみよ」

 ぶつぶつ言いながら一生懸命考えている詩鶴を見て、和歌が笑う。

 「大変な事もいっぱいあるんだろうけど、ちゃんと協力して頑張ってて偉いよね、二人とも」

 「いやぁ…これからもっと大変になるんだろうなって不安もあるけど。まぁ一人じゃないから、何とかね」 

 「一人じゃないから、ね。うん。やっぱりいいね」

 和歌はうんうんと頷いた後で「実は」と切り出した。

 「私も結婚する。来月」

 「え⁈あの動物病院の待合室で知り合った歳上彼氏と⁈」

 「うん。まだ付き合って半年ちょっとだし早いよなって思ってたんだけど、あっちがもういい年だからか、早くしたがってて。私も詩鶴を見てたら結婚もいいかもなって気になってきて…」

 結婚しようが子供を産もうが、友達の恋愛談に興味がなくなるなんて事はない。和歌の結婚報告に始まって、基が帰ってくる夕方近くまで、三人は恋愛話で盛り上がった。


 授乳中に眠ってしまった紡を、そおっと運んでベッドに移した。

 起きちゃうかな、と心配したけれど、そのまま静かに寝息を立てている。基はダイニングテーブルでノートパソコンを開き仕事をしていた。

 「紡、寝たのか?」

 流れるようにキーボードを叩きながら、基が尋ねる。

 「うん。今日はいつもよりお散歩長めだったから疲れたのかも。寝付きがよかったよ。連れ出してくれてありがとね」

 詩鶴が礼を言うと、基は視線を画面に向けたまま「いや」と口元だけで笑った。

 まだ執筆の途中のようで、手元は滞りなく動いている。あまり話しかけない方がいいかなと思って黙ったけれど、基の方から話を振ってきた。

 「さっき志乃さんから連絡来てたよ。来週あたり、また紡の顔を見に行ってもいいかって。君の体調も気にしてた」

 「ほんと?勿論いつでも!何だかんだ毎月来てくれるよね、嬉しいね。私が産後で弱ってた時に差し入れしてくれたおかず、美味しかったなぁ」

 「そろそろこっちから行ってもいいけどな。二時間弱の移動なら紡もそこまで負担じゃないだろ」

 「あっ、それいい!私も久しぶりに遠出したい。志乃さんに連絡してみよっと」

 詩鶴はすぐにメッセージを打ち込み、志乃宛てに送る。返事はすぐに来た。いつでも来てね、という文面に、詩鶴はわぁい、と小さな声を上げる。

 志乃の返事を伝えようと基を見ると、キーボードを打つ手が止まっていた。一区切りついたのかなと、基の背後から画面を覗き込む。縦書の文章がずらりと視界に飛び込んできた。

 「それ、今度の新連載?進んでる?」

 「うん。今三話目を書き終えた。初回掲載誌が発売になるのは夏頃かな」

 文書の保存をするところだったらしく、ファイル名を入力している。打ち込まれていく文字を追って、詩鶴は目を丸くした。第三話、の後に書かれた各話タイトル。え?これが?と、詩鶴は思わず、二度見した。 

 「『あなたのレバーをいただきます』…?」

 新連載は家族小説だと言ってなかったか?それにしては、あまりにも──

 「エグくない…?」

 「そうか?ペルシア語の諺なんだが」

 基はざっくばらんにそう教えるだけで、いつもみたいな解説はしてくれなかった。

 「こ…これはどういうお話なの?」

 「どうって事はない。どうって事ない家族の日常の物語だ。密室殺人は起きないし世界に滅亡の危機は訪れないし愛し合う二人の乗った船が沈んだりもしない。けど何も起きないからといって、何もない訳じゃない。人生の機微とはそういうものだろう?」

 詩鶴はうーん?と首を捻った。煙に巻かれた気が、するような。でも何となく、わかる気がしないでもないような。

 「今までの僕の作品とは、少し違うんだ。従来の読者に受け入れられるかどうかはわからない。売れないかもしれないが、それでも構わない。売れる物なら他にいくらでも書けるからな」

 随分と不遜な発言だ。けれど基はそれと不似合いに、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 「ごく私的な作品なんだ。例えば僕がある日突然死んだとしても、君と紡にその物語を残せるように。君達がどれほど掛け替えの無い存在なのかを、その物語を通して伝えられるように。それだけの為に、僕は今、これを書いてる」

 PCを閉じて立ち上がった基は、詩鶴の腰に腕を回して、優しく抱き寄せる。

 「…何言ってるの、もう」

 縁起でもないこと言わないで欲しい。詩鶴は少しむくれて、基の胸を額でぐりぐり押してなじった。

 「そんなふうに言われたら、怖くて読めなくなっちゃうよ」

 「読まなくていいよ。当分死ぬつもりないから」

 「当たり前でしょ」

 基は笑って、自分の額を詩鶴の額にこつんとぶつける。

 「ねぇ。あのタイトル、どういう意味?」

 「君の為なら何でも出来る。君を心から愛してる。食べてしまいたいくらいに──そういう気持ちを表す言葉だ」

 基はふざけて、詩鶴の耳を柔らかく噛んだ。

 「えー?なんかわかり辛い。普通に愛してるって言うだけじゃ駄目なの?」

 詩鶴は噛まれた耳を押さえて、合点がいかないと言いたげな顔をした。

 「それだけじゃ言い尽くせない感情ってものが、あるだろう」

 「あるの?」

 「あるよ。僕は何千万字費やしても足りないくらいだ」

 「ほんと?私は五文字くらいで精一杯だなぁ」

 「まぁ君は少し語彙と情緒が不足気味な傾向にあるからな」

 「失礼な」

 別に五文字でいいじゃないか。

 愛してる、と、それだけで。

 それだけで精一杯だし、充分だ。後はただ、傍にいて触れ合って、笑い合って。そうして分かち合えれば、それでいい。

 「それにしても基さんって、意外と食べ物関連のことわざ好きだよね。花より団子とか蜂蜜と玉葱とかも言ってたよね」

 「僕が好きというより、君が連想させるんだ」

 「そんな、人を食いしん坊みたいに。…でもまぁいいや。基さんにもいっぱい食べて長生きして貰わなきゃ。仕事も子育ても子作りも、まだまだこれからだよ?」

 「そうだな。御期待に添えるよう頑張るよ」

 そんなふうに笑い合いながら、唇を重ねた。


 まだまだこれから、日々は長く続いていく。

 基が教えてくれたように、蜂蜜みたいに甘い日もあれば玉葱みたいに辛い日も、きっとあるだろう。

 でも玉葱だって、辛いばっかりじゃない。じっくり火を通せば、ちゃんと甘くなるよね?

 (だから、全部ちょうだい)

 あなたの日々に訪れる、辛さも憂いも哀しみも、孤独も嘆きも憤りも、全部、私にちょうだい。

 そうしたら私が、甘くなるまで焼いて煮詰めて、返してあげる。

 私の蜂蜜をたっぷり足して、とびきり甘く仕上げたら。


 そうしたら全部──全部、あなたにあげるから。





  ───『蜂蜜と玉葱』end.

 



 

 

 

 


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