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7・虎は千里を行って千里を帰る(4)

 成世はその後も基に何曲か弾かせた。久々だから指が痛いと基が音を上げるまで、二人の演奏は続いた。基が離脱した後は成世がバイオリンを引き取って、見事な演奏を聴かせてくれる。

 「今日はここに泊まって明日日本(こっち)で仕事して、その足でまた何処かに発つんだろう?元気な事だ。虎は千里を行って千里を帰るってやつだな」

 基は呆れた顔で今度は太鼓を景気良く叩いている成世を眺めた。詩鶴は近くにいた航に、こそこそ尋ねる。

 「航さん、今のどういう意味かわかります?私、基さんの使うことわざ、大体いつもわからないんです」  

 「あぁ、基は小難しい言葉ばっかり使うもんなぁ。虎は一日に千里もの距離を走り、また帰ってくる。そのくらい勢いがある人だって事だよ。…でも、基は知ってるのかな」

 航は笑って教えてくれた後で、声を落として詩鶴に耳打ちする。

 「…そのことわざは、親が子を想う強い気持ちの例えにも使われるんだよ。虎は我が子の為なら千里の道も往き、帰ってくるみたいな意味でさ」

 基には聞こえないように、航はそう付け足した。


 ♢♢♢


 三人に別れを告げて車に乗り込むと、一気に静けさが襲ってきた。少しもの寂しい気持ちになって、詩鶴は運転席の基に努めて明るく話しかける。

 「ねぇ、そういえば基さんのお母さん、写真で見ただけだけど、綺麗な人だったね。今どこにいるの?連絡取り合ったりしてる?」

 「イギリスで医者をやってる。難易度の高い外科手術の専門医なんだ。連絡だけは父親よりも頻繁に来るよ。ただなんて言うか、著しくコミュニケーション能力の低い人でな。海外で働いている理由もそれなんだ。母国語だと自分の対人能力の低さがありありと露呈してしまって落ち込むけど、向こうだと外国人だからこんなものだ、仕方がないと言い訳が立つ。それで気が楽なんだそうだ。仕事しかない生活をしてるみたいで、メールも殆ど彼女の業務報告書に近い。おかげで僕は最先端医療に無駄に詳しくなった。まぁ小説の参考にはなるが」

 「おぉ…」

 「おまけに極度の人見知りだ。彼女とまともに会話が出来るのは、家族以外では志乃さんと航さんくらいだ」

 「そ…そっか…いつかは私も会えるかな?」

 「数ヶ月先とか、あらかじめ日程を決めて呼べば予定を合わせて来るんじゃないかな。君の休みが取れるならこちらから行ってもいい。けど多分君に会っても、しばらくは俯いて震えているだけで視線も合わないと思う。誰にでもそうだから気にせず放置しておけばいい」

 「う、うん。わかった」

 写真で見る限りはクールな美人という印象だったが、そんなキャラクターだったとは。会うのが楽しみなような不安なような、何とも言えない気持ちになる。

 「それにしても遅くなったな。もう十一時過ぎか。君は明日も早いんだから着くまで寝てるといいよ」

 基は詩鶴の額に手を当てて、瞼を閉じるように促す。

 「うん、ありがと」

 長い一日だった。あの平穏な朝から半日と数時間しか経っていないなんて、とても信じられなかった。

 運転に戻った基が手を離してすぐに、詩鶴はまた瞼を開く。志乃達の家から続く林道は、走行し易く舗装されてはいるものの、都会のような明るさはまるでない。隣の基を見ると、端正な横顔が僅かな月明かりに浮かび上がっている。


 『夜は暗い。月明かりでも無ければ歩く事もままならない。こんな憂鬱なものの名前を、何を思って子に授けたのか』

 

 ふと、基が書いた物語の一節を思い出した。


 でも、そうかな。夜ってそんなに憂鬱なものかな。

 確かに暗くて、不安になることもあるけれど──その深い闇の中には、清らかで美しいものたちが、ひそやかな安らぎの中で眠っている。

 憂鬱も哀しみもすべて覆い隠して、包み込む。そんな優しい夜もあるだろうに。


 朧げな、樹々の輪郭だけが流れていく暗い景色を眺めながら、詩鶴はずっと、たったひとつのことに想いを馳せていた。

 「──ねぇ、基さん」

 「どうした?詩鶴」

 基は真っ直ぐ前を見たまま、静かに応える。

 「あのね。私、基さんの子供、欲しいなぁ」

 呟いた詩鶴を、基はちらりと横目で見た。目が合って、詩鶴は照れ隠しにふふっと笑う。

 基はすぐに視線を前に戻して、運転を続けた。

 「もう迷いはないのか」

 「うん。何だろ、なんか…何にもなくなった」

 「……そうか。わかった」  

 少しの沈黙の後、基はほんの僅かに微笑んで、頷いた。

 「なぁ詩鶴。結婚式をしようか」

 唐突な基の提案に、詩鶴は驚いて目を丸くした。

 「結婚式?」

 「うん。ささやかなものでいい。身内と、君が呼びたければ親しい人達を呼んで。それでもあれは、結構な時間が掛かるだろう?」

 「そうだね。ゆっくり準備すれば半年以上、内容によっては一年近くかかるかも」

 「一年?そんなに掛かるのか。面倒なもんだな。世の人々は何でわざわざ時間と労力を割いてそんな煩瑣はんさな儀式をしたがるんだろうな」

 「え、ひどい言い草」

 自分で言い出しておいて臆面もなく悪態をつく基に、詩鶴はどういうこと?と呆れた顔を向ける。

 「何で急にそんなこと言い出したの?面倒なんでしょ?」

 「時間稼ぎの口実かな」

 基は口の端だけ上げて笑った。

 「君の気持ちは嬉しいよ。喜んで応えたいと思ってる。けど正直、案外早かったなと惜しむ気持ちもあるんだ。せっかく君を抱けるようになったのに、妊娠したらまたしばらくお預けだろ?だから少し先に挙式の予定を入れて、それが終わったら子供を作ろうって話にしようかと」

 何だそれ、と詩鶴は唖然とする。

 「そんな欲にまみれた不純な動機でやるものだっけ?結婚式って」

 「僕が今までどれだけ悲痛な想いを胸に抱えていたかわかるか?仙人になる修行をしているような気分だったよ。君が隣で寝てようが腕の中にいようが、約束だからと手を出せずひたすら耐え忍ぶ日々…」

 「ちょくちょく手は出してたじゃん」

 「あんなのは霞を食って気を紛らわせていたようなもんだ」

 「あ、そう…」

 その霞を食う程度のことにこっちはいちいち心乱されてたんだけど、と、詩鶴は不満に思う。

 「まぁ君が乗り気じゃないなら、すぐに子作りに入ってもいいけどさ。元々そういう約束をしたのは僕だしな」

 「や、うん。動機はアレだけど式はやりたいかも。ウエディングドレスとかやっぱり憧れだし」

 一生に一度のことだし。そう思って計画していた光稀との式が駄目になったから、何となくもう、やる事はないだろうと思っていた。まさか基がそんな子供じみた憧れを、拾い上げてくれるとは思わなかった。

 「あぁ。それは僕も興味がある。君が着たらさぞかし綺麗なんだろうな」

 「またさらっとそういうことを…私なんて別に、特別美人でも可愛くもないでしょ」

 「自分の事をそんな風に思っているのか?…わかってないな、詩鶴」

 二人の乗る車はだいぶ都市の方へと進んでいて、夜の街に灯る明かりも増えてきていた。赤信号で車を停めると、基は助手席の詩鶴の頬に手を伸ばした。

 「詩鶴。君は誰より強く美しい。僕の生涯で唯一人の、愛すべきひとだ」

 街灯のオレンジ色の明かりが、基の顔を同じ色に染めている。──けど、きっと基の顔色は、ひとつも変わっていないはず。

 「もー…作家の殺し文句、こわい」

 詩鶴が両手で顔を隠すと、基は楽しそうに喉の奥で笑った。そんな恥ずかしいこと、よく平然と口に出せるものだ。詩鶴にはとても真似できない。

 でも。私もそう思う、と、心の中で詩鶴は呟いた。言わないけど。言えないけど。

 「…明日の朝ごはん、何にしようかな」

 「コンビニでそのまま食べられるパンでも買って帰ろう。こんな日の翌日くらいはギリギリまで寝てたらいい」

 夜道を走る車の中で、二人はいつまでも、他愛もない会話を交わし続けていた。



  ♢♢♢



 時計の針は正午を少し回ったところだ。

 近所の桜並木も満開の時期を迎えた。朝晩の冷え込みはまだ続くものの、明るい陽射しは春の気配に満ちている。

 部屋を満たす柔らかな陽の光。白昼の静けさの中、詩鶴は深くソファに沈み込んで、微睡まどろんでいた。

 「──ゔぅあぁぁーん!」

 耳をつんざくような大音量の泣き声に、夢半ばだった詩鶴の意識は一気に現実に引き戻される。

 「…はいっ!ちょっと待ってね、今すぐ──」

 詩鶴は慌てて跳ね起きて、リビングの片隅に置いたベビーベッドを振り返る。その目に、小さな女の子とそれを抱き上げる基の姿が映った。

 「どうしたつむぎ。怖い夢でも見たか?」

 基がトントンと背中を叩くと、紡と呼ばれたその子は、すぐにしんと鎮まった。基の胸にぐりぐりとほっぺたを押しつけて、うーと小さく唸った後、ゆっくりと瞬きを繰り返す。

 詩鶴はほっと気が抜けて、浮かせた腰をぼすんとソファの上に戻した。

 「はー、びっくりした…。ごめん、うっかり寝ちゃってた」

 「そこで寝ても休まらないだろ。寝るなら二階に行っておいで。紡は僕が見てるから」

 「ありがと。でももうそろそろ二人が来る時間だ。起きないと」

 「来るって言ってたの三時じゃなかったか?」

 「違う違う、十三時。一時だよ」

 乱れた髪を手櫛で整えて結び直しながら、詩鶴は基の隣に立って、腕の中の子を覗き込んだ。

 「紡はパパの抱っこが好きだねぇ。すぐに御機嫌になるね」

 詩鶴がつんと頬をつつくと、紡は「まー」と笑って、その指を握った。



 基との子供が欲しい。

 詩鶴がそう言ったあの日から約一年半、二人の間には第一子が産まれた。少し体は小さかったけれど、健康な女の子だ。紡と名付けられたそのは、もうすぐ生後半年を迎える。

 「かーわいーー!」

 床で胡座あぐらをかく基の脚の隙間に、すっぽり嵌っておすわりしている紡。それを眺めて、乃絵は相好を崩す。

 「抱っこしたい!紡ちゃん、つむつむー。こっちにおいでー」

 乃絵が両手を伸ばすが、紡は怪訝そうな顔でじたばた手足を動かして、逃がれるように基の腿の上にぽてんと倒れた。

 「まだそこまで自分で動けないんだ。座るのも一人じゃ難しい。こうして支えててようやくなんだよ」

 膝の上の紡を抱き上げてお座りのポーズに戻しながら、基はそう説明する。

 「動けたとしてもそこから動かなそう。なんかパパっ子ぽくない?」

 紡は「あー」と不満気に声を上げてごろんと転がり、基の膝に戻る。べったり基にへばりついている紡を見て、和歌がそう笑った。

 「や、そうなんだよ。すごいパパっ子。私がおっぱいあげてても、お腹いっぱいになるとすぐ基さんの方に手を伸ばして、そっち行きたいみたいな雰囲気出すの。体削って母乳(しぼ)り出してるの私なのに、悔しい」

 詩鶴が口をへの字に曲げると、乃絵も和歌もあははと笑った。

 「瀬尾さんが育児なんて全然想像出来なかったけど、立派なパパになっちゃって」

 揶揄うように乃絵が笑うと、基は肩を竦めて、満更でもなさそうに口の端で微笑んだ。

 「久しぶりに会えたんだから、大人だけでゆっくり話すといい。僕は紡と散歩でもして来る。何か要る物があったらついでに買って来るけど」

 「あっ、そしたら商店街の焼菓子のお店でマフィンと、和菓子屋さんでわらび餅買ってきて欲しい!マフィンは六種セットので、わらび餅は普通のと抹茶の」

 「わかった」

 紡を抱っこ紐の中に収めると、基は詩鶴の頭をぽんぽんと叩いて、早々に家を出た。



 乃絵と和歌は産後一ヶ月を過ぎたばかりの頃、出産祝いを持って会いに来てくれた。けれどその時は詩鶴もまだ産後のダメージから回復しきっていないだろうとあまり長居せず帰って行ったから、こうしてゆっくり話すのは、久しぶりだった。

 「いやぁ、でも凄いですよね。結婚式の後すぐ子作り始めて、一発で妊娠したんでしょ?」

 「一発というか…まぁ…うん…」

 詩鶴はもごもごと言い難そうに言葉を濁す。

 基の計画通り、あのあと半年ちょっとの時間を掛けて結婚式の準備をした。お互いの家族と志乃と航、お互いの恩師やごく親しい友人を何人か呼んだだけの小さな式を無事終えたその夜、生理が来た。そしてそれが明けて以降は避妊をしなかった。

 結果的に、それが最終月経となった。乃絵が言うように一回限りの行為で、という訳ではないのだろうが、子作りを始めてすぐに妊娠したという意味では概ね同じ意味かもしれない。

 「半信半疑だったけど、ちゃんと当たるんですね。〈vita〉の出産特化型相性占い」

 「占いではない…。それより乃絵ちゃんはどうなの、ムナカタさんと仲良くやってんの?」

 詩鶴と基が結婚式を挙げる少し前に、乃絵とムナカタタカムネが付き合い始めた。読み聞かせ会で知り合って以降、ちょこちょこ飲みに行っている内に仲を深めたらしい。

 「まぁまぁですかねー。相変わらず素面だとネガティブで鬱陶しいんですけど、お酒入ると陽気になるんでウザければ飲ませて、その繰り返しです」

 そんな憎まれ口を言いつつも、乃絵はムナカタタカムネの繊細で思い遣りに溢れたところに惚れ込んでいるのだと、詩鶴も和歌も知っている。ムナカタタカムネは同じ〈vita〉の利用者同士、親近感のようなものがあったから、幸せそうで何よりだと詩鶴は思う。

 「今度基さんがムナカタさんに新しい連載の挿画頼むって言ってたよ」

 「あっ、聞いた聞いた。泣いて喜んでましたよ。手が震えて描けないとかいうから包帯で手と筆ぐるぐる巻きにして……」

 少し前に、基の新しい連載が決まった。掲載誌は今まで無縁だった主婦向けの情報誌。

 掲載の目途がたったのはここ数ヶ月の話であるが、実は何年も前から依頼を受けていた。詩鶴と結婚するきっかけにもなった、家族小説である。

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