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7・虎は千里を行って千里を帰る(3)

 「私ね、子供を産めない体なの」

 極めて私的でデリケートな身体の事情を、志乃は無頓着にさらりと告げる。

 「え…?」

 「生まれつき膣と子宮の一部が欠損してるんだって。それ以外は健常だから、大きくなるまで周囲の誰も、私自身も気付かなかった。いつまで経っても生理が来ないって心配した親に連れて行かれた病院で検査して、初めてわかったの」

 重大な打ち明け話をしているとは思えないほど、志乃の表情はからりとしていた。詩鶴の方が相槌すら打てないくらいに衝撃を受けて、ぎゅっと唇を引き結ぶ。

 「わかった時はまだ十代半ばだったし、絶対に子供が欲しいって夢がある訳じゃなかった。ただ私は本当に平凡な人間だったから、平凡なまま誰かと結婚して子供を産んで、ごく普通の人生を送るんだろうなって…何となくそう思ってたの。でもそれが私にとっては手の届かないものだと知って、それなりに困惑したわ」

 それはそうだ。当然だと思う。自分の身体が普通と違うこと。それがその先の人生に大きな影響を及ぼすこと。思春期の少女が受け止めるには重過ぎる荷だと、詩鶴は思う。

 「でもそれを聞いた航がね。ショックだろうけど、日常生活に支障が無くて良かったねって言ったの。すごく大した事ないみたいに言ったの。子供が産めないなら二人のままで、ずっと一緒にいればいいんじゃないって、言ってくれたの。そんな歳で好きな人からそんなふうに言われたら、舞い上がっちゃうでしょう?身体の事より航の事で頭が一杯になって…おかげで気持ちの折り合いは、早目につけられた」

 日常生活に支障がなくて良かった。航がそう言ったから、志乃も素直にそう思えた。航と二人で生きていくことを考えて、造膣手術だけはした。そうすれば性行為は可能になるから、男女の繋がりは持てる。でも子宮の移植は考えなかった。夫婦として二人で生きていけさえすれば、それで良かった。

 そんな中、成世と三景が子供を授かった。思わぬ妊娠に苦悩する姿も間近で見ていて、これから大変だろうなぁとは思ったが、最も親しい友人である二人の間に新しい命が誕生することを、志乃も航も心から祝福した。

 産まれた基は可愛かった。赤子というものがすべからくそうであるように、一人では決して生きていけない彼は、食べさせて貰い眠らせて貰い、泣いて援助を乞う。真っ直ぐにこちらに手を伸ばしてくる基を見て、この子を健やかに生かす為に、自分に出来る限りの手助けをしようと思った。その気持ちは、およそ人が人として備えていて然るべき、ごく当たり前の善良な感情だった。

 「でもあの日──幼い基君が一人で生きることを望んだあの日、私の中に、初めて醜い感情が産まれた。妬み…だったんでしょうね。私が子供を産んだなら決してこんな想いをさせないのに、どうして私じゃなくて、成世と三景のところに産まれてきちゃったの──そう思った」

 自分のどす黒い感情と、一人の子供をこのまま放置してはいけないという大人の責任感と。その二つはそれぞれ別個の独立したものでありながら、けれど少しでも気を抜くと、泥のように混じり合ってしまいそうな親和性を持っていた。

 志乃はその二つを切り離す為に、嫉妬だの僻みだの醜い感情には蓋をして、報酬を受け取ってあくまで仕事として、基の世話をする事を決めた。それが一人の子供の心を守る最良の手段だと信じて。大切な友人である二人との絆を守る手段だと信じて。

 「親がいないとか虐待を受けてるとか、基君がそういう立場の子だったら、また話は違ってたと思う。でも成世も三景も、親として不完全な部分は山程あったけど、基君の事を心から愛してた。その二人から基君を取り上げるような真似はしちゃいけないと思ったの。私が私の欠けている部分を埋める為に、この子を利用しちゃいけないと思ったの。だから私、基君の親代わりには決してならないように、気をつけてた。どんなに可愛いと思っても愛しいと思っても、私は親じゃないって、必死で線を引いてた。──けどそれは基君にとっては、辛い事だったかもしれない。もっと無条件に、甘えて、頼っていいんだよって、言ってあげるべきだったのかもしれない。今になって思うのよ。そんなにムキにならなくても良かったんだって。つまらない遠慮なんてしないで、成世や三景と親の座を取り合うくらい、可愛がって愛してあげれば良かったのになって。そうね、さっき、詩鶴さんが言ってたみたいに。──親なんて…親みたいな存在なんて、別に、何人いたって良かったのにね」

 そこまで話して、ふと詩鶴の顔を見て──志乃は「あら」と、困ったように目を丸くした。

 「詩鶴さん、泣かないで。ただの昔話なの」

 ポロポロと涙を零す詩鶴に、志乃は慌てて千切ったキッチンペーパーを差し出した。

 「泣いてないです…これは、玉葱が、目に沁みただけです」

 いつか基相手にも使った言い訳を、詩鶴はまた懲りもせず使った。鼻を啜りながら、涙と一緒に、言葉をしぼり出す。

 「…志乃さん。私、ずっと不思議だったんです。私、仕事柄子供を沢山見てるけど…親からの愛情を当たり前に貰ってない子って、何となくわかるんです。愛情(そういうもの)があるって事をそもそも知らなくて、差し出されても戸惑うだけで、上手に受け取れない。持ち合わせがないから、自分も誰にも渡せない。──でも基さんは…親とも疎遠で家族っていうものがどういうものかわからない、なんて言う割に、全然そんな感じしないんです。愛情深くて…真っ直ぐに真っ当に、誰かを大切に出来る人です。何でかなって、ずっと思ってたんですけど…今日、わかりました。基さんは、わかってます。自分が与えられたものがどういうものだったのか、ちゃんと知ってます。誰も何も悪くないです。ひとつも間違ってないです。基さんの傍にいれば、それがわかります。だから、あの…私が言うのも変かもしれないんですけど…」

 詩鶴は手にしていた包丁をまな板の上に置いて、志乃に向かって深々と頭を下げた。

 「…基さんを育てて下さって、ありがとうございます。志乃さん達のおかげで、私は今、幸せです」

 頭を下げている詩鶴からは見えなかったけれど、志乃がじっと息を止めているのがわかった。どんな顔をしているのかはわからなかったけれど、詩鶴をじっと見つめているのがわかった。

 「…詩鶴ちゃんは、いい子ねぇ。うちの娘になる?」

 「なります」

 詩鶴が即答して顔を上げると、志乃はふんわりと優しい顔で、ほのかに目尻を赤く染めて笑っていた。

 これからは詩鶴も基と同じように、親と聞いたら実の親と同時に今の志乃の顔を思い浮かべるだろう。

 詩鶴はそう思って、少し笑った。



 小暑の夜風が肌に心地良い季節の黄昏時だ。部屋に篭ってないで外の空気を味わいながら食べよう、と成世が言った。

 庭には広いガーデンテーブルが設置してある。その周りに、航が人数分の折り畳みチェアを用意してくれた。テーブルの上には志乃と詩鶴が作った世界各地の料理が並ぶ。様々なスパイスの香りが、夕暮れの湿った樹木の香りに混ざっていった。

 「食べ合わせとか完全に無視ですよね」

 「レシピ通りに作ったけど、食べたことないから味の正解もわからないしねぇ」

 食や料理に多少のこだわりがある詩鶴と志乃はそう不満気に言い合ったが、男性陣は色とりどりの料理を素直に喜び、賞賛していた。

 「詩鶴、これは何?」

 「あ、それ。鱈と野菜をココナッツミルクで煮たシチューみたいな…名前なんだっけな」

 「それはムケッカだ。ブラジルにいた時よく食べた」

 「こっちのは?」

 「トルタンタロン。焼き茄子を卵で包んだ、オムレツみたいなものだよ」

 自分達で作ったとはいえ、馴染みのない響きのメニュー名は詩鶴にはなかなか覚えられない。基の質問には、成世が横から首を伸ばして代わって答える。

 「そういえば基は、どんなふうに詩鶴にプロポーズしたんだ?」

 唐突な成世の質問に、詩鶴は思わず口の中に詰め込んでいた食べ物を吹き出しそうになった。固形物を吐き出すのはかろうじて堪えたが、おかしなところへ詰まらせてゲフゲフとせる。

 「脈絡がわからん。今の流れで何が『そういえば』なんだよ」

 詩鶴の背中を撫でながら、基は横目で成世を睨んだ。

 「トルタンタロンはフィリピンの料理だ。僕はあの国の伝統的なプロポーズ方法が好きなんだよ」

 「伝統的なプロポーズ?」

 どんな方法?と、詩鶴は首を傾げる。基を見たけど、知らないというふうに首を振った。成世以外の誰も知らなかった。

 「あの国の人々は家族を大切にする。男達は求婚する女性の家に夜毎よごと通い、窓の外で楽器を奏で、歌を歌い、愛の曲を捧げる。そうして恋人に愛を伝えると共に、その家族に婚姻の許しを請うんだ。ロマンティックだろう?」

 「ふぅん。随分と気障な慣習なんだな」

 「え…気障に関しては基さん人のこと言えなくない?」

 立ち直った詩鶴がぼそっと呟くと、少女のようにきらきら目を輝かせた志乃がそれに喰いついた。

 「なぁに?基君、そんな気障なプロポーズしたの?何て言ったの?」

 「あ、いえ。プロポーズ(それ)は普通でした。僕と結婚しようって、さらっと」

 さらっとし過ぎていて本気と正気を疑ったことを、詩鶴は懐かしく思い出す。

 「なんだ。それじゃ詩鶴シヅルは物足りないだろう?」

 「いやっ…その辺はもう全然、充分です。充分過ぎるくらいです」

 詩鶴は焦ってぶんぶん首を振った。手で顔を覆いたくような気障で甘ったるい台詞は、その後散々聞かされている。結婚のきっかけくらい、さらっとしていてちょうどいい。

 「ふむ。…まぁいい。とりあえず食事の後だな。詩鶴と志乃が丹精込めて作ってくれたせっかくの料理だ。美味しい内に食べよう」

 何が食事の後なのかと詩鶴は首を傾げたが、美味しい内に食べよう、という意見には全面的に賛成だ。スパイスの効いたミートパイを口に詰め込んで、もぐもぐと口を動かした。


 日が落ちて夜闇が深まると、設置してあるガーデンライトだけでは視界が覚束おぼつかなくなってきた。航がランタンをいくつか持って来て、明かりを灯してくれる。

 橙色の灯りが深い森を茫と照らし、多国籍料理の残り香が相まって、どこか遠い異国の土地で過ごしているような錯覚を覚える。

 時計を確かめてそろそろ帰らないとなぁと考えていると、席を外していた成世が両手に荷物を抱えて戻ってきた。片方の肩に担いでいた黒いケースを「ほら」と基に差し出す。

 「…何?」

 怪訝そうに窺い見る基に、成世はにっこりと笑ってみせる。

 「プロポーズのやり直しだ。まさかそんな素っ気ない言葉ひとつと紙切れ一枚で、詩鶴シヅルめとった気でいる訳じゃないだろう?の国の男達に倣って、愛の歌のひとつやふたつ、聴かせておやり」

 揶揄うような成世の笑顔に、基は渋い顔をしつつもそれを受け取った。そのケースの中身は、さほど音楽に詳しくない詩鶴でも、形状と大きさで推察出来る。

 「バイオリン…?」

 弾けるの?と詩鶴が目で問うと、基は拗ねたように唇を曲げた。

 「幼い頃、彼の手慰みに教わっただけだ。巧くも無いし特別好きって訳でもない」

 基と楽器を見比べる詩鶴に、基は親指で成世を指してそう言った。だが詩鶴は期待に目を輝かせて、弾いてと詰め寄る。基は根負けしたようだ。

 「…本当に大したものじゃないんだ。けど君がどうしても聴きたいと言うなら──」

 「どうしても聴きたい」

 「──まぁそう言うよな…」

 基は溜息を吐いて、そのケースを開いた。

 「…もう何年も触ってない。まともには弾けないぞ」

 「雀百まで踊り忘れず、だ。専門家に媚びる必要も大衆の支持を得る必要もない。ただ一人、詩鶴シヅルの為だけに弾けばいい」

 基は立ち上がってすらりと構えると、掲げ持った弓を引き、体に馴染ませるように音を鳴らす。成世はもう一つの荷物を紐解き、大小二つ連なった革張りの太鼓を取り出して、両脚の間に挟んだ。

 「僕も手伝うよ」

 そう言って成世が指を動かし控えめなリズムを刻み始めると、基はほんの一瞬、懐かしむように目を細めた。

 基が弓を弦に落として動かすと、キィと初めの音が鳴った。

 空気の底に沈んでいた光と音の粒子が、密やかに暗闇と手を繋ぎ、さざめいてつやめき始める。繊細な音色だ。硝子細工みたいに壊れやすそうなのに、しなやかで、決してもろくはない。

 聴き覚えのある旋律だった。曲が進んでから顔を覗かせたあるフレーズで、詩鶴は思い出す。この曲は、少し前に観た『ヨルの旅』の主題歌だ。

 詩鶴に付き合わされて隣で観ていた基は、エンドロールで流れるこの曲を、好きだと言っていた。凪いだ水面に映る月のように儚く美しい楽曲だと。そう、確か、曲のタイトルは『夜を渡る』───。

 鼓面を叩く成世が穏やかな表情で基を見つめている。それに気付いた基は、束の間、父親と視線を交わし、どこか少年のような顔で、照れ臭そうに小さく微笑んだ。そんな二人を見ていた詩鶴に基は気が付いて、目が合うと、今度は深く、柔らかく笑う。


 この人が、私の夫。


 体中から湧き出てくる切ない想いが、泡沫のように産まれては弾け、胸の中で溢れる。

 苦しい程に喉元までり上がってくるその感情の波に何と名前を付けたらいいのか、詩鶴にはまるで、わからなかった。

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