7・虎は千里を行って千里を帰る(2)
成世の言う古い友人達の家は、東京都内といえど二十三区外、奥多摩地方の山の中にあった。詩鶴は翌日いつも通り朝から仕事なので、あまり帰りが遅くなるのも都合が良くないだろうと、昼食を食べ終わって早々、家を出た。
車を一時間半走らせて、着いたのは森の中にある小さな一戸建て。家屋はさほどでもないが、途方もなく庭が広い。広いというか、どこまでが庭なのかわからない。ある程度の範囲までは手入れされている様子があったが、フェンスなどの仕切がなくそのまま森に繋がっているのだ。
そこで出迎えてくれた壮年夫婦は、存在自体が賑やかな成世とは掛け離れた、穏やかで落ち着いた印象の人たちだった。細身で聡明そうな男性と、にこやかで家庭的な雰囲気の小柄な女性。
「航と志乃というんだ。僕と三景の幼馴染さ」
三景というのは成世の妻、つまり基の母親だ。仲の良い幼馴染の四人組。それが時を経て二組の夫婦になったのだという話は、ここへ向かう車の中で成世から聞いた。
「志乃さんはシッターも出来るプロの家政婦だ。僕が高校を出るまでの長い間ずっと、身の回りの世話をしてくれてた。航さんにも世話になったよ。正直、親と聞くと実の親の顔より先にこの二人の方が頭に浮かぶくらいだ」
「おぅ基、つれないことを言うな…」
嘆く成世と、すげ無くあしらう基。二人を放置して、航と志乃は詩鶴を囲む。
「詩鶴さん、遠いところをよく来てくれたね」
「貴女のことは基君から聞いてたの。いつか会えたらいいなと思ってたから、嬉しいわ」
「基さんから…」
基が両親以外にも結婚の報告をしていたとは、驚きだった。詩鶴が思っていたよりずっと、基とこの夫妻の関係は深いのかもしれない。緊張した面持ちで丁重に挨拶をする詩鶴を解きほぐすように、志乃は詩鶴の背に触れるか触れないかというくらいに軽く、手を添えた。
「疲れたでしょ?お茶でも飲んでゆっくりしましょ。基君の小さい頃の写真でも見る?」
「えっ、あるんですか?見たいです」
これぞ夫の実家訪問の代表格、とでも言うべきイベントに、詩鶴の心は浮き立った。そこに成世が声を掛ける。
「志乃、キッチンを借りてもいいかな?今夜はは僕が詩鶴に手料理を振る舞うと約束したんだ」
それを聞いた途端、志乃はぴたりと動きを止めた。
「手料理…?成世の?」
「そうさ。僕が世界各地で覚えた現地の料理を詩鶴に…」
「駄目」
志乃は別人のように冷たい目をして、きっぱりと成世の話を断ち切る。
「あなたの手料理を詩鶴さんに食べさせるなんて、そんな危険な真似、許せる訳ないでしょう」
「な…なんて事いうんだ、志乃。僕はただ世界の美味しいものの数々を詩鶴に」
「元がどんなに美味しいものでも、成世の手に掛かればそれは兵器よ」
「ひどい。ひどいじゃないか。僕だって現地の友人達に教えを請うて、日々研鑽を積んでるんだぞ」
「それを誰かに食べさせた?」
「もちろん」
「食べた人はどうなった?」
「………」
志乃に問われて、成世はそっと目を逸らして黙った。兵器?と詩鶴は首を傾げたが、航も基も黙って目を伏せている。
「あのね詩鶴さん。楽しみにしてたらごめんなさいね。でも成世の手料理を食べたら、きっと三日は仕事に行けない状態になるから。救い難い料理音痴なの。食べたら確実に胃腸が壊れるわ」
火の通し加減は生か丸焦げ、味付けは激辛か激甘か塩分過多。粉物はダマだらけで煮込み料理の具材は原型を留めず、肉や魚は不思議なことに陶器のような固さになる。らしい。
「でもレシピを貰ってきたんだ。元々志乃と航にご馳走するつもりで、必要なスパイスも全部現地で揃えてきたのに」
「全部渡して。レシピ通りに私が作るから」
「ひどいよ、志乃」
「仕方ないでしょう。基君のお嫁さんを入院させたいの?」
成世はしょんぼりと肩を落として、持参したポストンバッグを渋々志乃に差し出した。背後に立っていた基を見上げて、詩鶴は小声で尋ねる。
「料理音痴は遺伝なの?」
「馬鹿な。僕はやれば出来る」
負け惜しみのような基の言い分に、詩鶴は思わずぷっと吹き出した。
「でも基さんも知ってたなら教えてくれたら良かったのに。成世さんの料理が食べられないこと」
多国籍料理のお腹になっちゃってたのに、と詩鶴は頬を膨らませるが、基は悪びれず笑みを浮かべている。
「志乃さんが代わりに作ってくれるだろうと予想してたからな。君の胃袋の期待は裏切らないで済むし、それに──」
基は詩鶴の腰に手を回してそっと引き寄せ、小声で耳打ちした。
「君をあの二人に会わせたかった。彼等は幼い頃の僕にとって、一番身近な頼れる大人だったんだ。これから君にとっても、そういう存在になってくれたらいいと思う」
「……そう。そっか。でもそれなら…」
それならもっと早く連れてきてくれればいいのに。
そう言おうと思った後で、すぐに気付く。
今でなければ意味がない。
基は名ばかりの妻を二人に会わせたかったのではない。そんな関係の相手を会わせても、きっと二人には見抜かれて、余計な心配をかけてしまう。詩鶴だって結婚当初に連れて来られたら、私なんかが妻として紹介されていいのかな、としか思わなかっただろう。何の屈託もなく身も心も基に寄り添う事が出来る今の詩鶴だからこそ、幼い基を守ってくれたことへの恭敬を感じることが出来る。
「…そっか。ただ挨拶しとけばいいってものじゃないもんね。なんか嬉しいね。こういうの」
はにかむように微笑むと、基は目を細めて、優しく詩鶴の頭を撫でた。
三冊の分厚いアルバムは、産まれたばかりの基から始まって、大学の卒業式で終わっていた。
「やだ…基さん、生後六ヶ月くらいからあんまり変わってない…」
「どこをどう見ればこの乳飲み子と今の僕に変化がないと思えるんだ」
眠る赤ん坊の基の写真を見つめて、詩鶴はかわいい、と感動に打ち震えた。
「あんまり変わってないよなぁ。体が縦に伸びただけだ」
航が横から口を出すと、基はつまらなそうな顔をしてフンとそっぽを向いた。
「基は産まれた時から大人びた顔してたし、成長も早かったからな。三、四歳で今と同じくらい喋ってたもんなぁ」
「そんな訳ないだろ」
しみじみと言う成世を基は呆れ顔で睨み付けるが、周囲の大人達はうんうんと頷いている。口達者なのは生まれつきかと詩鶴が笑いながらページを捲っていると、保育園の卒園式の写真が出てきた。今と変わらないつんと澄ました顔をした小さな基が、正装をして写真に収まっている。
「基が僕らと離れて暮らす事を選んだのは、この頃だよ」
「……えっ?」
成世の発言に、詩鶴はページを捲る手を止める。
「基さんが選んだ?え?この歳で?」
成世が何気なく放った言葉に、詩鶴は目を丸くして隣に座る基を見上げる。だが基は肩を竦めて首を振るだけだ。
「周りはそう言うんだけど、僕は覚えてないんだ」
「まぁまだ五、六歳だったからな。記憶が曖昧なのは無理もない。でもここにいる全員聞いてたぞ」
成世が航と志乃を親指で指し示すと、二人は再びうんうんと頷いた。
詩鶴が基から聞いているのは、両親と過ごした記憶があまりないとか、年齢と共に会う回数が減っていったとかその程度だ。
どういうこと?と詩鶴が戸惑っていると、基の隣に座った成世が身を乗り出して、嘆かわしげに両手を広げた。
「詩鶴。少し長くなるが、聞いてくれるか?僕らの家庭の事情。僕と三景が基を授かったのはまだ若い頃──僕が大学を卒業してすぐ、三景はまだ医学部に在学中の頃だった──」
♢♢♢
同じマンションに住む成世と三景、航と志乃。
物心つく前から、四人はいつも一緒にいる、仲の良い幼馴染だった。陽気な芸術家タイプの成世と物静かで物事を深く追求する研究者タイプの三景は、性質は逆方向だったが、それぞれに我が道を行き過ぎてどこか周囲から浮いてしまうという点では似た者同士だった。それを常識家で人当たりの良い航と、大らかで世話焼きの志乃がフォローする。そんな関係だった。
年頃になって、四人が二人ずつの恋人同士になったのも、自然な成り行きだった。
音楽に秀でていた成世は、幼い頃から習っていたバイオリンで音大へ進む。三景はとにかく勉強が好きで得意だったから、医師である父親の勧めもあって、医学部へ。取り立ててやりたい事がなかった航と志乃は、学力と距離等を考慮して順当な大学に進み、卒業後、航は公務員に、志乃は食品の卸会社に就職し、事務員となった。
三景の妊娠が発覚したのは、この頃だ。避妊には気をつけていたつもりだったけれど、たった一度の失敗で命が芽生えた。
音大を卒業した成世は、学生時代の様々な経験から楽器の転向をし、パーカッション奏者への道に進み始めたところだった。三景は六年制の医学部の四年。どこから見ても誰から見ても、子供を生むには時期尚早だった。
けれど成世は三景を愛していたし、いくら周囲に苦言を呈されようと、二人の間に出来た子供の命を堕ろすことなど考えられなかった。それは三景も同じ気持ちで、医者になることを断念してでも出産することを望んだ。
成世の両親は出産に反対して、産むのであれば絶縁、その後の援助は一切しないと言った。三景の両親も反対していたが、話し合いを重ねる内に態度を軟化させた。三景は出産前後の必要最低限の期間だけ休学し、産後に復学──当初の医者になるという目的を全うすると約束するのであれば、出産を認めるし出来る限りの援助をすると言った。
成世と三景は両親の条件を受け入れ、出産は決定事項となった。そして基は順調に三景の胎内で成長し、産まれる。
基が産まれて半年も経たない内に、基を保育園に入園させて三景は復学した。元々並外れて優秀な頭脳の持主だ。難なく卒業し国家試験も通って、研修医となる。
成世は成世で、その間に少しずつ奏者としての実績を積んでいった。成世はこと音楽に関しては、天賦の才があった。奏者としては駆け出しであったが、何とか生活出来る程度の仕事は貰えた。ただ、それを維持して更なる実績を積み仕事を増やしていく為には、目の前の仕事を選んではいられない。その時成世に目を掛けてくれていたディレクターは沢山の仕事を彼に与えたけれど、それは世界各国、場所と時間を問わずに飛んで行くような仕事ばかりだった。
成世と三景の多忙を埋めてくれたのは、三景の両親だ。約束通り医師となった三景を、約束通り出来得る限りフォローしてくれていた。
だが基があと数ヶ月で三歳になろうという頃、三景の両親が急逝する。二人が乗っていた車が玉突き事故に巻き込まれたのだ。即死だった。
「そこからはもう…あまり記憶も残らないくらい、混乱していた。正直なところ、悲しみを正当に感じる余裕さえなかったよ。研修医の三景は家に帰れない日もザラだったし、僕も昼夜を問わず国内外を駆け回っていた時期だ。基を保育園に預けても、僕も三景も迎えに行けない事が続いた。保育園からは退園を促され、でも他に適切な受け入れ先もなかった。僕も三景も、職を変えることは考えた。でも僕は不器用で、他に出来る仕事なんて思いつかなかった。三景は三景で、自分が医者を辞めるのは亡くなった両親との約束を反故にする事になるんじゃないかとひどく悩んだ。だから僕は、公演の…仕事場に常に基を連れて歩く事にしたんだ」
練習や公演の間、幼い基は舞台袖や楽屋で待たされていた。スタッフが見ていてくれる事もあったが、誰しも他に仕事があるので、放置されている事も多かった。基は大人しい子供だったから、大人達は特別困らなかった。それはそうだ。絵本と食事さえ与えておけばいいのだから。
だが、頻繁な長距離移動と大勢の人が集まり忙しなく働く中での孤立。幼い基の中には、着実にストレスが溜まっていたのだろう。
「その頃、年に数十日しか日本にいなかったんじゃないかな。そんな生活を続けていたら、基が小学校に上がる少し前に、言ったんだ」
『僕はもうこんな遊牧民みたいな生活にはうんざりだ。あちこち連れ回されて雑音だらけの場所に放っておかれるくらいなら、決まった一箇所で、静かに落ち着ける自分のための空間で、放っておかれたい。本と死なない程度の食事さえあればいい。仕事があるなら置いて行けばいい。僕は一人でも構わない』
成世と三景、航と志乃。その場にいた四人全員が、茫然とした。それがほんの五、六年しか生きていない子供の言葉だろうか。
「私もちょくちょく基君を預かったりしていたから、可愛い甥っ子みたいな感覚でいたのよね。だからそれを聞いて凄くショックだった。こんな小さな子供にそんな事を言わせるような生活をさせちゃいけないって思ったわ。それで、二人と契約をしたの。私が仕事として基君のシッター兼ハウスキーパーをやるから、貴方達は親としてしっかり自分の身を立てて、その代金を払えるだけの仕事をしてきなさいって。──多分成世と三景には、そういう生き方しか出来ないだろうから。二人とも、すごく不器用だから。そして私と航には、それを補う役目が染みついちゃってたから」
そう言って志乃は、航と顔を見合わせてふふっと笑った。
詩鶴は隣に座る基の服をぎゅっと掴む。基は平然としていたけれど、たまらない気持ちになった。
基の両親が大変だったことも、精一杯だったことも、基に対する愛情と責任を感じていたことも、勿論わかる。でもそれ以上に、幼い基に対する憐憫の情が湧いた。子供というのは、大人の庇護がなければ何も出来ない、不自由な存在だ。だからこそ、そのやわらかい心に何が起こっているのか、身近な大人が慎重に見極め、守ってやらなければいけない。大人の都合に振り回される基の心労は、どれほどだっただろう。
複雑な思いを抱く詩鶴と目が合うと、基は眉根を寄せて、珍しく少し困ったような微笑みを浮かべた。
「僕はその頃の事をあまり覚えてないけど──でも、君がそんな顔をする程のことじゃない。僕は今だって君と過ごす以外は、一人でいる方が好きだ。人の性質は幼い頃からあまり変わらないってだけの話だよ」
どんな顔をしていたというのだろう。自分ではわからないけれど、基に気を遣わせるほど酷い顔をしていたのだろうか。けれどぽんぽんと基に背中を叩かれて、詩鶴の強張った表情はふわりと解けた。
「…私、この頃の基さんに会いたかったなぁ」
「ん?僕は歳下の子供と遊んでやるほど面倒見良くなかったぞ。会っても面白くなかったんじゃないか」
「そうじゃなくて、今の私で会うの。放っておけって言われてもしつこく構って、べったべたに可愛がって、鬱陶しいくらい甲斐甲斐しくお世話して、無理矢理仲良くなってやる。一人の方がいいなんて言わせないもんね」
「何だそれは。幼稚園教諭の意地か?」
「違うよ。未来の妻の意地だよ」
「タイムスリップでもしてみるか?」
どういう世界線だと基はおかしそうに笑って、詩鶴の顎に手を掛けた。今にも唇が触れそうなほど、耳元に顔を近付けてくる。
「僕は嫌だよ。過去よりも今とこれから先に、君がいる方がいい。子供の時じゃ、せっかく手の届くところにいても何にも出来ないだろ」
「基さん、親御さん方の前ですよ…」
詩鶴は基の胸に手のひらを当てて、ぐぐっと押しのける。成世も志乃も航も、それを笑って見ていた。
幼少期のアルバムのページは基の手で閉じられる。代わりに三冊目のアルバムを開くと、制服姿の基が出て来た。中学生くらいだろうか。
「おぉ、美少年になってる…」
顔立ち自体はさほど変わらないが、今よりずっと線が細く儚げで、深窓の美少年といった雰囲気だ。
「基は三景によく似ている。三景も永遠に見つめていたくなるくらい美人なんだ」
成世は謙遜もせず自分の妻を讃える。時々写真に映っている母親の三景も本当に綺麗な人で、涼しげな目元とシャープな顔立ちが、基とよく似ていた。
「…あっ、もうこんな時間。そろそろごはんの支度を始めないと」
壁の時計を見てぱっと立ち上がった志乃につられて、詩鶴も反射的に腰を浮かす。
「あ…あの、私もお手伝い、してもいいですか?」
志乃一人で準備をするのは大変だろうからと申し出ると、志乃は「あぁ!」と屈託ない笑顔を浮かべる。
「ありがとう。本当言うと私、レシピを見て料理するの苦手なの。いつも勘で作っちゃうから。手伝って貰えたら助かるわ」
お願いねと詩鶴を伴って、リビングと壁で隔てられている広いキッチンに入って行く。成世から受け取ったレシピをぱらぱら眺めて、作業を割り振った。てきぱきしている。
「じゃあ詩鶴さんにはみじん切りにするのお願いしていい?このセロリと人参と、玉葱」
はい、と頷いて早速作業を始めた詩鶴の隣で、志乃は小麦粉の計量をしたり卵を割ったり、何かの生地作りを始めた。
少しふくよかな体型におっとりした雰囲気。こう言っては何だが、志乃という人は、見れば見るほどごく普通の壮年女性だ。
でも、友人とは言え他人の子供を代わりに育てようなんて、思い切った決断を出来る人。詩鶴の中にふつふつと尊敬の念が湧いてくる。
「基君がお見合い結婚したって聞いた時はびっくりしたけど、仲が良さそうで安心したわ」
志乃はにこにこしながら、ボウルの中身を混ぜている。
「学生の頃も女の子を家に連れて来るなんてなかったから、基君の恋愛事情って謎だったんだけど。けっこう嫉妬心とか独占欲とか強そうね。大丈夫?僕を置いて出掛けるなとか言われてない?」
「あ、いえ。女友達と出掛けたりご飯食べに行ったりとか、そういうのは自由にさせてくれます」
相手が異性とあれば色々言われそうな気もするが、元々詩鶴は友達も同僚も同性ばかりだから、特別困る事はない。それにしても志乃の心配するポイントは成世と似ているな、幼馴染だから似るのかな、と詩鶴はくすっと笑った。
「…基君の小さい頃の話、驚いたでしょう?幼稚園の先生なんてしてたら、なおさら」
志乃は少し声を落として、苦い微笑みを浮かべた。詩鶴もどきっとして、視線を作業中の手元に戻す。
「──はい。正直驚きました。でも、あの、ごめんなさい。私さっき、その頃の基さんと一緒にいたかったなんて言って…志乃さんと航さんが、ちゃんと傍にいたのに。親代わりをしてくれてた方達の前で、失礼だったなって」
穿った見方をすれば、二人では不十分だったと言っているように受け取れなくもない。
「失礼だなんて思いもしないわ。基君はいい奥さん貰ったなぁって思ってた」
反省する様子を見せる詩鶴に、志乃は笑ってみせた。
「…それにね。私、全然親代わりなんかじゃなかったの。むしろ、基君の事を自分の子供みたいに思わないように、必死だった」
志乃は手を止めて、昔を思い出すような遠い目をした。その目には、後悔なのか哀惜なのか──憂いの色が宿っていた。




