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7・虎は千里を行って千里を帰る(1)

 眠る詩鶴の髪を、誰かがいている。

 カーテン越しに降り注ぐ陽の光は、淡く、柔らかく、白々としたその色合いで朝だとわかった。

 起きなくちゃ、と寝惚けた頭で考えたすぐ後に、あぁ違う、今日は休日だから急がなくていいんだ、と思い出す。それならもう少し、この腕の中で甘えていたい。

 すぐ傍にいるその人の胸に顔を埋めてぐずぐずしていると、頭の上から柔らかい声が降ってきた。

 「おはよう、詩鶴」

 「基さん…おはよ」

 眠たげな声で返事をすると、基は髪を梳くのをやめてやんわり抱き締め、背中を撫でてくれる。

 あたたかい。気持ちいい。詩鶴は微睡まどろみながら、羽毛に包まれるようなその心地良さに浸った。

 けれど詩鶴に触れる基の手は、少しずつ悪戯いたずらめいてくる。徐々に背中から腰の方へと降りてきて、さらにその下の方に進む。詩鶴がれるやり方をわかっていて、そそのかすような、その手付き。

 「基さん…朝だよ?」

 「そうだな」

 昨日夜更けまで睦み合った身体には、どこか余韻が残っていた。剥き出しの背骨をなぞる指の動きに、昨夜ゆうべの甘い憂いがよみがえる。

 「朝の無防備な君が好きなんだ」

 「…昨日は、夜の物憂げな君が何とかかんとか言ってなかった?」

 「昼はひねもす夜はもすがら。君はいつでも可愛いよ、詩鶴」

 「…それはどうも…」

 よくもまぁそう次々と甘言蜜語を繰り出せるものだと、こちらの方が恥ずかしくなってくる。けれど、まんまとそれに乗せられてしまっている自分にも、気付いていた。

 「…何度もしたのに。昨日」

 仰向けになった詩鶴の上に覆い被さってくる基からそろっと視線を外すと、耳元で低い声が尋ねる。

 「嫌なのか?」

 基の口元には薄く笑みが浮かんでいる。答えがわかっていて問いを投げ掛けている顔だ。詩鶴は諦めて、小さく息を吐いて、瞼を伏せた。

 「…やじゃない…」

 遠くで電話が鳴っているのが聞こえる。基のものだ。なかなか途絶えないその音に二人とも気付いていたけれど、聞こえない振りをして唇を重ねた。


  ♢♢♢


 基が着信を確認しに行った後もまだ、詩鶴はベッドの中で、ふわふわうわつく身体を持て余していた。

 長く付き合った相手がいたとは言え、詩鶴は男性経験自体は多くない。比べる訳ではないけれど、光稀は性に関してはもっと控えめだった。こんなにも甘く繋がる朝がある事を教えてくれたのは、基が初めてだ。

 自堕落だなぁ、と、ほんの少しの背徳感。けれどそれを軽く蹴飛ばしてしまう、充足感。

 (私、今、すっごく幸せな気がする)

 枕に顔を埋めて詩鶴がひとり噛み締めているところに、基が戻って来た。

 「詩鶴。悪い、ちょっと用事が出来た」

 「ん?私はいいけど。打ち合わせでも入った?」

 休日とは言え、特別予定を決めていた訳でも出掛ける約束をしていた訳でもない。いいけど、仕事忙しいのかなぁ大変だなぁと思いながら尋ねると、基は首を振った。

 「いや。父親が近くまで来てる」

 「──えっ⁈」

 詩鶴は思わず飛び起きた。ばさっと剥がれた布団を慌てて引っ張って、はだけた胸を隠す。

 「急な仕事で一昨日帰国したらしい。またすぐ発つけど、せっかく日本に来たから僕の顔でも見に来ようと思ったんだとさ。けど住所を控えてくるのを忘れて、何となくの記憶で上野まで来たもののそこで立ち往生してるそうだ」

 「そ…それは申し訳ないことを」

 着信音が聞こえていたのは一時間近く前だ。詩鶴達が情事に耽っている間中、基と連絡が取れずに待ちぼうけを喰らわされていたということになる。物凄く悪いことをしていた気持ちになって詩鶴は焦るが、基はどうでも良さそうに肩を竦めた。

 「事前に連絡して来ない向こうが悪い。いつもこうなんだ。僕も在宅仕事とはいえ打ち合わせや取材で外出することもある。いつでも家にいるって訳じゃないから前もって連絡するように言ってあるんだが。詩鶴、君はどうしたい?興味があればここに来させるし、面倒だったら僕だけ出て行ってどこかで適当に飯でも食って帰そうと思う」

 「え…えっと…」

 急な話に戸惑ったが、基の父親。詩鶴にとっては義父である。緊張もするし怖気付く気持ちもあるが、興味がない筈がない。

 「私も会いたい…と思う」

 「そうか。じゃあここへ呼ぼう」

 住所を送る為にタブレットをポケットから出して、基は文字を打ち始めた。硬直したまま基の手元をじっと見ている詩鶴をちらりと見て、基はふっと笑った。

 「そんなに身構えなくても大丈夫だよ。数年に一度会うか会わないかの人間だ。君が好ましくないと思ったらさっさと帰して、二度と会わなければいい」

 「そ、そうは言っても」

 「まぁでも、血縁者の僕が言うのも何だが極悪人って訳でもない。君を取って食いはしないよ」

 基は詩鶴の頭を撫でて、脱ぎ捨てたままベッドの端で丸まっている寝着を取って渡してくれた。

 「三十分程度で来ると思う。君のその姿を他の男に見られるのは御免だ。パジャマでも何でもいいから服を着ておいてくれ」

 詩鶴ははっとして、一糸纏わぬ自分の姿を見下ろした。

 三十分。自分の身支度と来客の為の部屋の片付けにてる時間としては、決して充分ではない。

 甘い朝の名残りを掻き捨て、詩鶴は急いでベッドから飛び出した。


 とはいえほんの三十分程度で、夫の親と初対面を果たす心の準備など出来よう筈もない。ソワソワしながら、出来る限りの身支度と片付けに注力した。

 考えてみれば、基の父親が住所を忘れてくれていた事は詩鶴にとって幸運だった。家の場所がわかっていたら、抱き合っている真っ最中に突然訪問されていたかもしれない。そんな事になっていたら心の準備どころの騒ぎではなかった。よかったよかったと胸を撫で下ろしながらリビングの掃除機がけをしていると、インターフォンが鳴った。

 「来た!」

 「あぁ、いいよ。僕が出る」

 基はするりと詩鶴を追い越して、玄関に向かう。詩鶴も慌てて掃除機を片付けて、基の後を追った。

 

 鍵を開けるやいなや、勢いよくドアを引いて基の父親は飛び込んで来た。そのままガバっと基の首っ玉に抱きつく。

 「基!久しぶりだ。大きくなったな!」

 「大きさはここ十年近く変わってない。そもそも今、僕の姿をまともに見てなかったろ」

 基の父親の勢いに、詩鶴はぽかんとする。初対面の詩鶴から見ても、久々の息子との再会に昂揚しているのが一目でわかった。それに対して基は、抱きつかれたまま通常運転で淡々と対応している。

 「いや、大きくなったよ。見るよりこうした方がよくわかる。前会った時はもう少し薄っぺらかったぞ」

 「その記憶は正しいのか?前会ったのなんて五年も六年も前だろ」

 「大事な息子の体だぞ。忘れるもんか」

 ようやく体を離した基の父親は、基より少し背は低いが、均整の取れた体格のがっしりした人だった。ゆるく波打つ長い髪をぎゅっと後ろで一つに縛った、彫りの深い大作りな顔立ちの人だ。陽気で躍動的な性質が溢れんばかりに滲み出ていて、繊細な顔立ちで静の空気に包まれている基とは、あまり似ていない。

 基の父は少し離れた場所から二人を見守っていた詩鶴に気付くと、晴れやかな笑顔を浮かべる。

 「君が詩鶴さんか!」

 そう言うが早く、今度はぱっと詩鶴に近付き、同じようにぎゅうと抱き締める。

 「初めまして!僕のことはファーストネームで呼んでくれ。成世なるせというんだ。会えて嬉しいよ、詩鶴シヅル

 名前ファーストネームでの呼び捨て、挨拶代わりのハグ。いかにも海外暮らしが長い人の感覚だった。まさか自分まで抱擁されるとは思ってもみなかった純然たる日本人気質の詩鶴は、瞬時にがちんと固まる。

 「あっ…あの…」

 「即刻離れて貰おうか。ここは日本だ。挨拶代わりに抱擁する慣習はない」

 詩鶴が何か言うよりも早く、基が父親の頭頂部を鷲掴みにして引き剥がす。

 「詩鶴は僕の妻だ。父親だろうが挨拶だろうが気安く触られるのは不快だ。やめてくれ」

 「わ、わかった。すまない」

 雑に掴まれて乱れた髪を整えながら、成世は少年のように唇を尖らせる。

 「基は案外嫉妬深いんだな。詩鶴シヅル、大変だろう。こんな軽い挨拶にすら目くじら立てる、狭量な男と付き合うのは」

 そもそも基以外の男と抱擁を交わすような機会はない。詩鶴は特別困ってはいないが、成世は深い同情を寄せてくる。

 「い、いえ。そこはそれほどでも…」

 「そうか。さては詩鶴シヅルはアレだな、貞淑な妻というやつだな?」

 「そうだよ。詩鶴の貞操観念を見くびるな。夫である僕でさえついこの間まで──」

 「待って基さん。何の話をしようとしてるの?」

 詩鶴が慌てて腕を掴むと、基はふんと鼻を鳴らして詩鶴の肩を抱いた。成世に背を向ける形でくるりと詩鶴の体を反転させると、そのままリビングの方へ連行していく。

 「君もされるがままになってないで、突き飛ばすなり引っぱたくなりすればいい。僕にはセクハラだのなんだのとやかましく文句を付けてた癖に、随分不公平じゃないか」

 「何子供みたいなこと言ってんの。立場も状況も習慣も何もかも事情が違うでしょ」

 「お二人さん、お邪魔するよー」

 背中から成世の声がかかり、あっスリッパ出してない、と詩鶴ははっとしたが、成世は既に靴下のままで部屋に上がっていた。

 結局まともな挨拶を交わす事も出来ないままに、三人で遅めの朝食兼早めの昼食を囲む事になった。


          ♢♢♢

 

 とは言っても、手料理でもてなすような時間も材料もない。だが土曜の夜に作り置きを大量に仕込む詩鶴の習慣が幸いして、それなりの見映えになった。

 「白いごはんじゃつまらないかな。おにぎりにしようかな。基さん、おにぎりの具は何がいい?」

 「青菜と干し海老混ぜたやつ。詩鶴、おにぎりにするなら煮卵も食べたい。ある?」

 「うん、漬けてあるよ。待っててね」

 「悪いな」

 詩鶴と基のやり取りを、成世はにこにこして眺めている。

 「基が食べ物のリクエストするなんてな。昔は腹が膨れれば何食べても同じだとか言ってたのになぁ。大きくなったのはそのおかげか」

 「あぁ、そうかもな。大きくなったかどうかの真偽はわからないが、詩鶴と暮らし始めてから僕の生活は随分健康的になった」

 基の食生活は、詩鶴が来る前は散々なものだったらしい。時間は不規則、一日一食の日もざらで、内容もコンビニ弁当かインスタント、栄養機能食品の類で済ませていたという。そう言われて改めて見てみると、詩鶴の目から見ても、基はどことなく逞しくなった。元々体力維持の為にスポーツジムには通っていると言っていたからそのせいだと思っていたが、食事の影響もあったのか。料理をしっかり作るのはほとんど自分の食い意地の為だったが、意外と役に立ってたんだと詩鶴は嬉しくなる。

 「食べるために生きるな、生きるために食べよ。イギリスにはそんなことわざがあるよ。基にそれを教えてくれたのは詩鶴シヅルだな。父親として感謝するよ。そうだ詩鶴シヅル、今度は僕の手料理をご馳走させて貰えないか?今夜、古い友人達と会う約束をしてる。そこで僕が各地を回って覚えた料理を振る舞うんだ。良かったら皆で一緒に食事をしよう。基、車を出してくれるか?」

 成世は両手を広げて意気揚々と誘いかけた。

 成世の所作や語り口は、ひとつひとつがダイナミックで舞台俳優のようだった。それだけに、どこか人を惹きつけ有無もなく頷かせる引力のようなものがある。

 行っても、いいかな。そんな気持ちを込めて詩鶴が視線を送ると、基は薄く笑って肩を竦めた。それは了承の合図だった。

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