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6・鳴かぬ蛍が身を焦がす(3)

 蹴飛ばすように靴を脱いで家に上がる。急いでリビングに向かったけれど、明かりは点いていない。基はどこにいるんだろう。仕事部屋かな、と考えて、急ぎ足でそちらに向かった。

 「基さん、ただいま!」

 どんどんとドアを激しく叩くが、返事は返って来ない。まだ怒ってるんだろうか。でも、もういいや。入っちゃえ。自由に入っていいって言ってたし。

 詩鶴は勢いよくドアを開ける。だがそこに基の姿はなかった。

 どこに行ったんだろう。寝室で寝てる?それとももしかして、乃絵が言ったみたいに、愛想を尽かして出て行ってしまった?

 一転して不安になって立ち竦む詩鶴の背後から、声が掛かった。

 「おかえり、詩鶴」

 ぱっと振り向くと、基が濡れ髪に上半身裸のまま、後ろに立っていた。肩にはタオルが掛かっている。なんだ、お風呂に入っていただけか。詩鶴は胸を撫で下ろした。

 「どうした?すごい音がしてたけど」

 「基さん…」

 そこに佇む基の姿を見ただけで、詩鶴の目頭は潤んだ。ちゃんと、いた。基の家なんだから当たり前だけど、いた。おかえりと、そう言ってくれた。

 涙が零れそうになるのをぐっと堪える。また泣いてるのかと、言われてしまわないように。

 詩鶴は基の胸に飛び込んで、ぎゅっと抱きついた。基の肩からタオルが剥がれ、ぱさりと床に落ちる。

 「…なんか前にもあったな、こんなこと」

 基は詩鶴をやんわり抱き止めて、ぽんぽんと背中を叩いた。基の体から、清潔な石鹸の香りがする。まだほのかに湿っている素肌はしっとり温かく、詩鶴を安心させた。

 「…基さん、ごめんね」

 「何に対して?」

 「面倒臭いこと言って。二度目の結婚だってちゃんと知ってたのに、責めるようなこと言っちゃった。ずっと謝りたかったの。でも基さんが天照大御神になってたから、どうすればいいかわかんなくて」

 「ふん。よく知ってるじゃないか。旅行の予習の成果か?」

 基は詩鶴の頭を撫でる。

 基の大きな手。硬い骨の感触。繊細に動く指先。無知な子供をからかうみたいな憎まれ口をきいたって、詩鶴に触れるその手は、いつでも確かな慈しみを伝えてくれる。

 この人に拒まれたら、詩鶴は今度こそ立ち直れないかもしれない。この世のすべてを失ったような気持ちになるかもしれない。

 詩鶴は顔を上げて、両腕を基の首に回した。背伸びして無理矢理、唇を合わせる。いつも基がしてくれるのとは違う、子供じみたキスだけど、詩鶴にはそれが精一杯だ。

 「…ごめんね。ずっと、基さんに触られるの…嫌だった訳じゃないの」

 「そうか?その割に随分と頑なだったな」

 「うん。ごめん。何でそんな態度取っちゃうのか、自分でもずっとわからなかった。でもやっとわかったから、急いで帰ってきた」

 「…そんなに急がなくていいんだよ。僕は別に逃げない」

 基は眉を寄せて薄く笑い、ぼさぼさに乱れた詩鶴の髪を手櫛で直してくれる。その優しい手付きに、詩鶴の焦燥はふっとやわらいだ。

 「…私ね、基さんに触れられると駄目なの。…もっと触って欲しくなっちゃって、駄目なの。夫婦だからそうなったっていいんだって頭では思うんだけど、でも、怖かった。その…するのが怖いんじゃないの。基さんとそうなって、子供が出来るのが怖かったの。……子供が欲しくて始めた婚活だったのに、こんなの変だよね?」

 詩鶴が問い掛けても、基は答えない。黙って聞いているだけだ。動きのない静かな表情は、目を凝らしてみても何を思っているのかわからなかったけど、詩鶴の話を真面目に聞いていることだけはわかった。

 「子供は欲しいの。いつかは欲しい。その相手は今はもう、基さんしか考えられない。基さんと私と私達の子供と、みんなで毎日色んな話をして一緒にごはんを食べて、喧嘩もするだろうけど賑やかに、当たり前の日常を当たり前に一緒に過ごせたら…どんなに幸せだろうって、そう思う。でも──まだ、嫌なの」

 身勝手な願いだ。

 身勝手で欲深くて、そんな胸の内をさらけ出すのは、恥ずかしくて仕方がなかった。

 「私、もう少しの間、基さんと二人でいたい。もう少しだけ、二人きりで過ごしたいの。私達もう夫婦だけど、でも今はまだ、恋人みたいでいたいの。けど私達、子作りを始めたらすぐに二人きりではいられなくなっちゃうかもしれないから、それが怖くて逃げてた。でも」

 駄目だ。これ以上は、顔を見ては言えない。詩鶴はまた基の胸に額を当てて、ぎゅっと目を閉じた。


 「…好きなの。大好きなの。お願い。基さんの全部が、欲しい…」

 「──そうか。わかった」


 ぐっと胸から引き剥がされたと思ったら、すぐに唇を塞がれる。乱暴な訳じゃない、でもどこか荒々しくて、急き立てるようなキスだった。

 「んっ…」

 詩鶴の口から声が漏れる。羽織っていたカーディガンが腕から引き抜かれ、床に落ちる。ノースリーブのシャツの裾から入ってきた手が、下着の金具を外す。緩んだ下着の中の膨らみを基の手のひらが包んで、詩鶴は思わず身を竦めた。

 詩鶴が怯んでみせても、もう、基はやめない。首筋に触れる唇が熱い。その熱に当てられ、詩鶴の頭の中は一瞬で溶けてしまいそうになる。


 でも、それを望んでた。

 もっと溶かして。開いて。ほどいて。全部見て。全部見せて。全部満たして。私の中で、満ちて、いっぱいになって。


 「…言っただろ、詩鶴。僕にとって大事なのは、まだ見ぬ子より何より君だ。君がそう望むなら、僕の全てを君に差し出そう」

 唇を離した基が、耳元で囁く。息がかかる。熱に浮かされ過敏になった聴覚は、そんな僅かな刺激にもじんと痺れる

 「おいで、詩鶴。ベッドに行こう」

 おいでと誘っておいて、基は詩鶴が動くのを待たず、両腕で抱え上げて階段を上がっていく。詩鶴は必死で基の首にしがみついて、早鐘を打つ心臓を宥めていた。

 寝室のカーテンは少しだけ開いていて、隙間から月明かりが、細く差し込んでいた。

 詩鶴をベッドの縁に座らせてから、基はゆっくり丁寧に、乱れた着衣を剥いでいく。

 「──なぁ詩鶴。やっとだな」

 「……うん……」

 剥き出しになった詩鶴の素肌を撫でる基の手は、うやうやしく、と言うに足る繊細さと丁寧さで、焦らすように、詩鶴を高めていく。

 「君は知らないだろう。僕がどんなに君に焦がれていたか。どんなに君を求めていたか」

 鼓膜を震わす低い声。

 その声が、その手が、その唇が。その舌が。隙間を埋めていくように重なるその肌が、身体中に余すことなくしるしをつけて、詩鶴の中の渇いた部分をほとぼす。

 なのに心は裏腹に、渇いていく。彼を求めて渇いていく。

 お願い、早く。もっと──もっと。


 「──やっと全部、君に伝えられる」


 そう言ったきり、後はもう何も語らずに、基は深く、詩鶴の中に沈んでいった。


 ♢♢♢


 清々しく晴れた青空を映して、水面は冴え冴えとした青さをたたえる。まばゆく輝く海面から、注連縄しめなわで繋がれた大小一対の岩石が、厳かに頭を出していた。

 「おー、あれが有名な夫婦岩」

 観光ガイドで何度も見た景色を前に、詩鶴ははしゃいだ声を上げた。

 「夫婦円満の象徴だとさ。御利益にあずかれるといいな」

 強い陽射しに目を細める基に腰を抱かれて、詩鶴はえへへとはにかむように笑った。

 「伊勢神宮の中に子宝の神様もいるって聞いたよ。後でお参りしようね」

 「まだ早いんじゃなかったのか?」

 「欲しくなった時すぐ出来るようにお願いするの」

 「なるほど。人間らしい放埒な願い事だ」

 そう言って基は笑った。

 

 参道の片隅に座ってお目当ての松阪牛コロッケを頬張りながら、スマートフォンで明日のレンタカーの予約確認をする基の手元を覗き込んでいた。

 「明日は天岩戸を見に行くんだよね?」

 「うん。日本各地にある伝説にちなんだ場所のひとつってだけだけどな。志摩方面だから、道中君の食べたがってた海鮮も色々食べられるよ」

 「やったぁ!でも伊勢海老はもう旬が終わってるみたいなんだ。残念だよね」

 「また来ればいいよ。今は岩牡蠣が旬みたいだな。天然ものが食べられる店があるってさ」

 「ほんと?行きたい!食べてみたい」

 詩鶴の口元に付いたコロッケの衣を、基が笑いながら指で拭う。

 「花より団子だな、詩鶴」

 「そんなことないよ。私の花はちゃんとここにいるから、いいの」

 詩鶴はティッシュで口を拭きながら、基の手を取った。

 「言うようになったな」

 「基さんの影響かな」

 楽しかった。

 旅行という特別感を抜きにしても、ただ一緒にいるだけで、ためらいなく触れ合えるというだけで。好きという気持ちを押し込めなくていいというだけで、こんなにも気持ちが楽になるものかと、詩鶴は驚く。

 「でも良かった。基さんが旅行前に御機嫌直してくれて。不機嫌なままだったら、こんなに楽しめなかったもん」

 直前まで旅行どころではなかったけれど、結果的には前よりずっといい状態で旅に臨むことが出来た。乃絵と和歌にも感謝している。お土産は奮発しなければ。と、詩鶴がしみじみ幸運を噛み締めていると、基は何でもなさそうに肩を竦める。

 「別にあんなので不機嫌になったりしないよ。ただの嫉妬だろ?可愛いもんだ」

 「嘘。かつてないくらい怒ってたじゃん。二日も顔合わせてくれなかった癖に」

 「それはあれだ。いい機会かと思ってさ」

 平然とした顔でタブレットをポケットにしまう基の横顔を見て、はっとした。

 「……もしかして私、また騙されてた?」

 詩鶴は頬を引き攣らせた。

 最近めっきり甘やかされていたから、忘れていた。基はそもそも詐欺師のような真似が得意だったということを。

 「人聞きが悪いな。ただ最近の君の様子が、何ていうのかな。鳴かぬ蛍が身を焦がす、とでも言おうか」

 「鳴かぬ蛍?」

 「他の虫のように騒がしく鳴くことはないけど、蛍はその身体に身を焦がすような想いを抱えて光ってる。やかましく口に出すよりも、何も言わない方が心中の想いが痛切だって例えだ。君、ここ最近、僕に触れられると妙に大人しくなってたろ。でも以前より物欲しそうな顔してるし、まぁそういう事…もういいんだろうなとは思ってたよ。とはいえ僕ももう長らく待たされてる。今まで通り強引に迫って事を済ますだけじゃ、あまりに芸が無い。元彼の件が片付けば好きって言うとか言ってた癖に何も言って来ないし、僕としてはつまらないじゃないか。そろそろ素直に君の方から鳴いて貰おうかと、そう思ってさ」

 「……」

 「まぁ有体ありていに言えば、押して駄目なら引いてみろ、ってことだな」

 まんまと策略に嵌ったことを知った詩鶴は、もはや歯向かう気力もない。ただ肩を落として、深い深い溜息を吐いた。

 「君も難儀な性格してるよな。僕は元々、子作り抜きで君とセックスする事には肯定的だったじゃないか。そんなに思い悩まなくても、避妊しろと一言言ってくれりゃそれで済む話だ」

 「そんなこと一言で言える訳ないでしょ、基さんじゃあるまいし」

 真っ昼間の往来で涼しい顔して何を言うかと、詩鶴は顔を赤らめる。

 「でもまぁ、もう少しの間二人だけでいたいっていうのは、僕も同じ気持ちだな。ようやく君が身も心も僕に預けてくれたんだ。しばらくは独占していたい」

 …そっか。同じ気持ちなんだ。

 なら良かった。うん。良かった。詩鶴はそう安堵する。

 予約の確認を終え手持ち無沙汰になったのか、基は詩鶴の肩を抱いて髪をいじり始めた。詩鶴はされるがまま、それを放っておいて、道すがら買った食べ歩きの品々が入った袋から今度は磯揚げを取り出して齧り、もぐもぐと口を動かす。

 「私きっと、この先ずっと基さんの掌の上で転がされ続ける人生なんだわ」

 「何を言ってる?詩鶴、君に翻弄されているのは僕の方だ」

 胡散くさい笑みを浮かべて、基は勝手に、詩鶴の手の中の磯揚げにかぶりついた。大きな一口だった。

 「今日は早目に宿に向かおうか。露天風呂付きの部屋を取ったんだ。一緒に入ろう」

 「嫌。一緒にお風呂は恥ずかしい」

 肩を抱いて誘いかける基の腕から逃げるように、詩鶴は身を引いた。

 でも、わかってる。

 夜になれば、あの手この手で丸め込まれて、結局何もかも基の思い通りになってしまうんだ。いつもそう。どうせ今夜も、そうなるんだ。

 詩鶴は頬を膨らませて、残った磯揚げを口の中に詰め込んだ。

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