6・鳴かぬ蛍が身を焦がす(2)
渡された荷物の送り状を確認すると、基は詩鶴が問い詰める前にあっさりと答えた。
「元妻宛てだな」
「やっ…やっぱり⁈」
丁寧に梱包されたぴかぴかの段ボールには、誰もが知る高級ブランドバッグ店のロゴがプリントされている。
「なんで前の奥さん宛ての荷物がここに届くの⁈」
「僕にもわからない。前にも言ったと思うけど前妻とは別居婚だった。結婚していた当時からこっちに何か届くなんてことはなかったんだが」
取り乱す詩鶴とは大違い。基は淡々とした様子で荷物を床に置いた。
「まぁいい。このまま可燃ゴミに出そう」
「え?」
「何でここに届いたのか知らないけど、箱からしてバッグかなんかだろ。受け取る本人がいないんだ。捨てときゃいいよ」
心底興味無さそうに基が言うので、詩鶴はますます慌ててしまった。
「す…捨てるって、全く知らない人宛てに届いた荷物ならともかく、元奥さん宛てでしょ?勝手に捨てるってどうなの?」
「元妻と言っても既に他人だ。今どこに住んでるのかも知らない。大体何の連絡もなく他人の家に自分宛ての荷物を送りつけるなんて失礼じゃないか。こっちも相応に対応すればいい」
正論といえば正論ではあるが、一度は結婚までした相手に対して随分冷淡な対応ではないか。
「で、でも…ほら、このブランドのバッグなら何十万もするものだし、連絡くらいはしてあげてもいいんじゃ…何か深い事情があるのかもしれないし…」
「お人好しだな君は。別れた相手の家にハイブランドのバッグを送りつけるなんて、事情があったとしても碌なもんじゃないだろ」
うろたえながらも前妻を擁護する詩鶴に、基は呆れたように肩を竦めて嘆息した。
「まぁいい。君がそこまで言うなら、面倒だが情けを掛けてやろう」
自分の意見が聞き入れられた筈なのに、詩鶴は「えっ?」と声を上げる。
「奥さんに連絡するの?」
「僕の奥さんは君だ。その言い間違いは許容出来ない。ちゃんと元とか前を付けてくれ」
基はじろりと詩鶴を睨んで、スマートフォンを手に取った。
「本人にはしない。発送元のブランドに受取人が今はここにいないと連絡して返送するよ。それならそっちで対処するだろ」
「あ、なるほど…」
自分で連絡しろと言った癖に、基がそうしないことにほっと胸を撫で下ろした。基はスピーカー通話で話をする。詩鶴に聞かせるためにだろうか。
先方が言うには、今日届いた商品は二年近く前からの予約商品だったらしい。基の言ったように、返送すれば向こうで本人に現住所を確認して送り直してくれるとの事だった。
「時期的に離婚する直前くらいに予約した物だと思う。君に話したっけか。前妻は僕と別れる時にはもう他の相手がいたんだ。これが届く頃には自分の部屋を引き払ってその男と住むつもりだったんだろうが、まだ住所がわからないからとりあえずここに届くようにしたんだろう。そうすれば僕がこうして彼女の元に届くように対応をすると思ったんじゃないかな」
前妻も、まさか基が処分しようと言い出すとは思わなかったのだろう。詩鶴がいなければせっかくの計画も台無しになっているところだ。
それにしても、と詩鶴は深い溜息を吐く。
驚いた。
基に結婚歴があることを忘れていた訳じゃない。でも、正直言うとここ最近、ほとんど思い出す事はなくなっていた。
結婚には至らなかったのに元恋人の光稀の事で散々煩悶していた詩鶴と違って、あまりにも基が、その女の影を引き摺っていなかったから。それに基はいつも──
(後にも先にも私のことしか好きじゃないみたいに、言う)
それなのに、詩鶴よりも先に結婚した人がいたのだ。深い縁を結んだ人がいたのだ。それを目の当たりにして、詩鶴は一瞬で心を沈められてしまった。
「…なんて顔をしてる」
基は苦々しく眉を寄せて、両手で詩鶴の頬を包み、自分の方を向かせる。
「彼女との関係はとっくに清算されてる。君が不安に思うようなことは何もないよ」
優しくそう言って、またキスをする。瞼に、首筋に、唇に。優しく触れる基の唇。
詩鶴は木偶のように立ち竦んで、されるがまま、身を任せていた。
「───でも」
基が唇を離した瞬間に、詩鶴の口からぽろりとその言葉はこぼれた。
「その人にも、こんなふうにしたんでしょ?」
それどころかもっと深いところまで抱き合って。詩鶴がまだ知らない顔も、声も全部。見せたんでしょう?
息苦しい。濁った重たい感情が喉元までふつふつと迫り上がってきて、自分でも止められなかった。それを吐き出すように、基にぶつけた。
基は少し驚いたように目を見開いて、詩鶴から手を離した。
「…君が本当に僕の口からそれを聞きたいっていうのなら、答えるよ」
少ししてそう答えた基の声は、どこか冷たかった。詩鶴はぐっと詰まって黙り込む。
「……買い物、行ってくる」
ふいと踵を返して、詩鶴は逃げるように家を出た。
♢♢♢
「いやー…。詩鶴先輩、それはない。ないわ。言っちゃいけないやつですよ」
休み明けの仕事帰り、詩鶴は家に帰りたくないからと、乃絵と和歌をカフェに誘って帰宅時間を引き延ばしていた。
帰りたくない理由は、基だ。先の連休初めに生まれた亀裂は、休み明けの今日にもまだ埋まっていない。いつもは詩鶴が帰宅すると出迎えてくれる基が、顔を出さない。食事に呼んでも後でと言われ、別々に食べていた。
喧嘩の理由を話すと、乃絵は俄然、基を擁護し始めた。
「離婚歴があろうがなかろうが、この歳になれば過去の女がいるなんて普通のことじゃないですか。そんなこと気にするんだったら、最初っから恋愛経験ゼロの童貞探しゃあいいんです。自分だって初めてじゃないどころか長年付き合って結婚寸前までいった相手がいた癖に、他の女ともしたんでしょ?とかどの口が言うんだって話ですよ。婚姻届出したかどうかの違いだけでそんな責められちゃ、瀬尾さんだって気の毒でしょ」
ばっさり斬って捨てられ、詩鶴はたじろいだ。
「わ…わかってるよ。でも、ついポロっと」
「あんまりめんどくさい女感出してると、いい加減愛想つかされますよ?」
こてんぱんに叩きのめされてとどめを刺され、うっと詩鶴は言葉に詰まる。隣で聞いていた和歌が、「まぁまぁ」と乃絵を宥めた。
「それでどしたの?連休中ずっと気まずいまま?」
和歌に訊かれて、詩鶴は重々しく頷く。
「そう…。謝んなきゃって思ったけど、基さん、仕事部屋に篭っちゃって取り付く島もなくて」
三連休の残り二日間、同じ家にいてほとんど顔も合わせなかった。
「そこはもうドアの向こうでひとり宴を開催してでも引き摺り出して謝り倒すんですよ。明日から天岩戸方面行くんでしょ?先にそっちの岩戸こじ開けないと」
「こんな時に上手いこと言おうとしないで…」
がつがつ責めてくる乃絵に心を折られて、詩鶴はテーブルに突っ伏した。
「まぁでもさ。今まで気にならなかった元妻の存在が気になるってのは、いい事だよね」
「何がいいの?全然よくない」
ストローを咥えながらさらりとそう言う和歌を、詩鶴はテーブルに突っ伏したまま恨めしげな上目遣いで睨む。
「だってそれって嫉妬でしょ?とっくに終わった元奥さんのことで嫉妬するくらい、瀬尾さんのこと好きになったって事じゃん。最初は愛のない結婚だとか生活するのに差し障りなければそれでいいとか言ってたのに、旅行で浮かれたりやきもち妬いたり、完全に瀬尾さんに恋してるでしょう。いいことだよ」
ねぇ?と和歌は乃絵に同意を求める。乃絵もぶんぶん首を縦に振って頷いた。
「それはそう!お見合いで知り合った相手と相思相愛なんて、すごいラッキーじゃないですか。つまんない諍い起こしてないで、さっさと仲直りしてイチャイチャしてればいいんですよっ」
「…そりゃそうしたいよ、私だって…」
詩鶴は荒んだ気持ちで溜息を吐く。そう、詩鶴だって出来ることならそうしたい。でも。
「……基さん、前みたいにしてこないんだもん」
詩鶴がぼそっと呟くと、乃絵と和歌は顔を見合わせて首を傾げた。
「何をしてこないって?」
「…前は、私が嫌がっても拒んでも、無理矢理ベタベタしてきたのに。最近、ちょっと拒否しただけで、すぐやめる」
言い難そうな詩鶴の口調と赤らんだ顔で、詩鶴が何をしたいと思っているのかは、すぐに察せた。
「したいんなら拒否しなきゃいいじゃないですか」
乃絵はまたしても、呆れ顔で一刀両断する。
「拒否してるつもりはないの。でも気持ちはそうでも、体が固まっちゃうんだもん」
「したいのに?」
「う……うん」
したいのに。
他の女が知っていて詩鶴が知らない彼の姿があるなんて、耐えられない。
もっと触れたい。触れて欲しい。繋がりたい。全部見せて欲しい。全部、全部欲しい。そう思えば思うほど、どうしてか体は裏腹に、強張ってしまう。
だから基に、解いて欲しい。言うことを聞かない頑なな体を、溶かして欲しい。昨日の朝みたいに、強引に。
自分勝手だとわかっていても、そう願ってしまう。なのに最近の基は妙に物分かりが良くて、それで詩鶴は、燻った気持ちをただ持て余す羽目になる。
乃絵は「わからん」ときっぱりしたものだったが、和歌は「わからんでもない」と共感を示した。
「えー?なんでですか?相手は好きな人で、旦那さんですよ?何の問題があって抵抗するのかわかんない」
乃絵は口を尖らせて不満げな顔をする。
「好きな人で、旦那さんだからだよ。二人っきりでいちゃついてたらどうしてもエッチするかって流れになるじゃん。でも詩鶴達は〈vita〉のお墨付きでしょ?下手したら一発で子供出来ちゃう可能性もあるんだよ。そりゃ構えちゃうよ、普通より」
「───あっ…」
詩鶴は愕然とした。
そうか、と思った。和歌に言われて、霧が晴れるように理解できた。どうして基のことを素直に受け容れられないのか。自分の気持ちが、ようやくわかった。
「そっか、妊娠成功率最強カップルですもんね。でもそっかぁ。好きは好きでも、まだ彼の子供が欲しいとまでは思えないかぁ」
違う。いや、その通り。その通りだけど、少し違う。
詩鶴はガタンと椅子を鳴らして立ち上がり、鞄を掴んだ。
「──私、帰る」
「えっ」
二人は一様にびっくりした顔をした。
「誘っといてごめん。また連休明けに」
急くように財布から自分の代金を出して、テーブルの上に置く。
乃絵と和歌は、顔を見合わせて破顔した。詩鶴は駆け出さんばかりの勢いで席を立つ。
「楽しい旅を!」
大声で叫ぶ乃絵の声が、背中越しに聞こえた。
電車に乗っている時間がもどかしかった。少しでも早く家に帰りたい。早く会いたい。そう思って、駅からの道のりを目一杯走った。
信号待ちで夜空を仰げば、夜風がするすると、絡まったリボンを解くように雲を払う。金色に煌々と輝く上弦の月が、夜空にくっきりと浮かんでいるのが見えた。




