6・鳴かぬ蛍が身を焦がす(1)
春に入園した年少の園児達も新生活にだいぶ慣れ、慌しい日々が少し落ち着きを見せ始めた。五月の連休を前に、詩鶴は御機嫌である。
「瀬尾さんと一緒に旅行だっけ?どこ行くの?」
職員室で三人きりになった詩鶴と和歌と乃絵は、連休中の予定について話していた。
「伊勢。基さんが次の小説の舞台にするから、参考程度に見に行きたいんだって。いつもは一人でさらっと行って帰るらしいんだけど、たまには旅行がてら一緒に行こうって誘ってくれたの。二人で旅行するの初めてなんだよね」
詩鶴はにこにこしながら、日誌に今日の記録を書き込んでいる。
「嬉しそうにしちゃって。詩鶴先輩、最近すっかりデレ期ですよね」
「そ…そんなことないよ。普通だもん」
にやにや笑う乃絵に揶揄われ、詩鶴は慌てて唇を引き結ぶ。
「別に照れなくても。夫婦なんだしいいじゃないですか。仲良きことは美しき哉」
「ち、違う。最近お互い忙しかったし、ちょっとはゆっくり出来るかなって思っただけで…」
「ツンデレか。でもアレですね。結婚して何ヶ月も経ってるのにまだ清いままの関係に、終止符を打つチャンスですよね。いつもと違う土地、いつもと違う部屋で、いつもは瀬尾さんの隣でただただイビキかいて爆睡してた詩鶴先輩も、いつもと違う雰囲気に…」
「やめて、変なプレッシャーかけないで!いびきもかいてないもん!」
しどろもどろになる詩鶴を和歌と乃絵が笑う。そこに電話が鳴って、詩鶴は逃げるように真っ先に、受話器を取り上げ誤魔化した。
♢♢♢
最寄り駅に着くと、改札を出たところで基の姿を見つけた。
仕事で外出していたらしく、帰宅時間がちょうど同じくらいだから駅で待ち合わせて一緒に何か食べて帰ろうと連絡が来ていたのだ。
「基さん」
手を振って駆け寄る詩鶴に、俯いてタブレットを眺めていた基が顔を上げて口元だけで微笑む。
「おかえり、詩鶴」
そう言って詩鶴の腰に手を回した。基が日常的によくやるさりげない仕草だったのに、詩鶴はどきんとして身を強張らせる。
それを察したのか、基はすぐに手を離し、詩鶴を解放した。
「何が食べたい?」
「えっと…パスタかお寿司か焼肉かハンバーグかカレー」
「選択肢が多いな。僕はその中ならパスタがいい。駅向こうのイタリアンに行こう」
早口で候補を羅列する詩鶴の手を握って、基は歩き出す。
本当は、食べたい物はもう少し絞っていた。なのに基に触れられた瞬間に全部頭から飛んで、何でも良くなってしまった。
詩鶴を揶揄う為にわざとしているのもあるのだろうが、基は以前からスキンシップが多くて距離感の近い人だった。初めはいちいち焦っていたけれど、さすがに最近は慣れてきて、取り乱す事も少なくなっていた。
だが、行きつ戻りつ。
どうしてかこの頃、基に触れられた時の心の乱れが再発し始めてしまった。下手したら結婚当初より悪化しているかもしれない。
ただ、触れられて強張る身体の反応は同じでも、気持ちは違う。
以前は、心臓に悪い。やめて。
そう思っていた。
今は、心臓に悪い。けど、やめないで。
そう思っている。
詩鶴の気持ちを知らないでか、基は詩鶴がそういう反応を見せるとすぐに手を引く。前は詩鶴が拒めば拒むほど面白がって悪戯を仕掛けてきたように思うのだが、この頃はあっさりしたものだ。天邪鬼め、と思うけれど、詩鶴の心中を知らない基からすれば言い掛かりに等しいだろう。
ずっと引っ掛かっていた光稀のこともクリアになって平穏な日常に戻れると思っていたのに、これはどうしたものか。詩鶴は悩ましげに溜息を吐いた。
♢♢♢
連休直前、四月末にも祝日が絡む連休があった。その後一日は平日で仕事を挟むが、それを終えたら晴れてゴールデンウィーク。詩鶴はもうすっかり行楽気分に突入していた。タブレットで旅先の観光名所や名物を調べ、ランチに行きたい店も絞っていた。宿と現地で借りるレンタカーの手配は基がしてくれている。
今日は服でも買いに行こうかなと浮かれていた休日の朝に──事件は、起きた。
詩鶴の朝は早い。始業時間は早い方だし、朝食もゆっくりしっかり準備して食べないと落ち着かない。普段からの習慣で、休日でもそれなりに早起きだ。時間に捉われない自由業の基とは本来起床時間も合わない。
それでも基は、平日の朝は詩鶴に合わせて朝食の時間には起きてくる。家族になるなら食事くらいは一緒にしたいと言った詩鶴の希望を、叶えようとしてくれているのだと思う。けれど休日には詩鶴の気の緩みが伝染するのか、遅れて起きてくる事が多かった。詩鶴も無理には起こさないから、その日、基がリビングに姿を現したのは、九時過ぎのことだった。欠伸をしている基の前に朝食を並べながら、詩鶴は尋ねる。
「昨日も遅くまで仕事してたの?」
基は肯定も否定もせずに、眠たげに瞼を伏せたまま黙って口元だけで微笑む。多分、そうだという意味なんだろう。
ここのところ、基は忙しそうだった。普段なら詩鶴と一緒にベッドに入って、詩鶴が寝た後でもう一度起き上がって仕事をしている様子だったのが、仕事が残っているから先に寝ててくれと言われる事が増えて、朝も起きてこれない日が時々あった。旅行に行く為に無理してたりするのかなぁ、と詩鶴は心配になる。
基の仕事は年中無休だ。詩鶴のように土日祝日だからと休みになる訳ではない。その上仕事量は詩鶴以上に多い。たった二泊の事とは言え、書く手を止めるなら調整が大変なのかもしれない。
「眠かったらもっと寝てていいよ?仕事忙しいんでしょ?」
気遣いながら、冷たいコーヒーの入ったマグカップをテーブルに置いた。その腕を、基に掴まれる。
「君が一緒に寝てくれるなら、寝るよ」
基の手はするりと詩鶴の腕を離れ、項に触れる。詩鶴は例によってびくっと体を強張らせたが、基は気にしない。襟足から髪を掻き上げるように手を差し込んで、ぐっと詩鶴の頭を引き寄せる。少し強引に詩鶴を手懐けようとする、その手。
(──あ。今日は、やめないんだ)
そういうのは久しぶりだった。最近、基は詩鶴が少しでも拒否する素振りを見せると、すぐに手を引いていたから。強引に距離を縮めようとする基の手付きに、詩鶴は心のどこかで安堵していた。
「詩鶴。屈んで」
そう囁かれ、詩鶴はぎこちなく、言う通りにした。
顔と顔が近付いて、基の舌が詩鶴の唇の輪郭を確かめるようになぞる。緊張に固く結ばれた詩鶴の唇の隙間に柔らかく割って入り、宥めるように舌を絡め、内側を舐める。うぅ、と変な呻き声が口から零れそうになるのを、ぐっと堪えた。基の手のひらが服を捲って、素肌に直接触れる。背中に回されたその手には大して力がこもっていない。なのに詩鶴の身体を器用に誘導して、腑抜けになった詩鶴はその場にへたりと膝をついてしまう。
「…なぁ詩鶴。これからどうしようか」
椅子に座ったまま、いつのまにか詩鶴を見下ろしている基が耳元で囁く。訊かれているのが今日の予定なのかそれとも別のことなのか、基の与える熱に浮かされた詩鶴の頭では、わからない。
わからない。だから、全部、好きにして───。
そう口にしてしまいそうになった時に、ピンポーン、と、インターフォンが鳴った。
「──私、出るっ」
詩鶴ははっと我に返って、勢いよく立ち上がった。
慌ててモニターに駆け寄り応対すると、宅配便の配達員だった。詩鶴は急いで服を整えて、玄関に向かう。
(危なかった危なかった危なかった…!!)
頭の中はそれで一杯になる。けれどすぐに、はたと思い直した。
危なかったって、何。そもそも何がいけないの?
基は夫だ。出会った当初は期待していなかった愛情も、充分に与えて貰っていると感じる。詩鶴だって今ではもう、基の事が好きだと心から言えるこの状況で、体を重ねることに何の問題があるというのか。
いやでも、だって、と、ぐるぐる考え事をしながら荷物を受け取り、何の荷物かな意外と大きいな、と送り状に目を落とした。
「──ん?」
そこにはここの住所と、見慣れぬ名前が印字されている。
【瀬尾 美園 様】
「んんん……⁈」
これ以上無理というほど目を見開いて、詩鶴は宛名を凝視した。




