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5・ある日は蜂蜜、ある日は玉葱(9)

 「あのね、私結婚したの。半年ちょっと前に」

 「…うん。田宮から聞いたよ」

 光稀はふいと視線を逸らして、顔を歪めた。聞くのも辛いと滲み出るその顔に、詩鶴の胸はちくりと痛む。けれど避けて通れる話ではない。

 「光稀と別れて三ヶ月くらいの頃、マッチングサービスに登録したんだ。そこで一番最初にお見合いした人と、その場で結婚することに決めた」

 「……初回で、その場で?」

 光稀の顔が不安に曇る。大丈夫なのかそれは、と思っているのが、手に取るようにわかった。

 「うん。最初は断ろうと思ったんだ。その人と話してる内に、私には婚活はまだ早いかなって思ったし、なんかちょっと変わった人だったから」

 「変わった人…」

 光稀はますます不安そうに眉間に皺を寄せた。

 「その人に、お見合いの時言われたの。私はまだ、光稀を好きだった時の気持ちを忘れられてないって。光稀のこと、心に残してるって。…その通りだと思ったし、多分今もそう。でもそれじゃ困るの。私はもう、その人と生きていくって決めたから」

 基と結婚したのは、色んな偶然が重なった結果だと思う。でも今は自分の意志で、はっきり言える。

 結婚するなら、家族になるなら。一緒に生きていくなら、その相手はあなたがいい。今なら詩鶴も、基に向けてそう言える。

 「ねぇ光稀。私たちきっと、やり方を間違えた。あんな別れ方じゃ、私はこの先もずっと幸せになりきれない。だから今日、それをやり直したいの」

 光稀は俯いたまま、眉間に深い皺を寄せている。

 「……うん。わかった」

 俯いて瞬きを止めて、眉間に皺を寄せる。真剣に何かを考える時のその癖。変わってない。

 「間違えたのは俺だけだ。何でもする。どんな汚い言葉を使って責めてもいい。やり直そう。ちゃんと──今度こそちゃんと、詩鶴が幸せになれるやり方で、別れよう」

 何一つ無かったことには出来ないから、せめて。断罪を待つ被告人のように、光稀は厳粛に姿勢を正す。

 そうだ、こういう真面目な人だったなぁと、詩鶴は場もわきまえず、笑いそうになった。

 「…例えばの話ね。私の中に、好きな人を入れておく箱みたいなものが、あるとして…それはそんなに、大きくないの。大きければいっぺんに何人も受け入れられたり、何個も持ってる人もいるかもしれないけど、私は一個しかないし、きっちり一人分しか入らない。そこに光稀が欠片でも残ってると、次の人が全部入らないの。入らないのに無理に詰め込もうとして、パカパカ蓋が開いちゃうし、中がぱんぱんになるしで苦しいの。今の私は、そんな感じ。…わかる?」

 「…うん。多分」

 「あの時私、大嫌いって言ったよね。それは本心だった。でもね、私、ずっと光稀が好きだった。すごくすごく好きだった。何年も積み重ねて箱の中いっぱいに膨らんで、底の方の隅の隅まで詰まってた。たった一回の大嫌いは、それを壊すことは出来ても、完全に、綺麗さっぱり取り払うことは出来ないの。だから私に幸せになって欲しいなら、その欠片をまとめて持って行って。私の中にまだ残ってる、あなたを好きだったって気持ちを全部──丸ごと全部持って行って、その箱を明け渡して」


 詩鶴は鞄から小さな鍵を取り出して、光稀の前にそっと置いた。


 「──合鍵、ずっと返せなくてごめんね。送ろうかとも思ったんだけど…住所と名前、書くのも嫌だなんて言い訳してた。本当は、どうしたいのかわからなかっただけだった」

 捨てたいのか、知らないふりをしたいのか。どうしたいのかわかったのは、つい最近だ。

 「光稀のことが大好きだった。四年間、私を大事にしてくれてありがとう」

 そう言って、ちゃんと顔を見て、返したかった。

 詩鶴の話をじっくりと噛み締めるように、光稀は長い間、黙っていた。


 「──わかった。ひとつ残らず貰ってく」


 はっきりとそう言った後で、光稀は少し不安そうに声を落とした。

 「でも俺が貰ってしまったら、それは俺にとってはお守りみたいなものになってしまう。詩鶴はそれでいいの?」

 「いいよ。一度あげたものだもん。元々光稀に貰ったものだしね。自由に使っていいよ」

 「…そっか…」

 そう言うと光稀は、きつく締まった結び目をほどくように微笑んだ。


 「ありがとな、詩鶴」


 それは今日初めて見た、見慣れた光稀の微笑みだった。詩鶴が好きだった頃の光稀と、変わらない柔らかな微笑みだった。


 詩鶴は心から安堵する。


 これでようやく、光稀との恋が終わるんだ。




 帰り際、光稀が遠慮がちに打ち明けた。

 「俺さ。カナダに行こうと思うんだ」

 「カナダ?旅行?」

 「いや、向こうで働く。日本人が多い地区で歯科医院を開業してる友達がいて、医者が足りないから手伝ってくれって前から言われてたんだ。今までは実家を継ぐから無理だって言ってたんだけど、もう関係ないしな。行こうと思ってる」

 「そっかぁ…凄いね。海外で働くなんて素敵だね」

 「そう思う?」

 「うん。思う思う」

 「逃げるみたいで卑怯だって思わない?」

 「何で?そんなこと考えもしなかった。カナダって壮大な自然ってイメージだよね。光稀、アウトドア好きだから楽しいんじゃない?いいと思う」

 詩鶴が笑うと、光稀はほっとしたように口元を綻ばせた。

 「そっか。楽しみにしていいのか」

 「そうだよ。楽しみにしてればいいよ」

 そう、詩鶴は笑う。


 並んで店を出ると、ひゅうと冷たい風が頬を撫でた。初春といえど日が落ちればまだ冬の寒さが色濃く残る。風に乱れる髪を押さえながら、寒いね、と話した。

 「向こうはもっと寒いんだっけ?慣れるまで気をつけて過ごしてね。あっ、ごはんはちゃんと食べなよ?」

 「あぁ。ありがとう。詩鶴も体に気をつけて」

 「うん。ありがとう」

 じゃあ、元気で。

 どちらからともなくそう言い合って、別々の方向に歩き出す。


 詩鶴は歩いて二、三分の場所にあるコーヒーチェーン店に向かった。そこで基が、詩鶴を待ってくれているから。

 少し歩くと、ちょうど店の外に出てきた基の姿が目に入る。顔を見た瞬間、自分でも驚くほどほっとして、詩鶴は足早に彼の元に向かった。

 「おかえり、詩鶴」

 「…ただいま」

 駆け寄った詩鶴の顔を見て、基は軽く眉尻を上げる。小さく溜息を吐くと、詩鶴の肩に手を回し、自分の方へと引き寄せた。

 「また泣いてるのか」

 「泣いてないよ」

 「そう。じゃあこれは何だ?」

 詩鶴の頬に伝う涙を、基は指で拭った。

 「泣いてないもん。玉葱が目に沁みただけ」

 「そんなものどこにある?」

 「あるの。カフェにあったの」

 嘘じゃない。カフェの壁にはちゃんと玉葱があった。本物じゃなくて油絵だったけれど。

 子供のような言い逃れをする詩鶴に、基は「玉葱ね」と、笑みを漏らした。

 「ある日は蜂蜜、ある日は玉葱、だな」

 「…それはどういう意味?」

 「そのままさ。蜂蜜みたいに甘い日もあれば、玉葱みたいにからい日もある」

 「…そっか。今日は玉葱の日なんだね」

 基の背中に腕を回して、詩鶴はその胸に額を押し付けた。服でこっそり涙を拭くけれど、どうしよう。このままじゃ基の服をびしょ濡れにしてしまうかもしれない。けれど基は気にもせず、ぎゅうと詩鶴を抱き締めてくれた。

 「お疲れさん。家に帰ったら嫌ってくらい、蜂蜜をあげよう」

 「…うん。ありがとう」

 基のくれる蜂蜜は、本当に嫌ってくらい甘いんだろうな。

 基の胸の中で、詩鶴はこっそり、小さく笑った。




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