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1.走り回る犬は骨を見つける(3)

 耳を澄ませばカコーンとししおどしの鳴る音が聴こえてくる、いかにも高級そうな和風料亭。そんな店に入るのは、生まれて初めてだった。

 そこで詩鶴は、約二週間ぶりに会う光稀の口から、思いもよらないその言葉を聞いたのだった。

 「え…?」

 耳を疑うとはこういうことを言うんだろう。頭に届いたのは音だけで、言葉の意味をまるで理解出来なかった。

 個室の座敷席、斜め前の席で正座している光稀を、詩鶴は瞬きもせず見詰める。でも光稀は視線を合わせようとしない。膝の上に置いた両手の拳に視線を落とし、じっと俯いていた。

 「……今、何て?」

 「貴女とは結婚出来ないと、息子はそう言いました」

 問い掛けた詩鶴に答えたのは、光稀本人ではなくその隣、詩鶴の正面に座る光稀の母親だった。

 詩鶴はぎこちなく首を動かして、光稀の母に視線を移す。

 「えぇと…それは、どういう…」

 「そのままの意味です。光稀は貴女と結婚しません」

 「…どうして」

 「貴女が澤田家に相応しくないから」

 光稀の母の冷たい声に、詩鶴はひゅっと息を呑んだ。


 光稀の母に会うのは、これが初めてだった。

 都内の歯科医院に務める光稀が、代々続く医者の家の長子だということは、以前から聞いていた。地元の四国のある都市で両親が大きな総合病院を経営していて、いずれは光稀が継がなければいけないということも。

 真面目に付き合っているのだから、一度は家族に挨拶したい。詩鶴は常々そう思っていた。実際詩鶴の実家には光稀は早い段階で挨拶に来てくれていて、両親と一緒に食事をしたり、泊まっていったことも何度かあった。けれど光稀は、遠いからとか両親とも忙しい人達だからと理由をつけて、自分自身もあまり実家に帰ろうとしなかった。詩鶴から行きたいと強く希望するのも迷惑だろうと遠慮していて、これまで機会がなかったのだ。

 けれど、結婚となるとそうも言っていられない。挨拶に行きたいと言った詩鶴に、光稀は「親が仕事で都内に来ることがあるから、その時に顔合わせしよう」と告げた。

 そしてこの日、初めて会った目の前にいる光稀の母は、光稀とどことなく似た面差しに冷たい色を浮かべ、小馬鹿にしたような視線を詩鶴に浴びせている。

 「…相応しくないというのは…家柄とか…職業とか…そういう意味ですか?」

 蛇に睨まれた蛙は、こんな気分なんだろうか。詩鶴は心身ともに、ぎゅっと縮こまっていた。それを無理矢理奮い立たせて、顔を上げて光稀の母に問う。

 「貴女の家柄なんてどうでもいいの。問題は子供。貴女と光稀の妊娠成功率の問題ね」

 光稀の母は日本酒の入った徳利を傾けながら、つまらなそうにそう言った。

 「恋人として楽しむだけならどうでもいいし、誰でもいいの。でも光稀が結婚するって言い出したから、調べさせて貰ったわ。貴女の遺伝子」

 「……遺伝子?」

 詩鶴はぽかんとして、思わず間の抜けた声を出した。

 「そう。貴女と光稀の遺伝子、相性が悪いみたいでね。二人とも生殖機能に問題はないのに、この組み合わせだと非常に子供が出来難いらしいのよ。毎日子作りに励んでも十年に一回妊娠するかしないかくらいの低確率なんですって」

 「…な…なんでそんな…ど…」

 遺伝子を調べるなんて、どうやって。どうして?

 訊きたかったけれど、混乱して上手く言葉が出てこなかった。

 細胞を採った…遺伝子を、盗った?

 どうやって、いつのまに?

 「そんな大した事はしてないわ。お金と人脈があれば、何でも簡単に出来るっていうだけよ」

 詩鶴の心の内を読んだように、光稀の母はにっこりと笑った。

 「光稀はうちの唯一の跡取りだし、お嫁さんには必ず子供を産んで貰わないと困るの。だからちょっと人を雇って、貴女の細胞こっそり採ってきて貰ったわ。正解だったわね。嫁なんて子供さえ産めればどんな女でもいいと思ってたけど、まさかそんなに相性悪い子わざわざ選んでくると思わなかったもの。子供がちゃんと産めるかどうか事前に調べられるなんて、便利な世の中になったものよねぇ。いい機会だし、光稀のお嫁さんはもう私の方で決めてしまったわ。この子ももう三十過ぎだしねぇ。最近よくニュースでやってる、なんだったかしら…その便利な、子作り用のお見合いサービス?それで、妊娠しやすいお相手見つけて」

 ふふっと笑った光稀の母の不敵な微笑みに、詩鶴の全身からざっと血の気が引いた。

 すがるような気持ちで、光稀に向き直った。

 「光稀」

 お願い、何か。

 何か言って。

 何でもいい、この母親(ひと)の行為を、否定する言葉を。

 言って。


 だが光稀は俯いたきり、唇を引き結んで何も語らなかった。

 呆然としている詩鶴の前に、光稀の母は鞄から分厚い封筒を取り出して、すっとテーブルの上に置いた。

 「うちの息子がが気安く結婚の約束をしてしまって、ごめんなさいね。これはそのお詫びの気持ち。受け取って」

 これは映画かドラマか、それともつまらない芝居か。どこか自分とは遠く離れた場所で起こっている出来事を眺めるような気持ちで、詩鶴はその分厚い封筒を見つめた。

 「籍を入れる前で良かったわ。お話はこれだけ、おしまい。私はお先に失礼するわ。折角東京に来たからいっぱいお買い物したいの」

 それじゃあね、と明るく手を振った跡、光稀の母はいそいそと、ご機嫌な足取りで襖を開け部屋から出て行った。

 この部屋の空気を動かしていた光稀の母の気配が消えると、途端に重い沈黙が立ち込めた。


 「──光稀」


 どれだけ時間が経ったかわからない。

 長い沈黙の後に詩鶴が声を発すると、光稀はびくっと大きく肩を震わせた。

 「光稀。お願い、何か言って」

 初対面の母親に何を言われても、信じられない。光稀が詩鶴との関係を、すぐそこにあるはずの将来の約束を、なかったことにしようとしてるなんて思えなかった。

 

 好きだった。


 少し人見知りで、照れ屋で。不器用なくらい真面目で、ちょっと優柔不断で、気の利いた事も言えなくて。でも優しくて、いつでも詩鶴の話を真摯に聞いてくれて、疲れたと弱音を吐けば、下手な手料理や甘い菓子を出して労わってくれた。

 出会ってから今日までの四年もの間、目一杯、光稀の事が好きだった。


 それは光稀も同じだと、信じていた。

 信じていたのに。


 「ごめん」

 光稀はそれだけ言って、正座をしたまま畳に両掌と額を着けた。それはいわゆる土下座の姿勢だったけれど、詩鶴には、ただうずくまって震えているように見えた。


 「ごめん。詩鶴──ごめんな」

 

 ここ二週間、光稀とはあまり連絡が取れなかった。

 歯科医院に勤める光稀は、比較的勤務時間が安定している。忙しい時期でも、深夜に及ぶような残業はない。お互い家も遠くはないから週に二、三回会うのは難しくなかったし、光稀は律儀な性格で、会えない日でも電話やメッセージの遣り取りを怠らなかった。それがここ数日、ふつりと連絡が途絶え、詩鶴からの電話にもメッセージにも最低限の応対しかなかった。

 心配する詩鶴に光稀は仕事でトラブルがあって、と説明していたが、本当はこの件で忙しかったのだろう。

 光稀が親の経営する病院を将来的に継ぐ予定だということは、詩鶴も承知していた。今の仕事は楽しかったし、やり甲斐も感じている。結婚したら詩鶴も退職してそちらに移住する事にはなるけれど、幼稚園や保育園はどこにでもある。万年人手不足の業界だから、再就職は出来るはずだ。

 実家で親と同居するつもりはないし、自分の家業のことは気にせず、詩鶴の望む形で仕事を続けてくれていい。光稀はそう言っていたし、場所が変わっても同じ仕事を続けられるのであれば、ついて行きたいと思った。そう、話していたのに。

 「…どうして?」

 ぼんやりと問い掛けた詩鶴に、光稀は長い沈黙の後、絞り出すように言った。

 「───子供、が」


 『お嫁さんには必ず子供を産んで貰わないと困るのよ』

 光稀の母の声が、頭の中で再生された。


 わかる。

 四年も付き合っていたから、この先住む土地が変わってもずっと一緒にいようと思ったくらい、好きだったから、わかる。

 光稀は冗談や気の迷いで、こんな事しない。

 詩鶴の知らないところで一人、何日も、悩んで悩んで悩み抜いて、出した結論なのだろう。


 一人で勝手に、結論を出したんだ。

 別れよう、と。


 詩鶴はテーブルに置かれていた封筒を手に取ると、思いきり力を込めて、光稀に向かって投げ付けた。

 それはぱしっと乾いた音を立てて光稀の肩に当たり、畳の上に紙幣が散らばった。


 「────大っ嫌い」


 涙の代わりに、詩鶴の口からその言葉が飛び出した。俯いた光稀が苦しげに顔を歪めるのが、目の端に映る。それが一層、詩鶴の怒りを掻き立てた。どうしてそんな顔をするの。自分が選んだくせに。自分で別れることを決めたくせに。薬指に嵌めていた指輪を引きちぎるように指から外し、それも力一杯、光稀に向けて放り投げた。

 指輪は光稀を通り越してその向こうの壁にかつんと当たり、畳の上に、音もなく落ちた。

 


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