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5・ある日は蜂蜜、ある日は玉葱(8)

 壁にかかった一枚の油絵。

 かごに山盛りになった玉葱の横に、ころんとひとつふたつ転がっている、何気ない静物画だ。

 それを詩鶴は、懐かしい気持ちで眺めていた。

 去年の今頃、このカフェによく来ていた。光稀の勤める歯科クリニックの最寄り駅近く。ここで彼が仕事を終えるのを待って、一緒にどちらかの家に向かう。詩鶴と光稀の家のちょうど中間地点にあったから、どちらに行くにもこの店は便利だった。

 からんと鳴ったドアベルが来客を知らせる。約束の時間二分前。

 詩鶴は顔を上げなかった。見なくてもわかる。待ち合わせだと店員に伝える、耳慣れた声。その人は真っ直ぐに詩鶴の席に向かい、椅子を引く。


 「──久しぶり」


 少し歪んだ笑顔を浮かべた光稀は、確かに以前よりやつれていた。だけど短めにカットされた明るい色の髪やピンとしたスーツ姿は、さほど変わらない。

 

 「うん──光稀、少し痩せたね」

 「そうかな」

 「でも想像してた程ひどくない。今にも死にそうって聞いてたから」

 詩鶴が冗談めかしてそう言うと、光稀は困ったように笑う。

 「…慌てて整えてきたんだよ。久しぶりに詩鶴に会うから」

 何から話そう。

 ちゃんと考えてあった気がするのに、顔を合わせなら頭の中が煙がかってわからなくなった。黙り込んだ詩鶴より先に、光稀が切り出す。

 「──関口さんのこと、ごめんな。彼女が詩鶴との事を調べて会いに行くなんて、思ってもみなかった」

 関口については、一通り電話で話していた。

 彼女から聞いたことも彼女が何の為に詩鶴に会いに来たのかも、すべて話した。何も知らなかった光稀は驚き戸惑い、電話口の向こうで言葉を失っていた。

 「うん。それも関口さんから聞いてた。あの人、すごく光稀の事が好きなんだね。光稀の為にって何回も言ってたよ」

 「…彼女との婚約は、正式に解消したんだ」

 そうか、彼女の恋も叶わなかったのか──そう、詩鶴は思った。光稀は店員が届けた温かいコーヒーにミルクを垂らす。綺麗な琥珀色と乳白色がじわりと混ざり複雑な模様を描くその様を、じっと眺めていた。

 「…大変だったんじゃないの?」

 「いや…彼女の両親には正直に話して頭下げて…マンションは要らないって本人が言うから、代わりに慰謝料払って手打ちにして貰った。彼女は…自分も最初から全部知ってて婚約した、自分が悪いって口添えしてくれて…正直、思った程大変じゃなかった」

 「そう…」

 淡々と話しているが、相当な労力を費やした筈だ。関口はともかく、その両親からしたらとんでもない悪人に思えただろう。殴られてもおかしくないくらいだけど、例えそうだとしても、光稀は抗うどころか頬でも腹でも差し出してしまいそうな気がする。

 「関口さんの事もだけど、光稀のご両親も。そう簡単に諦めそうな感じじゃなかったから」

 「うちの親には、絶縁状渡して二度と俺に関わらないでくれって言った」

 え、と詩鶴は目を丸くする。

 「実家の病院も継がない。両親とは二度と会わないつもりだ」

 「…それこそ簡単じゃないでしょ?」

 あの毒気の強い母親の顔を思い出して、詩鶴は思わず苦々しく頬を歪める。光稀は自嘲気味に首を振った。

 「親は、脅した」

 「え?」

 「脅したんだ。母親は代々続くあの土地の有力者の娘で、その地域で一番大きな病院のオーナーだ。うちの家系は地位は盤石ばんじゃくだけど、人に言えないような汚い事を祖父母の代から山程してきてる。父親だってただの駒みたいなもんだ。生まれた頃から見てきてるんだから、探られて痛い腹はどこかちゃんと知ってる。改めて証拠を揃えて、俺の希望を受け入れないなら全部耳揃えて然るべきところに持ち込むって、脅したんだ。…あっさりしたもんだったよ。息子との縁より、自分達の今の生活を維持することを選んだ」

 詩鶴は唖然として、言葉を失った。

 詩鶴の知る光稀は、そんな闘い方を知ってる人ではなかった。不器用で真っ直ぐで、優し過ぎていつも損をしているような、そんな人だったのに。

 「…もっと早くこうすれば良かったって、後悔してるよ」

 光稀はテーブルの上に置いた手を、血管が浮く程きつく握り締めた。

 「俺たちの間に子供が出来ないかもしれないって話を聞いた時、真っ先に詩鶴の顔が浮かんだ。子供が出来ないって泣いてる詩鶴の顔が一番に浮かんで、それで頭が一杯になった。どうしようもないくらい動揺してたんだ。自分の親の非常識で汚い手口にもぞっとした。こんな家に詩鶴を関わらせたくないとも思った。俺といたら、詩鶴はこれから先一生苦しむ。だから最後に詩鶴に思いきり嫌われて、終わりにしようと思ったんだ。親の言いなりになって恋人を捨てる屑みたいな男になって、そんな男は早く忘れて他の人と幸せになってくれればいいと、そう思った──それで詩鶴はもっといい男を見つけて幸せになって、その誰かと理想の家庭を作って、ずっと笑っていられる筈だって──その時の俺は思ってた」

 馬鹿だなぁ、と詩鶴は思った。思ったままに、口にした。

 「馬鹿だなぁ。そんなこと、できる訳がないでしょう」

 「そうだな。何て馬鹿だったんだろうって、今でもずっと悔やんでる」

 会ってからずっと、光稀は苦しそうな顔をしている。それは詩鶴に会ったからではなくて、別れてから今日まで、ずっとこんな顔で過ごしているのかもしれない。そしてそのまま染み付いてしまったのかもしれない、と詩鶴は思った。

 「詩鶴のことが好きだった。君も俺のことを好きだと言ってくれていた。こんな事は人生で一度きりの奇跡だろうって、ずっとそう思ってたし、今でもそう思う」

 「相変わらず、こっちが恥ずかしくなるくらいロマンチストだね」

 詩鶴は眉を寄せて苦笑いした。揶揄われて、光稀はようやく強張った顔をほんの少しだけ緩めた。

 「…ずっと後悔してるよ。あんな別れ方を選んだこと」

 「うん。私もしてる。あの時最後に大っ嫌いって言ったこと。だから、今日…」

 詩鶴は俯いて、ほんの少しだけ微笑んだ。


 「──やり直そうと思って、来たの」

 

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