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5・ある日は蜂蜜、ある日は玉葱(7)

 あの物語には、初め別の結末を用意していたと基は言う。

 「夜の治療薬は間に合わなかった。彼が島へ戻った時、そこには既に生者は一人も残っていなかった。村は廃村と化していて、悲嘆にくれながら夜は研究所に戻る。間に合わなかった理由をマーネとの恋に溺れたせいだと思い込み、マーネも研究者の仕事も捨てて一人孤独な余生を送る、ってものだった」

 「そ…そうなんだ。それはまた随分悲惨な…」

 今のラストですら充分悲恋で切ないのに、と詩鶴は驚く。ベッドの縁に座ったままの基は、寝そべった詩鶴を見下ろして薄く笑った。

 「当時は僕もまだ若かった。人生の辛苦や人間のごうを徹底的に描く方が、高尚だと思ってたんだろうな。けど当時の担当編集に言われたんだ。このラストのまま出版するか別の結末に書き替えるかで、僕の作家人生は決まるだろうって」

 「作家人生…」

 「端的に言えば、売れる作家になるか売れない作家になるかの選択だ。作家ってのは、売れなきゃ本当に金にならない商売だ。バイトなり会社員なり、二足の草鞋わらじを履きでもしないと生活出来ない。僕は前者を選んだ。この仕事だけで生きていきたかったから」

 基はその頃を思い出したのか、どこか儚い目をして詩鶴の頭を撫でた。

 「結果的には編集が正しかった。あの本は売れた。タイトルを変えてアニメ化して、海外の格式高い映画祭でアニメーション部門の最優秀賞を獲った」

 「……あっ。もしかして『ヨルの旅』⁈」

 ヨルとマーネ。なんとなく聞き覚えのある名前だと、読んでいる間にも思っていた。三、四年前にかなり話題になって、詩鶴は観ていなかったが、園児達の口から度々聞かされていた。

 「そう。原作よりもずっと低年齢層向けだったから、粗筋あらすじもいじってあるし結末は完全に別物だ。夜は凪の家族を全員救って島民にも感謝され、マーネを島に呼び寄せて一生幸せに暮らしたんだ。非の打ち所のないハッピーエンドだろ?」

 「そうだったんだぁ…」

 ひとつの物語にいくつもの結末が存在していたと知り、詩鶴ははぁ、と感嘆の溜息を吐いた。

 「けどその時の僕は、自分を恥じた。売れる為に大衆におもねり、自分も読者も騙したと思った。正しいと信じて書いた自分の物語に泥を塗ったと、そう思ったよ」

 「え…そ、そんな事ないでしょ?最初に考えてたのと終わりが違ったって、基さんが書いたことには変わりないんだし…」

 詩鶴には基の深い思慮を理解することが出来なかったけれど、少なくともあの物語は、切ないけれど美しかった。恥じる事など何もないように、詩鶴には思える。辿々《たどたど》しくそういう趣旨のことを伝えると、基は淡く微笑んで、詩鶴の手を握った。

 「そうか。君がそう感じるのなら、あれはあれで良かったんだろう」

 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、基はしばらくの間、黙った。

 「…君に初めて会った時、夜のことを思い出した」

 夜のこと。まるで昔の友人を懐かしむように、基はその名前を口にした。

 「いたずらに踏みにじられて、それでも腐ることなく自分の役割をまっとうし──希望なんて粉々に砕けただろうに、愚直にその欠片かけらを拾い集めて、また輝かせようと必死になってた。…もし君があの時の僕だったなら、夜とマーネにどんな結末を用意するんだろう。もし君が夜だったら、何を選んで何を捨てるんだろう。そんなことを、僕はあの時、ずっと考えていた」

 詩鶴は泣きそうになりながら、体を起こして基の傍に正座した。

 「私…私、そんな、立派なものじゃないよ」

 何でそんなに大事にしてくれるのかわからない、と細井に話したことを思い出す。基がそんなふうに、自分が生み出した大切なものと詩鶴を重ねていたなんて、思いもしなかった。

 初めて基の心の奥深くに触れたような気がして、詩鶴は胸を詰まらせる。

 「わかってる。そんなのはみんな同じだ。君も僕も、夜もマーネも」

 わかってる、と、基はそう言うけれど。

 そんなんじゃない。基が思うよりずっと──

 「…私はもっと、ずっと弱い。あの日から…関口さんに会ったあの日から、何度も夢を見るの。私のせいで光稀が死んじゃう夢。そんなこと現実に起こらないってわかってる。なのに、すごく苦しいの。苦しくて、怖くて、別れてすぐに他の人と結婚することを選んだ私がいけなかったのかもしれないって、考えちゃうの」

 「大層な呪いをかけられたな、詩鶴」

 縋るように基の膝を掴んだ詩鶴を、基は優しく抱き締めた。

 「本当はその呪い、僕がいてやりたかった。けど、そう出来るものじゃないみたいだ」

 「…関口さんの言ったこと、理不尽だと思うけど、当たってた。私、ずっと楽しかった。基さんと出会ってからずっと、楽しかったの。光稀との事なんかこのまま忘れて、ずっと基さんと幸せな夫婦を続けられると思ってた。私と別れた後、光稀がどんなふうに過ごしてるかなんて考えもしなかった──考えないようにしてたの。…でも今は、基さんとの毎日が楽しければ楽しいほど、基さんが優しければ優しいほど、辛くなる。私ばっかり普通で、幸せでいていいのかって、苦しくなる。こんなこと言ってごめんね──基さんは何も悪くないのに。私を大事にしてくれたこと、いつでも尊重してくれたこと、感謝してる。ありがとう」

 身勝手なことを言っていると、自分でも思った。それでも詩鶴を抱く基の腕は、どこまでも優しかった。

 「…まるで別れの言葉だな、詩鶴」

 耳元で基の低い声が聞こえる。詩鶴の涙が、基の肩を濡らした。

 「話してくれ。君はどうしたい?」

 詩鶴は基の腕から離れて、袖でぐっと涙を拭った。真っ直ぐに基に向き合い、深く頭を下げる。


 「基さん、ごめんなさい。──私、光稀のところに行きます」


 全てわかっていたかのような静かな微笑みをたたえて、基は黙って頷いた。

 


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