5・ある日は蜂蜜、ある日は玉葱(6)
「帰れなくなりそうだ」
基から電話があったのは、授賞式の当日、夜の七時過ぎだった。
「うん、そうかと思ってた。札幌、夕方から急に雪ひどくなってきたってさっきからニュースでやってるから」
普段はあまり食事中にTVを点けない詩鶴だが、久々の一人の食卓に手持ち無沙汰だったのと基のいる札幌の天候が気になったのとで、さっきまでニュースを流していた。基が乗る予定だった最終便は、案の定、欠航になるらしい。
「泊まるところはあるの?大丈夫?」
「あぁ、スタッフがすぐホテルを手配してくれたから問題ないよ。それより君の方が心配だ。一人で大丈夫か?」
「大袈裟だなぁ。私、何年もひとり暮らししてた大人だよ?もう家に帰ってるし後は寝るだけだもん。心配いらないよ」
詩鶴は努めて明るく笑うが、基が心配しているのはその睡眠の部分なのだとわかっている。
「明日は君も休みだろ?雪も深夜には止むって予報だし、なるべく早く帰るようにするから。いい子で待っててくれよ」
「うん、大丈夫。基さんこそ気を付けて。お仕事頑張ってね」
通話を終えた後、詩鶴は一人、テーブルに突っ伏した。ははっと乾いた笑いが漏れる。
随分品行方正な会話だ。誰に聞かれても恥ずかしくない、仲睦まじい夫婦の会話。
(私たち、前からこんなんだったかなぁ)
いや、何か違う。少し前までは、人に聞かれたら馬鹿馬鹿しいとさえ思われそうな、取るに足らない遣り取りばかりしていた。触れたくない部分をお互いに避けていると、会話というのはこうも小綺麗に纏まるものかと驚く。基の気遣いが上辺だけのものでないとわかるだけに、余計に複雑な気持ちになってしまう。
夜中に目覚めそのまま眠れずにいる詩鶴に、基が気付くことが何度かあった。その度に抱き締めて、背中を撫でてくれた。その温かさは詩鶴を安心させたけれど、同時に関口の言葉を思い出させた。
『いいですね。代わりに守ってくれる人を、いくらでも見つけられる人は』
別に自分が悪いことをしているとは思わない。思わないけど──…。
(……駄目だ。考えるの、やめよう)
詩鶴は軽く頭を振って、えいっと席を立った。
本来、今日は基は帰って来ない予定だった。滅多にない一人の夜に、やろうと思っていた事があったのだ。詩鶴は二階の自室に入り、本棚代わりにしているシェルフから一冊の文庫本を引き抜く。
一緒に書店に言った時に買った、基の書いた小説だ。読もう読もうと思っていて、すっかりタイミングを失っていた。どうせ眠れないなら、じっくり読むのにはむしろちょうどいい。明日は休みだし、いっそ夜更かししてやりたい事をやるんだ。戴き物の美味しいお茶を淹れてお菓子も用意して、思いきりのんびりしてやるんだ。
ベッドのサイドテーブルにお茶やお菓子を広げて、準備万端でページを開いた。
『僕の名前は夜という。たった一人の子供にどうしてこんな名前を付けたのか、その感性を僕は理解出来ない。夜は暗い。月明かりがなければ歩く事もままならない。
悪人、亡霊、魑魅魍魎、およそ人が恐れるものは、すべからく夜に跋扈して、陽の下で輝いていたものを覆い隠す。こんな憂鬱なものの名前を、何を思って我が子に授けたのか。幼い頃からずっと、疑問に思っていた』
そんな一文から物語は始まる。
『確かめようにも名付けた親は既に亡い。僕を産んだ母親は五年前に亡くなった。父親はどこの誰かもわからない。人口百人にも満たない小さなこの島で、僕の父親を知っているのは、死んだ母親だけだった』
夜が住むのは絶海の孤島。閉鎖的な小さな世界だ。住人はみんな遠い親戚のようなもので、同じような明るい色の髪と緑がかった瞳をしている。夜だけが真っ黒な髪に真っ黒な目。どう見てもこの島の民以外の血が混ざっていた。時折島を訪れる商人だろうか、それとも本国から来ては去っていく研究者の内の一人だろうか──夜の父親についてそう島民が噂するのを、何度か耳にした。
島民以外との混血が禁忌である訳ではない。だが異端ではあった。無遠慮にぶつけられる差別と侮蔑。内気な母親はひたすら耐え忍び、孤独の中で死んでいった。だが夜には一人だけ、友人と呼べる理解者がいた。島で唯一の病院を営む家庭の子供で、夜と同い年の凪という少年だった。その両親も、夜に良くしてくれた。彼の両親は島外で医学を学んで故郷に戻った医師と看護師だったので、多様性に柔軟だったのだ。ここが生き辛ければ知恵を身につけ外の世界へ出るといいと、夜に向かってよく言った。書物を与え、勉学を教えた。
ちょうど夜の母親が死んだ頃、島で疫病が流行り始めた。ある日突然身体に黒い斑点が出来て、一年から数年をかけてじわじわと広がる。他に身体的症状はない。だが最終的に全身を黒斑が覆って頭の先から爪先まで真っ黒になった時、患者は苦しみもせず唐突に、心臓の動きを止める。そしてそのまま還らぬ人となるのだ。
島は大騒ぎになった。島外の医療機関と協力して調査した凪の父親は、この奇病はこの島の島民特有のある遺伝子に反応して発症する感染症だと結論づけた。だがこの新種の病気に、世界はあまり関心を示さない。それもその筈だ、発症する可能性のある人間がほんの百人にも満たないのだから。凪の父親はほぼ孤立無援の状況で、治療法の研究を進めた。
凪の父は、夜に島を離れることを勧めた。夜は島民とは別のルーツを持つ。この病は夜にとっては脅威ではない可能性が高い。島の混迷は今後も深まるばかりだろう。今の内に逃げるべきだと。
だが夜はそれを拒んだ。自分を疎外した他の島民などどうでもいい。だが、凪の一家は別だ。夜を一人の人間として尊重し、母親を失った後も支え続けてくれた彼らの為に、島に残り研究を手伝った。夜は賢い子供だった。知識は凪の両親から充分に与えられていたし、その二人すら感嘆する独自の着眼点と抜きん出た論理的思考力を持っていた。それでも前例のない奇病の解明は難航していた。治療法は見つからぬまま数年が経ち、島民の半数以上が発症していた。このままだと島は全滅する。焦りと恐怖で、島はみるみる衰退していった。
凪の父親が発症したのは、夜が十七歳になったその翌日のことだ。
夜は島を出る事を決めた。
この島の限られた設備と狭小な情報網では、治療法は見つけられない。島を出て広い知見と高度な技術を用い、治療法を突き止めなければならない。凪とその母親が発症する前に。父親の心臓が止まるその前に。
だが、旅立つ夜に向けて、凪の父親は言った。
夜。お前はもうここへは戻るな。お前を踏み躙ったこの島に尽くす必要はない。俺達家族の事は気にしなくていい、病に滅びるならそれが運命だ。お前がその身の内に抱える世界は、ここよりもずっと豊かだ。ここを出れば何にでもなれる。何処へでも行ける。思うまま自由に生きろ、と。
それでも夜は、島へ戻り凪とその家族を救うことを夢みた。凪の父親の友人だという島外の研究者を頼って、世界でも有数の設備と技術を有する研究所の一員となった。
たかが数十人の為に懸命な努力を続ける夜を、はじめ、周りの研究者達は嘲笑っていた。
だがマーネという年の近い少女だけは、そうではなかった。難病で家族を失い天涯孤独だったマーネは、境遇のよく似た夜の姿に、過去の自分を重ねる。一向に糸口を掴めない自分の研究に行き詰まっていたのもあって、夜の研究に協力し始めた。
非凡な才を持った二人が力を尽くした研究には、多くの発見があった。失敗の中で生まれた治療薬は他の病に効果を発揮し、現存する医薬品の隠れた危険な副作用を発見したりもした。そうして夜の研究者としての才覚が知れ渡るにつれ、味方も増えていった。マーネの他に、気を許せる仲間が何人か出来た。
研究は一進一退だったが、夜はここでの生活に島の暮らしには無い充足感を感じ始めていた。
次々に出てくる課題を共に乗り越える内に、夜とマーネの間には確かな絆が生まれる。仲間としての信頼であり尊敬であり恋愛感情でもある、夜にとっては初めての感情。マーネもまた同じ気持ちだった。二人は心を通わせ、互いに唯一無二の存在であることを確かめ合う。
そうして一年と半年が経った頃、ついに夜の治療薬は完成した。
島へ戻る事を決めた夜は、マーネに一緒に来て欲しいと請う。だが彼女は、夜との研究過程で見つけたある化学方式が、本来の自分の研究に応用出来る事に気付いたところだった。一度は諦めた目標に再び差した光。マーネは研究所に残り、自分の望みを実現させる事を選んだ。
凪とその家族を治したら、必ずここへ戻る。そう約束して、夜は一人、島へと旅立つ。
一年振りに足を踏み入れた島は、かつてとはまるで姿を変えていた。民家は朽ちかけ、人気はなく、代わりに野生動物が我が物顔で村に棲みつき土地を荒らしている。記憶を頼りに訪ねた凪の病院も、半壊状態だった。
それでも、凪の母親は生きていた。黒斑が身体中を覆い、もう後はふたつの手のひらしか残っていない状態で。
凪の母親は夜を見て、涙を流して喜んだ。そこで夜は聞く。夜が旅立った後、発症から死亡までの時間が短くなっていったこと。死への恐怖で暴徒化した島民が少なくなかったこと。凪の父親が半年前に死んだこと。もう村に、発症していない者はいないこと。村には幼児と若者が十数人、それと自分しか残っていないこと。──そして凪もまた、夜の旅立ちの直後に発症し、数日前に死んだこと。
凪は夜が治療薬を完成させて島に戻る事を最期まで信じていた。夜は必ず戻り、残った島民を守り、島の再建を果たしてくれる筈だと信じていた。
夜は、凪の遺言を全うする事を選んだ。
たった一人で残った島民の治療を完遂し、回復した島民と力を合わせ、島の復興に全力で取り組んだ。土地を整備し直し島外からの移住の受け入れや貿易の体制を整えていった。親を亡くした子供達の世話は、凪の母親が一手に引き受けた。
マーネのことを思い出さない日などなかった。これが終わったら彼女に手紙を送ろう、言伝をしようと思いながら、毎夜、気を失うように眠りに落ちる毎日を送っていた。
そんなある日、あの時回復した若い男女の間に、子供が産まれた。その知らせを聞いて、夜は我に返る。
ふと気付くと数年が経っていた。島は夜が出奔する前よりずっと、島は活気に満ちて人口も増えていた。
マーネに会いたい。強くそう思った。
だがこの島を、島の人々を、置いてはいけない。彼らはもう、昔、夜を忌み嫌い虐げた村人達ではない。信頼と尊敬をもって支え合う、仲間達だった。
夜はマーネに宛てて手紙を出した。自分の今の状況と、マーネの研究の進捗を確認する手紙。もし君の研究が既に完成しているのなら、ここへ来てはくれないか、と、一言添えて。
だがマーネからの返事は来なかった。夜は知らない事だったが、マーネもまた既に、研究所を後にしていたのだ。彼女は自分の研究を完遂し、今現在その難病が流行る地方を巡回しながら、治療法の普及に務めていた。何年も夜を待っていたが、彼は戻って来ない。きっと夜は、島で必死に自分の仕事をしているのだろう。それなら自分も、自分にしか出来ない仕事をしよう。そう決意して旅立った後だった。
二人の残した足跡は、世界にとって偉大なものだった。
けれど彼らは二度と巡りあうことはなかった。他の誰とも沿うことなく、互いへの想いを心に秘めたまま、それぞれの生涯を閉じた。
♢♢♢
カーテンの隙間から、細く長く、朝の光が差し込んでくる。その淡い光と優しい指に頬を撫でられ、詩鶴は目を醒ました。
薄く瞼を開けると、ベッドの縁に腰掛けた基の姿がぼんやりと視界に映る。
あぁ、帰ってきたんだ。
そう安堵して、おかえりと言いたかったけれど、まだうまく口を動かせなかった。
「詩鶴。ただいま」
詩鶴は頬を撫でる基の手を握った。重い瞼をもう一度、閉じて、唇にその手のひらを当てて、おかえり、と呟いた。掠れて、ちゃんと声にはならなかった。
「泣いてたのか」
そう聞かれて、詩鶴は首を振った。目尻にも肌の上にも、涙の跡があるのは自分でもわかる。でも。
「私のじゃないよ。これは、夜とマーネの涙なの」
「…そう」
基はかすかに微笑んで、詩鶴の目尻に滲んだ涙を、そっと唇で拭った。




