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5・ある日は蜂蜜、ある日は玉葱(4)

 予想もしていなかった関口友梨の頼みに、詩鶴の思考は一時停止した。視線の先にある関口友梨の旋毛つむじから目が離せずに、ただそれをじっと見つめる。

 「厚顔無恥もいいところだ」

 基の呟きにはっとした。冷ややかな声が、詩鶴の意識を現実に引き戻す。

 「何年も付き合って結婚の約束までしておいて、彼女に非の無い理由で突然破棄した。その上今度はよりを戻したいだって?そんな身勝手な話がまかり通ると思うか?」

 怒っているというよりは、蔑んでいる、といった方がいいかもしれない。強い糾弾の気配に、一瞬でその場が剣呑な空気に包まれる。

 「帰ってそいつに伝えろ。詩鶴は僕の妻だ。取り返したけりゃ自分で来い。その場で存在ごと抹消してやるから、生まれ変わって来世で一緒になるんだな。──詩鶴、帰るぞ」

 基は吐き捨てるように言って立ち上がり、詩鶴の手首を掴んだ。

 「まっ…待って下さい!澤田先生は関係ありません。私が勝手にしてる事で…」

 「そうか。なら君に言おう。金輪際こんりんざい、詩鶴に近付く事は僕が許さない。今度その顔を見かけたらあらゆる手段を使って社会的に抹殺してやる。地球の裏側で息を潜めて暮らす覚悟が出来たら出直して来い」

 声を荒げる訳でもなく静かな口調ではあったが、醸し出す空気は氷点下だ。基の憤慨が尋常でない事はよくわかった。

 (こっわ…)

 当事者の詩鶴でさえ完全に置き去りにされて、心の中で他人事のようにそう漏らす。

 だが、そんな基の剣幕にも、関口友梨はひるまなかった。

 「そんな覚悟、とっくに出来てます…!」

 真っ赤に血走った瞳で、関口はきつと基を睨む。

 「どうせ私なんて元々、どこにいたって人の顔色窺って息を潜めて暮らしてるんです。何の取り柄も面白味もない、三十二年間生きてて恋人はおろか友達すらまともにいない、つまらない人間です。本来なら人並に結婚して家庭を持つなんてとても出来ない。周りもみんなそう思ってて、親にも親戚にも職場の人にも馬鹿にされて邪魔者扱いされて…そんな人生に嫌気がさしてた。だから一大決心して、マッチングサービスに登録したんです。ただ今いる場所から抜け出したいって一心で。〈vita〉を使えば、子供さえ作れれば相手は誰でもいいって人を見つけられると思った。私なんかでも結婚出来るかもって思ったんです。…そこでマッチングされたのが澤田先生だったのは…私にとっては、奇跡でした。夢みたいだって、私の人生で最初で最後の奇跡だって、そう思ったんです」

 「──君の話は──」

 関口友梨の話を遮ろうと口を開きかけた基を、今度は詩鶴が止めた。

 「基さん。この人の話を聞こう」

 「必要ない。時間の無駄だ」

 「お願い。私が聞きたいの」

 詩鶴の手首は、帰ろうと言った基に掴まれたままだった。その手に詩鶴が自分の掌を重ねると、基は黙った。

 そんな身勝手な話があるかと思ったのは、詩鶴だって同じだ。けれど少なくとも関口友梨は、光稀との縁談を喜んでいた。それならどうして、詩鶴と光稀が復縁する事を望むのだろう。それに、光稀は何で彼女との婚約を解消しようとしてるんだろう。〈vita〉でマッチングされた関口との結婚は、詩鶴のそれとは根本的に違って恋愛の延長線上にあったものじゃない。お互いの目的が一致した出産目的の結婚だ。性格や生活習慣が合わないなどという理由で別れる事も、一緒に過ごす内にいずれは起こり得るかもしれないが、子供が出来ない内に別れてしまっては意味がない。

 そもそも光稀は、そんな人間だっただろうか。気安く婚約して気儘きままに破棄するような真似を繰り返す、そんな人だっただろうか。そんな自己中心的でいい加減な人を、詩鶴は四年もの間、疑う事もなく、好きでいたんだろうか。

 詩鶴が視線で促すと、関口は話を続けた。

 「…私は澤田先生が勤めてる歯科クリニックの患者でした。ただの患者とお医者さんでしたけど、澤田先生はいつも穏やかで爽やかで、憧れの人だった。マッチングされた相手が澤田先生だってわかった時は、夢か罠かのどっちかだって思いました。…実際、それは夢みたいなものだったし、ある意味、罠でもあったんです。初めてのお見合いの席で、澤田先生は私に頭を下げて謝りました。このお見合いは母親が強引にセッティングしたもので、すっぽかすのが申し訳ないから来たけど誰とも結婚する気はないんだって」

 時期を聞けば、それは詩鶴との婚約が破談になって間もない頃だ。

 「やっぱりそんなものかと思って、私はすぐに諦めて帰りました。でも少しして、結婚の話を進めたいって連絡が来ました。澤田先生からじゃなくて、彼のお母さんからです。私はその時に、お見合いの時に澤田先生本人から断られたって事を伝えたんですけど『息子はこちらで説得するから』の一点張りで…断りきれず、私達の婚約が決まりました。いつのまにか私の親にも会社にも根回ししてあって、書面も交わしました」

 「あの人が…」

 あの母親ならやりかねない、と詩鶴は内心歯軋りする。

 「二人の新居も彼のお母さんが用意しました。その内息子も越してくるからここで待っててと言われて、私は先に引越しをして、そこで一人で暮らし始めました。私なんかには分布相応な都心のタワーマンションです。広くてがらんとしてて…毎日落ち着かない気持ちだった。澤田先生はずっと何も知らされていなくて、事情を知ったのは私が引っ越した後だったみたいです。その部屋を訪ねてきて…母親と話し合って婚約は正式に解消する、迷惑かけたお詫びにこの部屋はこのまま私に譲渡するよう手続きを進めるって、そう、何度も謝ってくれました。土下座までして…澤田先生は、何も悪くないのに。悪いのは彼のお母さんと、私です。もしかしたら何かの拍子に澤田先生の心が変わって本当に結婚出来るかもしれない、なんて…ありもしない希望に浅ましく縋ってた、私が悪いんです」

 関口はそう言って、またぽろりと涙を溢した。

 「もう、私の方から断って破談にしてもらおうと思いました。自分の親と私の間で板挟みになってる澤田先生が気の毒で、申し訳なくて…でもちょうどその頃──澤田先生の様子が何だかおかしい事に気付いたんです」

 それは三ヶ月ほど前のことだと、関口は言った。

 清潔感があって優しくて、いつも笑顔を浮かべている穏やかな、腕も評判もいい歯医者さん。関口友梨から見た光稀は、そんな人だった。

 それが、ある時期を境に変わってしまった。

 「澤田先生は自分の状況を知らせたり私の状況を確認する為、定期的に私と会ってくれていました。でも、ある時期からすごく…何ていうんでしょう、上の空で。用意した食事にも手もつけないで、ぼんやりしてる内に終電を逃してタクシーで帰った事もありました。私はその後も澤田先生の勤める歯科クリニックに通っていたんですが、身だしなみも崩れてるしクレームを受けてる姿も見かけたし、みるみる痩せていって…。本題の、婚約解消の話だって全然進まないままです。私ははじめ、お母さんとの話し合いが上手くいってないいんだ、そのせいで疲れてるんだと思って、早く破談にしてあげなきゃって焦りました。それでまず、彼のお母さんに電話したんです。その時に初めて、彼のお母さんの口から詩鶴さんとの事を聞いて、知りました」

 「私との、こと…」

 「はい。私がその時聞いたのは、澤田先生が長年付き合って婚約までしていた恋人に裏切られてひどく傷付いてる。そのせいで女性不信になって、私との結婚にも二の足を踏んでるっていう話でした。相手の女性はもう浮気相手の男と結婚して楽しくやってるのにね、って言ってました」

 「ひどっ…そんなの嘘だよ。結婚させられないって言ったのはあの母親だし、光稀も私とは結婚出来ないって、言った…」

 詩鶴は唖然とした。その頃既に基と結婚していたのは事実だが、浮気なんてとんでもない。光稀と別れるまで、詩鶴が他の男に目移りした事なんて一度もなかった。

 「僕達が知り合ったのは、詩鶴が彼と別れた後だ」

 詩鶴が弁明するより先に、基がちゃんと説明してくれる。だけど次に続く言葉は、詩鶴にとって意外なものだった。

 「裏切りだの浮気だのは事実無根だけど、彼の変化の理由が君にある可能性は、なくもないな」

 「何で⁈あれっきり光稀とは一度も連絡取ってないんだよ?知らないよ」

 「忘れたか?三ヶ月前っていったら、僕らがショッピングモールで彼の友人に会った頃だ。大方そいつから、僕らが結婚した事を聞いたんだろう」

 「…あ…」

 そう言われて思い出した。別れた理由は光稀に聞けと田宮に言ったのは、詩鶴自身だった。

 「それが事実無根だったって、今は私も知ってます。でもその時は、彼のお母さんの言う事を信じてしまいました。傷付けられて苦しんで一人で悲しみの渦中にいる息子を支えて欲しいって、涙ながらに訴えられて…私は馬鹿みたいにそれを信じて、彼のお母さんの言う通りにしようって思ってしまった。澤田先生が私の事を好きにならなくてもいい、でも傍にいて、彼の身の回りの世話をして生活を支えたり、必要なら子供を産んだり…そういう形で役に立とうって、思ってしまったんです。その意思を澤田先生に伝えようと話をする中で、私がお母さんから聞いた、詩鶴さんの話も出ました。…私の言い方はきっと、詩鶴さんを責めるみたいになってたと思います。そうしたら澤田先生は、怒りました。詩鶴は何も悪くない、酷い事をしたのは僕の方だって、凄く怒った。…澤田先生が怒ったのを見たのは、その時が初めてでした」

 その時を思い出したのか、グラスを持った関口の手が小さく震える。

 関口の言うように光稀は穏やかな性格で、四年間付き合った詩鶴ですら、怒ったところなんて見た事がなかった。よっぽど怖かったんだろうか。

 「私は混乱しました。誰が、何が正しいのか、全然わからなかった。だから自分で本当の事を調べようと思ったんです。興信所に頼んで澤田先生の元婚約者…詩鶴さんのことを調べてもらって、お二人が別れた本当の理由を知りました。お二人は〈vita〉を使った検査の結果で妊娠成功率がとても低く、子供が必要な澤田先生が詩鶴さんとの婚約を破棄した──そうですよね?」

 関口の問いに、詩鶴は黙って頷く。詩鶴と光稀が別れた理由を知らなかった細井だけが、眉を寄せて驚いたような怒ったような顔をしていた。


 「──でもそれは、誤解なんです」


 関口は身を乗り出して、必死の形相で詩鶴を見つめた。鬼気迫るその様子に、詩鶴は少し怯んでしまう。

 「その興信所の人は、澤田先生がお友達と会った時の会話の内容を録音して、私に聞かせてくれました。澤田先生が親友に漏らした本音を、聞いたんです。澤田先生は確かに子供を望んでいました。でもそれは家業の後継の為じゃありません。彼は以前から自分の両親の人格や仕事への姿勢に疑問を持っていて、いざとなれば絶縁する覚悟さえしていたそうです。彼が別れを決めたのは、詩鶴さんの為です」

 「…私の?」

 「そうです。詩鶴さんは昔から、たくさん子供を産んで賑やかな家庭を作るのが夢だって言ってたんですよね?澤田先生は、自分ではその夢を叶えてあげられないからって、それで身を引いたんです。詩鶴さんが後腐れなく別れられるように、自分が悪者になって別れる事を選んだ。全部、詩鶴さんの為だったんです。…でも、詩鶴さんがその後すぐに他の人と結婚したって聞いて、凄くショックだったみたいで…ずっとその事ばかり考えてしまうって、そう言ってました。そりゃそうです。詩鶴さんが他の人と夢を叶えて幸せになれるようにって、望んだのは澤田先生自身かもしれないけど。すぐに現実になったらやっぱり辛いです。今の澤田先生は傍目はためにもわかるくらいギリギリの状態で…もう、見てられない」

 関口の声は震えていた。

 あぁ、この人は本当に、光稀の事が好きなんだ──。

 見ていてわかる。そのひたむきな想いは、少し前まで詩鶴が同じ男に対して抱いていたものと、よく似ていた。詩鶴だって、光稀が落ち込んでいれば何とかして元気付けたいと思ってた。出来る事は何だって、してあげたいと思ってた。その気持ちを思い出して、胸が締め付けられる。

 「──だからお願いです。確かに詩鶴さんの夢が叶えられなくなる可能性はあるかもしれないけど、でも不妊治療とか何か…何か、方法はある筈です。たくさんは無理でも一人くらいなら…とか…。澤田先生は本当に詩鶴さんの事を…詩鶴さんの事だけを、大切に思っているんです。詩鶴さんじゃなきゃ駄目なんです。どうか…どうか、澤田先生のところに戻ってあげて下さい」

 そう言って関口は、もう一度深く頭を下げた。

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