5・ある日は蜂蜜、ある日は玉葱(3)
ごうごうと音を立てて、頭の上から温風が降り注ぐ。髪を梳いたり掻き上げたりする基の指が、時折地肌に触れ、撫でていくのが心地いい。
「気持ちいい。幸せ。寝そう」
「何でも聞いてやるって言ってるのに、君の願いはささやかだよな。おまけに色気がない」
ドライヤー片手に詩鶴の髪を乾かしている基は、そう言いながらも案外真面目に作業に熱中している様子だった。
「ささやかかなぁ、そうかなぁ。結構勇気出してお願いしたんだけどな」
ちゃんと甘やかしてやるからして欲しいこと何でも言ってみろ、という基へのお願いが、これだった。風呂上がりのブロー係。
普段美容師以外の他人に髪を乾かして貰うことなんてない。乾かす為には髪が濡れている必要があるのだし、となるとそういう姿を見せる関係性という事なんだし、大体その辺の友達程度の異性には、そうそう髪など触られたくない。結構色気あるくない?と詩鶴は心の中で思うが、言わない。
「だって髪乾かすのって結構面倒なんだもん。長いし量も多いから、なかなか乾かないんだよ。座ってるだけで乾くなんてすごい楽。快適」
「改めて見ると確かに長いな。どのくらい伸ばせばこの長さになるんだ?」
肩甲骨を覆う長さの詩鶴の髪を指に絡めて、基は興味深そうにしている。
「うーん、ちょこちょこ毛先切ったりはしてるから何とも言えないけど…もう五年くらいはずっと長いよ」
「五年間もその面倒な乾燥作業を続けてるのか。切れば楽になるんじゃないのか」
「身も蓋もない…。まぁそうなんだけど、長い方が好きなんだもん。基さんだって最初会った時は長かったじゃん」
「ここまでじゃないだろ」
「でも私と結婚しなかったら美容院も行かないままで、その内おんなじくらいになってたかもよ」
作業の邪魔にならないように少しだけ振り向いてそう言うと、基は「そうかもな」と目を細めて笑った。
「少し伸びてきたね。そろそろまた奏美のとこ行く?」
「君が予約してくれるんならな」
「いいよ。私、これからずっと基さんの美容院予約係、してあげる」
そうすれば詩鶴好みの長さをキープ出来る。担当美容師が奏美なら、基に試して欲しい新しいスタイルもオーダーし放題だ。
「だいぶ乾いた気がする。もういいかな」
「うん。ありがとう」
基はドライヤーを止めて、くるくるとコードを巻き取る。
水を吸って重かった髪が、ふわふわと温かく、軽くなった。色々あった今日一日の疲れが、髪と一緒にからりと乾いて、どこかへ行ったみたいだった。思わず鼻歌でも歌ってしまいそうな気分だ。
「御機嫌だな、詩鶴」
「おかげさまで」
椅子に座ったまま伸びをする詩鶴の頭を、基は労わるように優しく撫でた。
けれどそんな平和な時間は、ほんの束の間の出来事だったのだ。
♢♢♢
関口友梨の件で新たに報告がある、と細井から申出があったのは、その翌日のことだった。
詩鶴の帰宅後ほどなくして、細井が自宅を訪れる。向かい合って座った細井は、並んで歩いた夜とは別人のように精悍な顔付きで、基と詩鶴に相対する。
「お二人と関口との繋がりが、一つだけ判りました」
短い前置きをして、細井はちらりと詩鶴に目を遣る。ほんの一瞬だったが、その目には詩鶴を気遣うような色があった──ように見えた。
一枚の写真がテーブルの上に置かれる。
「詩鶴さん、この男を御存知ですね?」
そこに映る懐かしい顔を見て、詩鶴はざっと頭から冷水を浴びせられたような気持ちになる。
「──光稀…」
呆然と呟く詩鶴を、基が目を瞠いて見つめた。
詩鶴の動揺を内心で慮りながらも、細井は感情を押し殺して努めて冷静に事実を伝える。
「関口友梨、彼女は──詩鶴さんの元恋人、澤田光稀の婚約者です」
「──え…」
『光稀のお嫁さんも、実はもう決めてあるの』
詩鶴の脳裏に甦る、光稀の母親の台詞。それなら、関口友梨がその時選ばれた新たな婚約者ということになる。
でも──
「…私はもう半年以上前に彼とは別れて、それ以来一度も連絡を取ってません。今さら…彼の婚約者が、何で私に…」
「関口の動機はわかりません。ただ──僕は今便宜上婚約者と申し上げましたが、どうも澤田の方はこの婚約関係を解消する方向で動いているようです」
「え…?」
「澤田が婚約解消を望む理由が、仮に詩鶴さんに関わるものであれば──関口が接触してこようとする動機にも、なり得るのかもしれません」
爪先から、指先から、すっと血の気が引いていって体中が冷たくなっていく。首筋に気味の悪い汗が滲み出てくるのがわかった。
膝の上でぎゅっと握りしめた拳を、不意に、基の掌が覆った。
「詩鶴」
「基さん…」
縋るような目を向ける詩鶴に向かって、基は首を振る。不安になる必要はない、大丈夫だと、その目が伝えている。それで詩鶴は少し、強張った体を緩めることが出来た。詩鶴が落ち着いたのを確認して、細井も報告を再開した。
「…関口の行動原則ですが、彼女は派遣社員で、曜日によって勤務時間の変動があります。月水金は十五時まで、その他は十八時まで。勤務時間の短い日に詩鶴さんの帰宅時間を狙って待ち伏せていたと予想されます。土日はこちらの動向予測がし辛いので、動きがなかったんでしょう。関口が興信所を使って詩鶴さんの身辺調査をしていた事もわかりました」
「月水金っていうと…」
昨日の水曜日は詩鶴がいつになく帰宅時間が遅かったから、待ち伏せていたとしてもかち合う事がなかったのだろう。
となると──
「次は明日か」
「必ず現れるとは限りませんが、可能性としては高いです」
基がテーブルの片隅にある小さな卓上カレンダーをちらりと見て確認する。
「関口の詩鶴さんへの追跡・観察行為を確認次第、僕らで証拠を押さえ、身柄を確保します。まずはそこで動機と目的を確認した上で行為を止めるよう注意勧告、併せて警察への届け出をします。基本的にはそのような対応になりますが、これに関してお二人の御意向はいかがですか」
基と詩鶴の顔を等しく見つめ、細井は尋ねる。
「僕としてはそのまま二度と帰って来れない異国の僻地にでも流してやりたいところだが」
本音か冗談かわからない真顔で、基は詩鶴を見下ろす。
「そういう訳にもいかないな。詩鶴、君はどう思う?」
基に水を向けられ、詩鶴は戸惑う。
「どう…なのかな。今ちょっと混乱してて…」
「それは当然です。関口の確保が明日になるとしても、まだ時間はあります。考えが纏まり次第お知らせ頂ければ、それで構いません」
光稀の婚約者、関口友梨。
一度は婚約したものの関係の解消を望まれているという点では、詩鶴と同じ境遇だ。どんな人柄なのかはわからないけれど、写真で見た限りでは真面目で大人しそうな印象だった。例え恨みつらみがあろうとも、他人に危害を加えるような人には見えない。けれど実際こうして詩鶴の後を尾け回しているということは、何か理由が、そうする必要がある筈で──一体、何を考えているんだろう。何をしたいんだろう。
基はまだ、詩鶴の手を握ったままだ。心配いらない、と伝えてくれるその手の温かさが、今の詩鶴には何より頼もしかった。それに背中を押されるように、詩鶴の口からはするりと言葉が溢れる。
「私、その関口さんっていう人と会ってみたい。彼女が私をどうしたいのか、何でそうしたいのか…自分でちゃんと聞いて確かめたい。その上で、どうするか決めたいです。…駄目ですか?」
顔を上げた詩鶴と目が合うと、細井は予想していたとでも言うように、にこっと笑った。それはあの夜と同じ、どこかあどけなさを残す素の彼の笑顔だった。
「駄目じゃないですよ。御意向に沿う形で場を設けます。ただし、その場には僕も同席させて頂きます。詩鶴さんの身の安全を守る為です。御了承頂けますか?」
はい、と詩鶴は頷いた。細井の立場上当然だと思うし、人を傷付ける為の道具など、いくらでも流通している。非力そうな女性が相手とはいえ、何をされるかわからない。詩鶴だってその方が安心出来る。
「瀬尾さん…御主人はいかがですか?」
「詩鶴がそう望むなら、異存はないよ。妻の身の安全は君らが保証してくれるんだろう?」
「勿論です。奥様には指一本触れさせません。命に替えてもお守りします」
「格好いい事だな」
基はつまらなそうに肩を竦めて、ようやく詩鶴の手を離した。
「なぁ詩鶴。僕も行くからな」
「え?基さんも?」
「当たり前だろ。何で僕だけ蚊帳の外にいなけりゃならない?可愛い妻を脅かす不逞の輩の顔をじっくり拝んでやらないと」
「またそういう悪役みたいなことを…」
けれど味方となれば、多少の悪どさも心強くて、有り難い。
詩鶴ははぁと短い溜息を吐いて、天井を仰いだ。
「どうせならいっそ今すぐ来てくれないかなぁ。さっさと片付いて欲しい」
「そういう奴だよ、君は。肚が決まれば怖いもの無しだ。肝の据わった人だよな」
基はテーブルに頬杖をついて、眉を寄せて笑った。どこか呆れたような笑顔に「そんな事ないもん」と詩鶴はむくれたけれど。
そんな事はない。怖いもの無しだなんて、ある筈ないけど。
大船に乗った気持ち、とはこういう事だろうか。基はちゃんと、詩鶴を守ろうとしてくれている。細井だってそうだ。身体的な安全だけでなく、精神的にも傷つかないように慮ってくれている。それがわかるから、だからもう、不安はあまりなかった。
♢♢♢
翌日の帰宅途中、スーパーで買い物をしている最中に「詩鶴さん」と声を掛けられた。細井だった。
「関口を確認しました。今、詩鶴さんが出てくるのを店の外で待っています」
友人同士が会話するような自然な表情と距離感で、細井が伝える。詩鶴にだけ聞こえる、程よい声量だ。
「このまま御自宅まで追跡させ、その間に証拠を押さえて身柄を確保します。詩鶴さんはこのまま買い物を済ませて帰ってください。どうか普段通りに」
細井は友人にそうするように明るく手を振って、離れていった。
やっぱり、来たんだ。
早く来て欲しい、という詩鶴の希望が実現した形だけれど、実際そうなればなったで緊張する。
話は長くなるだろうか。今日中に食べなきゃいけない食材は買わない方がいいかな。どこか的外れなことを考えて、手に取った魚の切身のパックを元に戻した。
♢♢♢
関口を確保したと細井からの連絡があった後、詩鶴は基と一緒に駅から少し離れたファミリーレストランに入った。
詩鶴が帰宅してからほんの十分程度で、予定通り関口を捕まえたと細井から連絡が入った。場所を指定したのも細井だ。話をするにしても自宅に招くのは避けた方がいい。密室よりは開けた空間の方が望ましい。そのファミレスは席幅も広く適度な賑わいで、人目もそこまで気にせずに話が出来るだろう、との事だった。
入口が見える位置の四人席、奥側に、関口友梨が座っていた。自由な出入を制限する為だろう、その隣に細井が座っている。関口は帽子とマフラーは取っていたが、コートは着たままだ。肩を窄ませ真っ白な顔をして俯いている。震えんばかりに怯えた関口の様子で、傍目にはいかにも複雑な事情を抱えてそうな男女二人組に見えた。
「DV男とその被害者女性って感じだな」
「ちょっと基さん。今そんなブラックジョーク言っていい状況じゃないからね?」
細井と関口の間に流れる重苦しい空気を物ともせずに、基はそう言いながら細井の向かいの席についた。慌てて窘めながら、詩鶴もその隣に座る。もう、と溜息を吐いた詩鶴が腰を下ろした拍子に、ぱちっと関口友梨と目が合ってしまった。反射的に、詩鶴は軽く会釈する。
「あ、どうも、初めまして…になるのかな。佐木、じゃないや、瀬尾詩鶴です」
「随分腑抜けたご挨拶だな」
「だって苗字変わってからまだあんまり使ってないし、慣れないんだもん…ていうかストーカーって。そんなストレートに言わないでよ、本人の目の前で」
「ふん。ストーカー相手に気遣い割いてる余裕があるなら、僕にももう少し心を砕いて欲しいもんだ」
「ま…またそんな子供みたいなこと言って」
せっかくの緊張感も二人の内輪揉めで台無しだった。強面を作っていた細井まで表情を崩して、苦笑いしている。関口はぽかんとした様子で、二人のやり取りを眺めていた。
が、不意に。顔を歪めてボロボロっと涙を溢し始めた。
「えっ…な、何?なんで泣くの?」
「す…すみまぜ…ぇっ…んっ…」
関口はダラダラ涙を流しながら、嗚咽を漏らす。詩鶴は焦って、テーブルに置かれたペーパーナプキンをケースごと差し出した。
関口がそれをごそっと引き抜いて、涙を拭く。
「ほっ…ほんとに結婚しちゃったんだなって…し…しかもけっこう、ちゃんと仲いい…なかよく、やってるんだなって…おも…思って…」
「結婚、しちゃった…?」
まるで、してはいけなかったかのような口ぶりだ。
「…お二人がここへ来るまでの間に、関口の目的は概ね聞き出しました」
悲壮な顔で鼻をかむ関口を見かねたように、細井が口を開いた。このまま彼女に任せていたら話が進まないと判断したのだろう。
「詩鶴さんに危害を加える意図はなかったようです。ただ話をしたいが為に帰宅時間を狙って追い回し、声を掛ける機会を伺っていたと、そう言っています。チャンスはいくらでもあったのになかなか実行に踏み切れず、何度も出直したそうですが」
「話をしたい?何の?」
お互いに面識のない元婚約者と破棄寸前の現婚約者の間に、会って話す必要性などあるのだろうか。詩鶴は眉間に皺を寄せて首を傾げる。
細井は機嫌を窺うような目線を、ちらりと基に送った。そして諦めたように嘆息した後、どこか憂鬱そうに口を開く。
「──彼女の目的は、詩鶴さんと澤田光稀の復縁です。その説得をする為に、詩鶴さんとの接触を試みていたそうです」
「……復縁?」
若いアルバイト風のウエイターが、まだぐずぐずと鼻を鳴らして泣く関口をちらちら気にしながら詩鶴と基の前に水の入ったグラスを置いていく。
「…私と、光稀の?」
「…私からこんなお願いするのは筋違いだって、わかってます。でも、お願いです──詩鶴さん。澤田先生のところに、戻ってあげてください」
ぐすんと鼻を吸いながらも、関口はまっすぐに詩鶴を見つめて深々と頭を下げた。




