5・ある日は蜂蜜、ある日は玉葱(1)
その奇妙な気配に詩鶴が気付いたのは、寒風吹き荒ぶ二月のある日のことだった。
「ここしばらく、時々見かけるなって思ってたの。服装が独特で目立つんだよね。全身黒づくめなの。黒のロングコートに黒のマフラーぐるぐる巻いて黒のキャスケット被ってサングラス掛けて」
「古典的な不審者だな」
「そうなの。その古典的な不審者が、どうもうちの周りをウロウロしてる気がする」
カチャカチャと音を立てて泡立て器を動かしながら、詩鶴は眉間に皺を寄せた。
「うちの周りを?」
ダイニングテーブルでノートパソコンのキーボードを打っていた基が、手を止めた。顔を上げて、キッチンの中にいる詩鶴とカウンター越しに目を合わせた。
「男か?」
「ううん、女の人。露出が少ないからはっきりわかんないけど、割と若そうな雰囲気で小柄で細身な感じの」
「女…」
基はぱたんとノートパソコンを閉じて、テーブルに肘をついて何やら考え込むような素振りを見せた。
「基さん、何か心当たりある?ストーカー化しそうな元カノいたりとか」
詩鶴が冗談半分でそう言うと、基はつまらなそうにフンと鼻を鳴らした。
「それはないと思う。…けど、ファンが類似行為をする事は稀にある」
「えっ。類似行為って、具体的にどんな…」
「連載してる出版社に押し掛けて僕の来社予定を教えろと騒いだり、ファンレターを装って使用済みの下着を送り付けてきたりだな」
「いや、それ完全に駄目なやつでしょ」
類似行為のレベルを超えている、と詩鶴はぞっとしたが、基は相変わらず淡々とした顔をしている。
「作家への送付物は編集部である程度検閲してくれるから、僕は報告を受けるだけだ。直接の被害はない」
「そうは言っても…あ、でもそれなら、じゃあ私が見たのも、基さんのファンだったりするのかな?」
「住所まで漏れた事は今まで無かったけど、絶対に有り得ないとは言い切れないな」
基は席を立ってキッチンに移動してきた。冷蔵庫からビールを取り出すと、そのまま扉にもたれて缶を開ける。
「君は何度もその不審者を見たんだな?いつ頃から?」
「んーと…初めて見たのは十日くらい前かなぁ。駅の近くとか商店街とかで二回くらい見かけて、何か怪しい感じの人だなって…うちの周りで見たのは、その後。三日くらい前に私がうちの近くの角を曲がったら、お向かいさん家の角の辺りに立ってたの。その時は私に気付いてすぐ消えたんだけど…今日、夕方バルコニーで洗濯物取り込んでたら、同じ場所にいるのが上から見えて。じーっと、うちの方を見てたんだよね」
「そうか…」
缶ビールを傾けながら、基は少しの間、思案顔で黙り込んだ。
「…僕だけならともかく、君に危険が及ぶのは避けたいな。万が一って事もある。伝手はあるから頼ってみよう。念の為だ」
「伝手って?」
両手に丸い銀色の型を抱えたまま、詩鶴は首を傾げる。
「追々話すよ。心配いらない。…ところで、君はさっきから何をしてる?」
夕飯の後に長々とキッチンに篭もる詩鶴を、基は不思議そうに見つめた。
「あ、これ?それこそ追々話したかったんだけど…こんな目の前で作ってたらバレバレだよね」
詩鶴はあははと笑って、手にしていた型をオーブンに入れる。
「明日は何日?」
「十四日」
「二月十四日は、何の日?」
そう訊かれてようやく腑に落ちたというふうに、基は「あぁ」と頷いた。
「バレンタインか」
「正解!ナッツ入りのガトーショコラだよ。焼きたてより一晩置いた方が美味しいから、今日作ってたの」
「君は菓子も作れるんだな」
「簡単なのだけね。本当は明日渡してびっくりして欲しかったけど…一緒に住んでるとこういうサプライズは出来ないね」
後は焼くだけ、作業は終わりだ。洗い物を始めようとすると、いつのまにかキッチンに入ってきてすぐ傍で待ち構えていた基が、詩鶴の腰にそっと手を回し、引き寄せる。
「なぁ詩鶴。確かバレンタインは、好きな男にチョコを贈って愛を伝えるイベントだったよな」
「う…うん、まぁ元々は…でもほら、今では友達同士で贈り合ったりもするし、そこまで大袈裟なものでは…」
好きだの愛だの大袈裟なことを言われて、詩鶴はぎくりとしてはぐらかす。
「君が今作ってるそれは、僕のものだと思っていいの?」
「……そりゃそうだよ。他に、あげる人、いないもん」
基は腰に当てた腕をぐるりと腹まで回し、ぐっと力を込めて背後から詩鶴を抱き寄せた。
「こっちにおいで、詩鶴」
詩鶴は誘われるがまま、基の腕に体を預ける。なんだか最近こういう時、基の誘導に逆らえないのだ。
基の指が、詩鶴の顎を持ち上げる。拒む理由は、多分ない。詩鶴はゆっくりと瞼を伏せた。
基の唇が詩鶴の唇を塞いで、詩鶴は一瞬、呼吸を止めた。おはようやおかえりの時の、軽く触れるだけのキスとは、少し違う。波が砂浜を濡らすように、浅瀬をさっと撫ぜては、深く潜ってまた沖に帰る。一秒、また一秒と重ねるごとに、頭の芯がじんと痺れていくのがわかった。
唇を離した後、上気した頬を隠すように俯いた詩鶴を、基は笑う。ぎゅうと抱き締めて、頭の上に顎を乗せた。
「プレゼントは私、みたいのはないのか?」
「基さんはどうして時々、百年前に生まれたおじさんみたいな冗談を言うの」
「君の貞操観念も百年前に生まれた小娘並だから、ちょうどいいじゃないか」
むぅと拗ねたように唇を曲げた詩鶴の額に、基は軽く唇を当てた。
「可愛いな、詩鶴」
肌をくすぐる低い声に、詩鶴の頬はまたほのかに熱くなった。
♢♢♢
その五日後の夜。詩鶴が帰宅すると、玄関に見慣れない靴があった。男物の大きな革靴だ。きっちり揃えられた丁寧さで、来客だということがわかる。詩鶴が帰るといつも出迎えてくれる基も、今日は顔を出さない。
誰が来てるんだろう。入ってもいいのかな。
詩鶴は遠慮がちにリビングのドアを細く開けた。いつもの席に座っている基は何やら真面目な顔で誰かと話し込んでいたが、すぐに詩鶴に気付いた。
「詩鶴。おかえり」
「ただいま。…邪魔してごめんね。お客様?」
「あぁ。ちょうど良かった、君もこっちへ」
小声で尋ねる詩鶴を、基は手招きして呼び寄せる。
基の向かいには見知らぬ青年が座っていた。詩鶴を見ると起立して、ピンと伸びた背中を折って丁重な礼をする。基も背は高い方だが、それよりもさらに長身でがっちりした逞しい体付きをしている。おぉ、と詩鶴は圧倒された。見慣れたリビングがいつもより狭く見えた。
「初めまして、お邪魔しております。御主人から依頼を頂き参りました、細井と申します」
いかにも闊達で健康そうな笑顔を浮かべ、詩鶴に名刺を差し出した。そこには詩鶴でさえ知っている、業界最大手の総合警備会社の社名が印字されている。
「細井、竜さん」
「はい。よろしくお願い致します。奥様」
「総合警備会社の方なんだ。個人警護も請け負ってる会社で、二、三年前に仕事で取材をさせて貰ったんだよ。その時対応してくれた彼の上司にあたる方に、今回の件を相談してみたんだ。すぐに部下を送ると言って下さった。細井さんもとても優秀な方だそうだよ」
「恐縮です」
照れたようににこっと笑った顔は人懐こくて、まだどこかあどけない。言葉遣いや立ち居振る舞いは社会人らしいしっかりしたものだが、詩鶴よりも歳下かもしれない。
「細井さんには四日前から君について貰ってる。今、その調査結果の報告を受けていたところだ」
「四日前って、基さんに話した翌日?」
「そう」
「今日はもう一人の担当の者が奥様についていました。不審な動きはなかったと報告を受けていますからご安心ください」
細井はそう言って頼もしい笑顔を詩鶴に向けた。周りの迅速な動きに対応しかねて戸惑う詩鶴に、基は自分の隣の席に座るよう促した。
「奥様の懸念は勘違いではありません。こちらでも不審人物を確認しました。この四日間で姿を見せたのは昨日の夕方一度だけでしたが、身元の確認は取れました。今日はそのご報告です」
細井はテーブルの上に数枚の書類と写真を広げる。その中の一枚、例の黒ずくめの女が映り込んだ写真を細井が指差す。
「この女性で間違いないですね?」
詩鶴がはいと深く頷くのを見て、細井は別の一枚の紙を差し出す。
「当該女性、関口友梨、三十二歳。江戸川区在住、同区の食品卸会社の事務員です。面識はありますか?」
「ないな」
「私も…」
細井が提示した関口友梨の素顔の写真を見つめて、基と詩鶴は口々に答える。
「そうですか。僕が彼女を張っていた時の状況ですが、まずこちらの最寄り駅で奥様を確認すると同時に尾行を開始。スーパーに立ち寄った際も、出入口を見晴らせる場所で奥様が出てくるのを待っていました。その後また尾行を始め、奥様が自宅へ入られてからしばらく物陰で家の中の様子を伺っています。十分ほどで諦めた様子を見せ、帰って行きました。御自宅周辺も他の者が張っていましたが、日中や深夜は動きがありません。関口は非常に尾行に不慣れな様子で、ただの一般人だと思われます。あくまで僕の私見ですが──奥様に接触したがっているような印象も、見受けられました」
「私──?」
基のファンの話を聞いていたので、万が一ストーカーか何かだったとしてもてっきり基目当てだとばかり思い込んでいた。詩鶴は驚き戸惑った顔で、助けを求めるように基を見つめる。
「君を尾け回して接触したがってるとしても、君が目的とは限らない」
基は淡々と言って、不安気な詩鶴の頬を指の背で軽く撫でた。
「御主人の仰る通りです。例えばストーカー被害の場合、標的である人物のパートナーに嫌がらせするケースも多いので。…お二人とも面識がないとなれば、関口友梨の目的はまだ不明です。引き続き彼女の身上調査と、奥様の警護に務めさせていただきます」
広げた書類を整えて、細井は改めて基と詩鶴に差し出した。
「今後、僕が外で奥様にお声掛けする機会が出てくるかもしれません。その際はあまり堅苦しくせず、友人に会ったように振る舞って頂けますか?御協力頂けると助かります」
「は、はい」
詩鶴が慌てて頷くと、細井はまた笑顔を浮かべて席を立った。
「進捗は逐一ご報告します。僕らがついてはいますが──瀬尾様も奥様も、くれぐれも身辺にご注意下さい。何か気になる事があれば、すぐに御連絡を」
そう言い置いて、細井は辞していった。
「大事になっちゃった」
「まだなってない。大事にならないように手を打ったんだ」
「もし私に何か…例えば、危害を加えようとしてるような事があったとしたら…それに園の子供達を巻き込む可能性も、あるのかな?」
不安そうに縋る目を向けてくる詩鶴の頭を、基は優しく撫でた。
「大丈夫、君はいつも通り過ごしてればいい。その為にプロにお願いしたんだ」
「あぁ、そっか…」
私の為に、すぐに動いてくれたのか。改めてそう思うと胸が詰まって、基の服をぎゅっと掴む。
「基さん、ありがとう。私一人だったら、なんか気持ち悪いなぁって思って終わりだった」
どこかしょげたように俯く詩鶴の背中を、基はぽんぽんと叩く。
「僕が勝手にした事だ。君に何かあって困るのは、僕だから」
普段は意地悪なことも言うのに、本気で落ち込んでいる時は詩鶴の気持ちに寄り添ってくれる。基のそういうところが、詩鶴には有り難かった。
(ありがたい、でいいのかな)
この気持ちにつける名前は、他にもあるような気がしたけれど。
今の詩鶴の中には不安が渦巻いていて、それが何なのか、はっきりわからなかった。




