4・頤の雫、口に入らぬ(7)
斯様に嵐を引き起こしたムナカタタカムネ事件だったが、結局は詩鶴の早合点であった事が、後日判明した。
その情報をもたらしたのは、乃絵だった。
「ムナカタさんね。結婚して三ヶ月くらいで、出来なくなっちゃったらしいんですよ。所謂EDってやつですね」
唐突な暴露話に、詩鶴は思わず口の中の飲み物を吹き出しそうになった。
「初めて奥さんとした時に、凄いキツいこと言われたらしいんですよね。痛いと辛いしかなかったとか、気持ち悪いとか。でも子供は欲しいから我慢するって言うんで、排卵日あたりだけ狙ってしてたんですって。けどあからさまに嫌々って感じで、最中に深ぁぁい溜息吐かれたりで、うまく出来なくて。それでムナカタさん、しんどくなって勃たなくなっちゃったんだって」
仕事を終えた後。今日で終了する期間限定フラペチーノを何が何でも飲みたいと言い出した乃絵に、和歌と二人で付き合っているところだった。店内は満席状態だったけれど、乃絵はデリケートな話を憚ることなく続ける。
「あの人繊細というか、ヘタレですからねぇ。結局まともに出来たのは最初の一、二回らしいですよ」
「不妊治療はしなかったのかな。レスでもそれで子供出来る人もいるんじゃないの?」
和歌が首を捻ると、乃絵は「それがね」と眉間に皺を寄せた。
「何だそりゃって感じなんですけどね。奥さん、ガチの自然妊娠志向だったらしくて。エッチも嫌だけど体外受精なんてもってのほかって考えだったみたいです」
「何だそりゃ」
「ですよね。無事産まれさえすりゃ受精の方法なんて何でも一緒だろって思うんですけど。まぁとにかくそれで彼、プレッシャーも重なって再起不能ですよ。でも離婚はしたくないから他の面で…奥さん専業主婦なのに家事全部引き受けたりして色々頑張ってたらしいんですけど。結局二年経っても改善しなくて、別れたそうですよ」
その状況ではそれだけ成功率が高かろうと、妊娠に至るのは難しかっただろう。〈vita〉の信頼性を貶めるには至らない話だ。拍子抜けしたというか何というか、詩鶴は「はぁ」と間の抜けた相槌を打つ事しか出来なかった。
「はぁじゃないですよ、もう。詩鶴先輩もあんまり勿体ぶってる場合じゃないですよって話です」
「別に勿体ぶってる訳じゃ…。ていうか乃絵ちゃん、何でムナカタタカムネのそんなプライベートな話、詳しく知ってるの」
「読み聞かせ会の日、帰りにムナカタさんと飲みに行ったんですよ。別れ際思い出し泣きしてたから放っとけなくて、話聞きますよって誘ったんです。あの人お酒入ると急に陽キャになるから案外楽しかったですよ。この話も笑い話にしたいから、どんどん友達に話してネタにしていいよって」
「笑い話にはなんないでしょ、どう頑張っても」
世話焼きで酒好きでおしゃべり好きな乃絵らしい。光稀と別れた時、落ち込む詩鶴を放っておけないと合コンのセッティングをしてくれたのも乃絵だった。
「でも勿体ぶってても詩鶴は大丈夫だよねぇ。何だかんだ言って愛されちゃってるもんね。瀬尾さん、詩鶴にベタ惚れじゃん」
和歌が揶揄うように詩鶴の薬指に嵌まった指輪をつつく。
「…いや、そんな事は…」
ない、と否定しようとして、詩鶴はぐっと詰まった。君が好きだよ、と囁く基の声が脳裏に甦るのを、一生懸命に掻き消す。顔を赤くして黙り込んだ詩鶴を、和歌と乃絵は興味津々で眺める。
「お。何かあったんだ」
「勿体ぶるななんて余計なお世話でした?もしかしてもう、した?」
「し、してないよ。してないけど…」
「けど、なんだ」
和歌と乃絵は同時に喰い付く。
「…けど、基さんが──」
♢♢♢
あの日、基はキス以上の事はしてこなかった。
でもそれだけはたくさんした。
基の腕に抱かれて、髪を撫でられ頬や首筋にキスされるのは、びっくりするくらい心地良かった。今までも基がそういう事をしてくる時はあったけれど、それまでの、詩鶴を揶揄うようないたずらな手付きとは全然違う。饒舌に言葉を繰り出されるより、ずっと真っ直ぐに伝わってくる。基が本当に詩鶴のことを、大切に、慈しんでくれていること。
正直言うと、もうこのまま身を委ねてもいいと思った。
だって、夫婦だし。基は、詩鶴を好きだと言ってくれた──。
そんな事を考えている最中に、ぐうと詩鶴の腹の虫が鳴った。
真っ赤になった詩鶴を基は笑ったが、すぐに手を止めて、デリバリーのピザを頼んでくれた。ひどく気まずくいたたまれない気持ちのまま、詩鶴は届いたピザを口の中に詰め込んでもぐもぐと咀嚼する。
普段は向かい合って座る二人だったが、その日の基は大変機嫌が良く、椅子ごと隣に移動してきて詩鶴が食べる姿を頬杖ついて至近距離で眺めている。自分はさっさと食べ終えて、手持ち無沙汰に缶ビールを傾けていた。
「君、案外よく食うよな」
「すみません」
ホントすみません、と項垂れる詩鶴の顎を捕まえて、基はペロリと舐めた。
「なっ…何すんの、食事中に」
詩鶴は顎を押さえて赤くなるが、基は「チーズが付いてた」と、悪びれもしない。
「頤の雫、口に入らぬ──って言うよな」
「し…知らない」
「頤ってのは、ここだ」
基は詩鶴の顎を軽く摘む。
「すぐ傍にあるのに、手に入らない。思うようにならない──でもまぁ、焦らされるのも、そう悪くないな。僕も君に飼い慣らされてだいぶ趣味が変わったみたいだ」
そう言って、基はふっと愉しそうに笑った。
♢♢♢
「瀬尾さんがどうしたって?」
和歌の声で、一人、回想の旅に出掛けていた詩鶴ははっと我に返る。
「……なんでもない。うちの夫はことわざ博士だな、と思ってた」
何だそりゃ、と和歌と乃絵は肩透かしを食らったような顔をする。
「ねぇ、顎のこと頤っていうって、知ってた?」
「いや、知らない」
「基さんといるとさ。三十年弱生きてきて一度も聞いたことない言葉をやたらと知れるんだよね」
「あー、さすが作家さんですよねぇ。そういえばこないだムナカタさんと飲み行った時にも、何だそりゃってことわざ?慣用句なのかな。初めて聞いたのがあってー…」
乃絵とムナカタタカムネの飲み会に話が移り、詩鶴はほっと胸を撫で下ろす。
隣のテーブルに座った若いカップルのバッグから葱がはみ出しているのを見て、今日の夕飯は何にしようかな、と詩鶴は考える。カロリーの高いフラペチーノで小腹が満たされてしまったから、あっさりしたものがいい。けど基は案外子供舌だから、どちらも満足出来るメニューとなると…。
「──そろそろ帰ろうか。瀬尾さん待ってるんでしょ?」
気付くと三人のカップは空になっていて、和歌も乃絵も帰り支度を始めている。
そうだ、そろそろ帰らなきゃ。
家に帰れば、一日中一人で仕事に精を出していた基が、きっと玄関で出迎えてくれる。そして「おかえり」と言って、詩鶴の頬に手をかけて、キスをくれるだろうから。あの日以来日課になった、淡白そうな顔にそぐわない、甘いおかえりのキスを。




