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4・頤の雫、口に入らぬ(6)

 どろりとしたおりの中に沈むように、眠っていた。

 寝ている筈なのに、頭のどこかに意識が残っていて、不自然に冴えている。ちりちりと毛が逆立つような不快感が、眠っている間もずっと身体に纏わりついていた。

 不意に、頬に何かあたたかいものが触れて、そこだけふと厭な感覚がやわらいだ。硬質な、でもあたたかい何か。あぁ、この感触には覚えがある。あのひとの──

 基の手だ、と気付いた瞬間に、詩鶴の意識ははっと現実に引き戻された。

 詩鶴の頬を指の背で撫でていた基は、詩鶴と目が合うと、口元だけを動かして微かに笑う。

 「悪い。起こしたな」

 「基さん…」

 ベッドに突っ伏して泣いている内に、いつのまにか眠ってしまっていたらしい。どのくらい眠っていたのか今が何時なのか、何もわからなかった。

 「…今、何時?私どのくらい寝てた?」

 「八時。僕が出てってすぐ寝たなら、二時間くらいじゃないか。疲れたんだろ。このまま寝てていいよ」

 「…どこ行ってたの?」

 「買い物」

 買い物?普段は面倒臭がって大体ネットで済ませているのに、こんな時間に、こんなタイミングで?

 ぼんやりしながらも、詩鶴は不可解に思う。

 部屋には常夜灯だけがいていて、仄暗い。鈍い橙色の薄明かりに淡く浮かぶ基の横顔は、息を呑むほど綺麗で、ひどく穏やかだった。やっぱり朝や昼よりも、夜が似合う人だ。そう、詩鶴は思った。

 「……怒ってないの?」

 詩鶴は半分だけ体を起こして、ベッドの縁に腰掛けた基の腿に、遠慮がちに手をかけた。

 「怒る?どうして?」

 「私、ひどい八つ当たり、したでしょう」

 「あぁ。そうだな」

 そう頷く基は静かに微笑んでいる。怒るどころか、むしろ普段より優しげに見える。

 「まぁ、いいよ。君のことが少しわかったから」

 詩鶴の手に自分の手のひらを重ねて、指の隙間をなぞるように撫でて、絡める。

 「随分、傷付いたんだな」

 「……え…?」

 視線を床に落としたまま、基は絡めた指で掬い取るように、詩鶴の手を握った。

 「そうだよな。当然だ。ひどく傷付いて当たり前だと思う。頭ではわかってたけど、あまり実感がなかった。僕が君に会った時、君はもう立ち上がった後だったから。初めて会った時、君はもう前だけを見る目をしてた。強い人だと思ったよ。──けど、そうろうとしてただけだな。それに気付かなかった僕も、大概鈍い。だからまぁ、八つ当たりくらいは甘んじて受け容れる」

 組み合わされた指をほどいて、基は床に放り置いていた紙袋を手に取る。中から小さな箱を取り出して、詩鶴の手のひらに乗せた。

 「基さん。これ…」

 詩鶴は受け取った箱をじっと見つめる。

 「形あるわかりやすいものも、それなりに役に立つんじゃないかと思ってさ」

 掌上に箱を乗せたきり、見つめるだけで動かないでいる詩鶴を、基は待たなかった。一度渡したそれを取り上げて、自らその箱を開けて中身を取り出す。

 「こういう時の決まり文句があったよな。病める時も健やかなる時も、喜びの時も悲しみの時も…後、何だったっけ?」

 「……富める時も、貧しい時も?」

 「あぁ、それだ。これを愛し、敬い、慰め助け…死が二人を分つまで、真心を尽くす事を誓う──だったか」

 「…決まり文句っていうか…誓いの言葉だよ」

 「うん、わかってる。僕は今、君に誓ってる」

 親指と人差し指でつまんだ小さなリングに視線を落としたまま、基はふっと微笑む。

 「けど君はもう知ってるんだろう。未来永劫変わらない約束なんて、どこにもない。こんな指輪ものを渡そうがどんな言葉で誓おうが、君を心から安心させる事なんて、僕には…きっと僕以外の誰にも、出来ないんだろう。でも残念ながら僕にはこのくらいしかすべがない。それでも──なぁ、詩鶴。わかるかな」

 丁寧に詩鶴の手をすくい上げ、左手の薬指にその指輪を嵌める。

 「僕には背負うものがない。君をうにも、身ひとつだ」

 基は真っ直ぐに詩鶴を見つめ、低い声で囁いた。魔法をかけるように、はっきりと。

 「妻がいて子供がいて…そういう形態の家族を作る事を、僕は確かに望んでいたよ。でもそれは、君と出会う前の話だ。覚えてるかな。あの日、僕は言った筈だ。夫婦二人だけっていうのもそれはそれで一つの家族の形だって」

 あ、と詩鶴は思い出す。

 そうだ、あの時。自分にはやっぱりまだ早いと背を向けた詩鶴に、基は確かにそう言った。早急な出産を目指して挑んだ見合いの場で、わざわざ余計な時間と手間を要する本末転倒な相手である詩鶴を、基はそう言って引き留めた。

 「言ったよな。結婚するなら、家族になるなら君がいい、と」

 あの時、詩鶴は迷った。束の間の短い時間だったけれど、真剣に考えた。

 それでと無数に湧いてくる迷いを振り切って、基と結婚することを決めたのは──信じたいと思ったからだ。信じて、この人と家族になろうと、決めたからだ。

 「君はこの世でたった一人の、僕が選んだ妻だ。誰にも、何にも替えられない。朝起きて誰かと言葉を交わす歓びを、隣り合って寝床につく温かさを、共に明日の糧を味わう楽しみを、君が僕に与えてくれるその全てを、今さらどうして捨てられると思う?」

 …あぁ。この人は本当に、作家なんだ。

 詩鶴の頭には、そんな場違いな思いが浮かんでいた。こんな気障な台詞セリフを、流れるように、照れもせず、つかえもせずに言うなんて。

 「まぁそりゃ僕だって、この上子供が出来たらもっといいとは思ってるよ。けどな、未だ存在すらしない子供と君をはかりに掛けるなら、僕は迷わず君を選ぶ」

 基の指の関節が、こつんと額を小突く。

 詩鶴の額に触れる時、頬を撫でる時。指先じゃなくて指の背の方を使うのは、基の癖だ。関節が当たる少し固くてくすぐったい感覚は、光稀と居た頃には知らないものだった。

 知らなかったのはそれだけじゃない。光稀は早起きが得意で、早朝からジョギングに出掛けるような活発な人だった。基と過ごす朝のような淡く緩やかな時間を、詩鶴は今まで知らなかった。

 そうだ。基は光稀とは全然違う。無理矢理に肩を抱いて逃げ場を奪う強引さも、詩鶴を揶揄って遊ぶ趣味の悪さも、詩鶴を丸め込む巧みな弁舌も、いくつも見た中で詩鶴が唯一試着するほど気に入った指輪をちゃんと憶えていて用意する如才なさも全部。全部、光稀にはないものだった。

 どうして忘れていたんだろう。基と光稀は全然違う人だということ。どうして忘れて、同じ理由で同じ結末を迎えるだなんて、思ってしまったんだろう。

 「……指輪」

 「うん?」

 「基さんのは、ないの?」

 「あるよ。ペアだったからな」

 「…貸して欲しいの」

 基は紙袋からもう一度箱を取り出して、詩鶴に渡した。手に取ったリングは、少し冷たい。

 「着けてもいい?」

 遠慮がちに詩鶴が訊くと、基は黙って左手を差し出した。慎重にその手を取り、輪の中に指を通す。基の薬指に飾り気のない無垢なリングが収まる。

 「詩鶴。君が好きだよ」

 基はそう言って、詩鶴の頬に手を掛ける。詩鶴が瞼を伏せると、どこに残っていたのか、大粒の涙がまた一粒、目頭に浮かんできた。

 「……ありがとう」

 呟いた拍子に零れた涙は、鼻筋を伝って唇の上にぽつりと落ちた。基と交わした初めてのキスは、ほんの少しだけ、しょっぱい味がした。


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