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4・頤の雫、口に入らぬ(5)

 短い沈黙の後に、深い溜息が聞こえた。詩鶴の五感はどこか過敏になって、基の一挙一動の気配に、息遣いに、大袈裟なほどビクッと反応してしまう。

 言った後で怖くなった。受け容れて貰えるかどうかなんて、わからないから。

 基は詩鶴の頬に指を滑らせ、乱れて頬にかかった髪を耳にかけて直してくれる。

 「しようっていうのは、セックスの事でいいんだな?」

 解ってるくせに。わざわざはっきり言葉にして、確認しなくてもいいのに。詩鶴は羞恥に唇をぎゅっと引き結んで、深く頷いた。

 「わかった──なら、おいで」

 力一杯服を掴んでいた詩鶴の指を丁寧な手付きでほどくと、肩を抱いて移動を促してきた。とりあえず、基が自分を拒まなかった事にほっとした。

 おいでというのは、寝室に、という意味だろう。ここはまだ玄関を上がってすぐの廊下。今すぐと言ったのは詩鶴だけれど、さすがにここじゃ何も出来ない。基は詩鶴を誘導し、二階に上がる。寝室のドアを開け、そっと背中を押して中に入るように促した。

 ベッドは今朝二人が抜け出したままの形に乱れていて、その生々しさに、詩鶴の心臓はぎくりと脈打った。

 自分で言い出したことだけれど、本当にこれから、するんだろうか。心の準備なんてまだ、何も出来ていなかったのに。

 だが基は詩鶴をベッドの縁に座らせた後、無言で寝室から出て行った。どうしたんだろう、と詩鶴がどことなく心細い気持ちになっていると、少しして詩鶴のマグカップを手に戻ってくる。手渡されたカップの中には、透明な液体が波々と注がれ、白い湯気を立てていた。

 「……これ、何?」

 「白湯。美味くはないけど、まぁ不味くもないだろ。君の好きな紅茶でも淹れてやれたら良かったんだけど、置き場所も淹れ方もわからなかった」

 そう言って毛布を引っ張り上げると、詩鶴の肩にばさっと掛ける。

 「とりあえず暖まった方がいい。君の体、死人みたいに冷たいぞ。体温調節機能が働いてないんだ。自律神経やられてるんじゃないのか」

 雑だ。彼なりに気遣ってくれているのはわかるが、言動の全てが雑だった。一口飲んだ白湯は当たり前だが味がしないし、毛布はかろうじて片方の肩先が引っかかっている程度で、今にもはだけ落ちそうだ。

 だがその雑さが逆に、詩鶴の強張っていた気持ちをほぐしてくれる。緩んだ口元で、詩鶴は尋ねた。

 「……しないの?」

 「する訳ないだろ。何ヶ月も従順に待って、何が悲しくてわざわざこんな明らかにおかしな空気の中でやらなきゃいけないんだよ」

 「ちっとも従順ではないけど…」

 「大体な。散々お預け喰らわせといて、いざしようって時のセリフが『今すぐ子供作ろう』って、あんまりにも即物的だと思わないか。おまけに玄関だぞ?どういう了見だよ。君には情緒ってものがないのか」

 「…あ、はい。すみません」 

 怒られた。

 叱られた子供がそうするように肩を窄めて小さくなった詩鶴を、基は呆れ顔で眺める。

 「僕は君とセックスする事自体は、決してやぶさかじゃない。本気で子供が欲しくなったって言うならいつでも応じるし、まだその覚悟は出来ないけど単に性欲を解消したいって言うんなら避妊して事に及ぶのも辞さない。けど今は、そのどっちでもないだろ」

 その気になればいくらでも婉曲表現を使いこなせる癖に、どうしてこういう時に限って物言いが明けけなのか。詩鶴はがっくり肩を落として「どっちでもないです」と正直に答えた。

 基はフンと鼻で息を吐いて、詩鶴の隣に腰を下ろす。ずり落ちていた毛布をもう一度広げて、詩鶴にぐるぐる巻き付けた。詩鶴は雪だるまのようになり果て、冷えていた筈が、むしろ暑いとさえ感じる。

 「なぁ詩鶴。僕たちは理性も情もある人間のつがいだ。衝動に任せて種の存続に走る前に、出来る事があるだろう」

 「種の存続…?」

 まだ頭と心の整理が出来ていない状態の詩鶴にとって、彼独特の表現は難解だ。言わんとする事に理解が及ばず、詩鶴はぽかんとする。

 「出来る事ってなぁに?あとこの毛布、ちょっと巻きがきつい」

 基は仕方ないなというように嘆息して、巻き付けた毛布をほどきにかかる。

 「話をしよう。人は対話なくして互いを理解することは出来ない」

 基は結局毛布を全部取り払ってしまった。文句を言ったのは自分だが、守ってくれる暖かいものを取り除かれて、詩鶴は少し心許こころもとない気持ちになる。

 けれどその心細さは、すぐに基が埋めてくれた。ゆるりと詩鶴を抱き寄せて、背中を優しく叩き、撫でてくれる。基の体は毛布よりずっと温かかった。

 「僕たちは夫婦だ。二人の間にある問題は、二人で話し合って決着をつけよう」

 詩鶴は基の胸に額を当てて、深呼吸をする。気持ちいい、と思った。基にこうしてもらうのは、気持ち良くて、楽だ。詩鶴はただ彼にりかかり、甘やかされているだけで良かった。

 「……うん。そうだね。基さんの言うとおりだ」

 そう呟いた詩鶴の頭をぽんぽんと軽く叩いて、基は少し体を離した。

 「話してくれるな?何をそんなに思い詰めているのか」

 うんと素直に頷いて、詩鶴はムナカタタカムネに聞いた話を、訥々《とつとつ》と話し始めた。


 掻いつまんで話せば、短い話だ。

 ムナカタタカムネが〈vita〉を使っての見合結婚をしたこと。けれど、約二年間の結婚生活の中で子供が出来なかったこと。それが原因で、離婚に至ったこと。話を聞き終えると、基は「ふぅん」とどうにも関心が薄そうな相槌を打った。

 「ふぅんって…それだけ?」

 「それだけと言えばまぁそれだけだな。所詮他人事だ」

 あっさりと言い捨てる基に、詩鶴は唖然とする。

 「ひ…他人事(ひとごと)じゃなくない?私達と同じシステム使って結婚した人たちが、子供出来ずに二年で離婚しちゃったんだよ」

 基は考え込むように口元に手を当てて、真っ直ぐに詩鶴を見つめる。

 「正直、よくわからない」

 「え…」

 感情の読み取り難い黒目がちな瞳にまじまじと見つめられ、詩鶴は戸惑った。

 「ムナ…何だっけか、その回文みたいな名前の作家と元妻の間に子供が出来ず離婚したからといって、何で僕らが今すぐ子供を作ろうって話になるんだ」

 「だ…だって私達だって、そうなるかもしれないんだよ?子供が欲しくなっても出来なくて、それで…って、不安にならない?だから少しでも早く、ちゃんと子供が出来るかどうか確かめる為に…」

 「確かめるったって一朝一夕いっちょういっせきで確認出来るもんじゃない。元々二パーセント弱は一年経っても子供が出来ないってデータは開示されてる。百組いればその内一組か二組はそうなんだ。そこまで珍しいものでもない。なぁ詩鶴。何をそんなに焦ってる?何がそんなに不安なんだ。その気になればすぐに妊娠出来ると思ってたのに、予想より時間がかかるかもしれないって事か?それとも、子供がなかなか出来ないって理由で離婚する事か?」

 「……どっちもだよ。だってその二つは繋がってる。同じことでしょ」

 「同じこと?」

 基は眉を跳ね上げて、不可解そうな顔をする。

 「何でだよ。仮に僕らがその二パーセントに含まれてたとして、予定よりも妊娠に時間がかかるってだけだろ。一生二人の間に子供が出来ないと決まった訳じゃない。まぁ〈vita〉を使ったメリットはあまりなかったって話にはなるけど、僕は──」

 「だって私達、妊娠成功率だけを理由に結婚した夫婦じゃない」

 詩鶴は苛立って、基の言葉を遮った。

 あぁ、駄目だ。神経が昂ぶる。感情がひりつく。だって基と自分との間には、明らかに温度差がある。それが詩鶴を、どうしようもなく苛立たせる。それぞれの抱える事情や希望、これまでの失敗、見聞きした誰かの経験、ムナカタタカムネの涙、様々な記憶が頭の中で渦巻いて、ないまぜになって、どんどん混乱していく。

 基の結婚は二度目だ。その人との間にすぐに子供が出来ていれば、その婚姻は今も継続していたかもしれない。そうしたら基と詩鶴は、こうして夫婦になる事もなかった筈だ。彼の方から最初の結婚のことを話題にすることは普段はないけれど、経験と呼ぶに足るものじゃなかったとか隠すほどの事案はないとか──とにかく淡白極まりない言い方をする。短い間とは言え、愛情がなかったとはいえ、夫婦であったことは紛れもない事実なのに。まるでムナカタタカムネの元の妻と、同じじゃないか。

 「…同じだよ」

 そして詩鶴に対しても。きっと同じなのだ。

 「基さん、言ってた。目的が一致する相手が良かったって。目的が果たせないなら、基さんもきっと私のことがらなくなる。もし長い間、何年も子供が出来なかったら、私と夫婦でいた時間は無駄だったって、きっと思うんだよ」

 言葉にしてしまったら、詩鶴の苛立ちはさらに膨れ上がった。

 そうなったら詩鶴との結婚生活も、取るに足らないものだったと言われて、終わる。今がどんなに優しくても。まるで恋人にするみたいに慈しみ深く触れたことも、一緒に過ごした穏やかな朝も、みんなみんな、無かったことにして。

 また別の誰かを、すぐに子供を作れる誰かを、探すんだ。

 苛立ち、焦燥、不安。どす黒くて重苦しくて、厭なもの。頭から爪先まで膨れ上がって、今にも破裂しそうだった。そんな詩鶴を見て、基は呆れているようだった。

 「…あのな。少し落ち着け。僕の話も──」

 肩に手を掛けようとした基の手を、詩鶴はぱしっと払い落とした。

 ムナカタタカムネの元妻が彼にしたこと、前妻に対する基の態度。

 同じだ。みんな同じだ。だって──…


 「──だって光稀もそうだった…!」


 『ごめんな』

 頭の中で生々しく、光稀の声が甦える。どうして、と問うた詩鶴に『子供が』と答えたその声も。

 積み重ねてきた時間が消えるのなんて、一瞬だ。

 (私はあの時と、同じことを繰り返そうとしているだけかもしれない)

 詩鶴の目から涙が溢れ、ぼろぼろと零れ落ちる。

 基は振り払われて行き場を失った掌を宙に浮かせたまま、黙っていた。

 

 「──わかった」


 長い沈黙の後、基はそう一言だけ呟いた。そして静かに立ち上がって、寝室から出て行った。


 基の気配が部屋から消えると同時に、ひどい後悔が襲ってくる。

 言ってはいけないことを言ってしまった。

 詩鶴のその傷は、光稀から与えられたもの。無関係な基に押し付けていいものではなかった。

 そう悔やんでも、一度投げつけてしまった言葉はもう二度と、記憶から消すことも取り返すことも出来ない。

 一人きりになった寝室には、詩鶴の嗚咽だけが重く響いていた。

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