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4・頤の雫、口に入らぬ(4)

 読み聞かせ会は午後、お弁当時間の後で行われる予定だった。お腹が満たされて眠くなる子供もいるかもしれないが、眠気で大人しくしていてくれるならむしろ都合がいい。そんな大人の打算も含まれていた。

 「詩鶴先生、ムナカタ先生いらっしゃいましたよー」

 「はっ、はーい!すぐ行きます」

 お弁当時間の真っ最中に呼ばれて、詩鶴は慌てて弁当の残りを掻き込んだ。

 読み聞かせ会の責任者は詩鶴になった。理由は単純、ジャンケンで負けたのだ。

 「園長室でお待ち頂いてますよー」

 昼食中の事務員が詩鶴に声をかける。詩鶴は「はーい」と返事して園長室のある二階へ駆け上がった。

 「お待たせしましたっ…」

 息を切らしながら詩鶴が園長室のドアを開けると、恐縮した様子でソファに座っていた男の人がぱっと立ち上がって、深々と頭を下げた。

 「きょ、今日はありがとうございます。貴重なお時間と場所をご用意いただきまして…あの、失敗しないように頑張りますので何卒よろしくお願いします」

 「あ、いえ、こちらこそわざわざ御足労ありがとうございます」

 平身低頭の挨拶に、詩鶴は拍子抜けした。詩鶴が知る作家業の人間は一人しかいない。彼を基準にするのもなんだが、次に出会う作家も不遜であったり胡散臭かったりするかもしれないと、一応の覚悟はしていた。だがムナカタタカムネの第一印象はそれとはかけ離れている。

 ペコペコ頭を下げるその人の姿を改めて眺めて、詩鶴はふと、あれ?と思った。

 男性にしては小柄で、ふんわり肉付きの良い丸い体型。無闇やたらに腰の低い、その態度。

 どこかで、見たような気がする。

 記憶を探っている内に、はっと思い当たった。

 「──あっ」

 詩鶴が短く発した鋭い声に、相手も首を傾げて詩鶴を見返す。そしてすぐに、はっと悟ったように目を見開いた。

 「基さんのファンの人…!」

 「瀬尾先生の彼女さん…!」

 二人の声が重なる。

 そう。本屋のカフェで基に声を掛けてきたあの男性が。ムナカタタカムネ、その人だった。


♢♢♢

 

 多少緊張している様子はあったものの、ムナカタタカムネの朗読は、思ったよりも達者なものだった。普通の会話でもつっかえがちだったのが、やはり自分の作品だからだろうか、スムーズに読み進めていたし、気持ちの乗せどころもツボを押さえている。子供たちの反応も上々で盛況の内に終わり、詩鶴もムナカタタカムネも胸を撫で下ろしていた。

 「お疲れ様でした。読み聞かせ会の後まで残って頂いて…子供たちも喜んでました。ありがとうございます」

 園長室の対面ソファに向かい合って座り、詩鶴は頭を下げた。読み聞かせ会の後に園児達に囲まれたムナカタタカムネは、降園時間まで居残って、快く子供達の遊び相手をしてくれたのだ。

 「いえいえ、こちらこそ…自分の絵本で子供達が喜んでる顔を見られるなんて、本当に夢みたいで。幸せです」

 額の汗をタオルで拭きながら、ムナカタタカムネは笑う。営業目的だと聞いていたが、そうとは思えないほど嬉しそうな顔をしていた。

 「やー、面白かったぁ!最後の花から飛び出すシーンとかサイコーでした。クラッカーでも鳴らしたいような気分になっちゃいましたよー」

 トレイに乗せた冷たいお茶をテーブルに置きながら、乃絵が明るく笑う。人懐こいのはいいが少々砕け過ぎではないかと詩鶴はハラハラしたが、ムナカタタカムネは「いやいやそんな」と満更でも無さそうに照れている。

 お茶を出しに来ただけの筈の乃絵は、そのまますとんと詩鶴の横に腰を下ろした。

 「でもびっくりですね。詩鶴先輩とムナカタ先生が面識あるだなんて」

 「いや、本当に。僕もお会いした時びっくりで…瀬尾先生の彼女さんが見られてると思うと、いつも以上に緊張しちゃいました」

 あ、と詩鶴はムナカタタカムネの発した『彼女』という言葉に引っ掛かりを覚えた。そういえばさっきもそう言っていたな、でもわざわざ訂正する程でもないか…とやり過ごそうとした瞬間に、すかさず乃絵が口を挟む。

 「彼女じゃなくて奥さんなんですよ!瀬尾さんの奥さん」

 「えぇっ。御結婚されてたんですか⁈佐木先生お若いし苗字も違うし結婚指輪もされてないから、恋人なんだとばっかり…。大変失礼しました」

 ムナカタタカムネは何度も頭を下げる。

 詩鶴は内心、指輪を着けていないと指摘された事にぎくっとした。やはりあれは男女間の関係性の明示に役立つアイテムなのだ、と実感する。

 「えーと、戸籍上は瀬尾なんですけど、途中で名前が変わると子供達が混乱するから、今年度はこのまま旧姓でいこうと思いまして…」

 話を指輪から逸らし、説明しやすい事実から告げる。年度が変わればクラス替えがあり、受け持ち児童も変わる。そのタイミングで仕事上の名前も変更する予定だったのだ。

 「あぁ!じゃあまだ新婚さんなんですね」

 ムナカタタカムネは納得して、大きく頷いた。詩鶴もそうなんですと頷いてその話題は終わるかとホッとしたところで、乃絵が口を突っ込む。

 「ほらぁ先輩、だから指輪くらい貰っとけばって言ったのに!」

 「ちょ、ちょっと乃絵ちゃん。何も今そんな話しなくても」

 結婚の話から遠ざかろうとした詩鶴のささやかな努力が台無しだ。むしろ話が広がってしまう。

 「だってムナカタ先生、瀬尾さんのファンなんですよね?瀬尾さんがファンから指輪も買ってやらないケチな男だと思われたらかわいそうじゃないですか。ムナカタ先生、瀬尾さんはね…」

 乃絵は無遠慮にペラペラと指輪の件を話し始める。ほぼ初対面同然の相手に聞かせる話ではないと思ったが、乃絵のおしゃべりは一度話し始めたら止まらない、と諦めた。

 「そんな事が…さすが瀬尾先生、ダイナミックでスマートですねぇ。佐木先生の慎ましさとバランス取れてて、素敵なご夫婦だなぁ」

 「や、お恥ずかしい…すみません、こんな話…」

 詩鶴からしたら自分がケチで優柔不断なことを知られてしまったみたいで居た堪れなかったが、ムナカタタカムネは柔らかい表現でフォローしてくれる。

 「尊敬する作家さんの裏話が聞けて嬉しいです。僕も…」

 ムナカタタカムネはそこで言葉を切って、ぽろぽろと涙を零した。

 詩鶴と乃絵は思わず「えっ!?」と驚きの声を揃える。

 「ど、どうしました、ムナカタ先生」

 「す…すみません…」

 乃絵が慌ててティッシュの箱を持って来て、ムナカタタカムネに手渡す。

 「僕も瀬尾先生くらいイケメンで実力と甲斐性があったら妻に去られなくて済んだのかなぁ、と、思ったらつい…」

 ずびずびと鼻を鳴らしながら涙を流し続けるムナカタタカムネに、掛ける言葉も見つからず、詩鶴と乃絵は顔を見合わせた。

 静まり返った園長室に、ムナカタタカムネの鼻水を啜る音が鈍く響く。どんよりした重たい空気に耐えかねて、一番に口を開いたのは乃絵だった。

 「え…えっとぉ…ムナカタ先生、結婚されてたんですねー?」

 無理矢理明るい笑顔を作り、普段より一段階高いトーンで陽気に尋ねる。詩鶴はこらっと小声で諌め、肘で乃絵をどついた。話を逸らせばいいものを、何故あえて深入りするような真似をするのか。この空気を打破しようとした努力は認めるが、どう考えても悪手だ。案の定、ムナカタタカムネは乃絵の問い掛けに、うぅっとさらに嘆きを深める。

 「そう…そうです。そうだったんです。とはいえもう離婚して半年以上経ってしまったんですが…」

 ムナカタタカムネは、元々丸いフォルムの背中をさらに丸めてうなだれる。

 「…離婚を望んだのは妻の方です。僕は彼女の事を、妻として大切に思っていました。でも彼女は違ったんです。元々僕たちは恋愛関係じゃなくて〈vita〉でマッチングされた、出産ありきの関係だったので──」

 「ゲフッ」

 不意打ちで詩鶴にとって他人事でない単語が出て来たので、危うく飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。

 「だ、大丈夫ですか?佐木先生」

 「あー、大丈夫大丈夫。気にせず続けて下さい」

 液体を吐き出すのはかろうじて踏み止まったものの、げっほげっほとむせ返る詩鶴にティッシュを渡しながら、乃絵が代わりに答える。ムナカタタカムネは心配そうにしていたが、促されて話を続けた。

 「…約二年間の結婚生活で、僕らの間に子供は出来ませんでした。彼女は子供を強く望んでいて、僕を選んだのは単純に妊娠成功率が高かったからです。僕は見ての通りパッとしない男ですから、彼女にとっては他に僕と結婚するメリットなんてありません。…でも僕は結局、彼女が求めるものを与える事が出来なかった。だから彼女が愛想を尽かして出て行ってしまったのも、仕方ないことで…」

 「──え?」

 ムナカタタカムネの言葉に、詩鶴はぱっと顔を上げて目を見開いた。

 「二年も子供が出来なかったって…だって…だって〈vita〉を使ってマッチングされたんですよね?」

 ムナカタタカムネが頷いたので、詩鶴は混乱する。

 以前ニュースで知った。統計では〈vita〉でマッチングされたカップルの内、六割は三ヶ月以内、八割以上が半年以内に妊娠に成功している。一年経っても妊娠が確認出来ないカップルは二パーセントにも満たないというデータが出ていた筈だ。より速やかにより確実に、妊娠を成功させる為のシステム。利用する多くの人がそこにメリットを感じている。それは基も、詩鶴も同じだ。以前、基も言っていた──詩鶴となら、その気になればすぐに子を持つことが出来る、と。

 だが実際、ムナカタ元夫妻の間には二年もの間、子供が出来なかった。彼らはデータが示す二パーセント弱に含まれる、少数派の事例だったのかもしれない。でも、そうだったとしても。

 現実を突きつけられた気がした。当たり前の事かもしれないが、最新鋭の技術だシステムだと言っても、完全ではない。現にこうして目の前に、望みが叶わなかった人がいる。詩鶴と基がそうはならないと──誰が言い切れるだろう。

 「……もし《《そう》》だったら、私たち、何の為に──」

 詩鶴の独り言は、ドアをノックする音に打ち消された。こちらの返事を待たずにドアが開き、園長が顔を出す。

 「あら、ムナカタ先生。本日はどうもありがとうございました。ご挨拶が遅くなってごめんなさいね。私が園長の……」

 園長の長い挨拶が始まり、ムナカタタカムネも恐縮して、立ち上がって頭を下げる。そこでこの話題は、打ち切りになった。

 別れ際にムナカタタカムネとどんな言葉を交わしたのか、詩鶴はほとんど覚えていなかった。


          ♢♢♢


 物音で気付いたのか、詩鶴が帰宅すると基が仕事部屋から出て来て「おかえり」と言った。

 「随分早かったな。仕事終わったって連絡ないから、残業でもしてるのかと思ってた」

 いつもは仕事を終えたタイミングで『今から帰るね』とメッセージを入れているのに、今日はすっぽり頭から抜け落ちていた。

 「あ…ごめん。忘れてた。そういえば、夕飯の買い物してくるのも、忘れた…」

 普段は仕事帰りにスーパーに寄って帰るのだが、それも忘れて吸い寄せられるようにまっすぐに帰ってきてしまった。帰宅が早かったのはそのせいだ。

 詩鶴は空っぽの両手を、じっと見つめる。

 「忘れた?それは別にいいけど…どうした?何か変な顔してるな」

 基が傍に来て、詩鶴の額に掌を当てる。

 外は北風が強く、寒気が詩鶴の身体をひどく冷やし、強張らせていた。自分の冷えきった体が基の手のひらの熱を、あっという間に奪っていくのがわかる。

 唐突に、ぞっとした。

 それと同じように、私は今、この人の時間を奪っているのかもしれない。詩鶴の気落ちの整理がつくのを待つと言ってくれた、この人の時間を。もしかすると、この先何年も───…

 「──基さん」

 詩鶴は基の胸に勢いよく飛び込んで、両手でぎゅっと服を掴んだ。突然抱きつかれた基は少しよろめいたが、全身を預けてくる詩鶴の背中に手を回して、しっかり支える。

 「危ないな。どうしたんだよ、急に」

 「基さん。しよう。今すぐ──子供、作ろう」

 基は少し驚いたように目を見開いて、瞬きもせずに詩鶴を見つめる。腕の中から見上げてくる詩鶴の瞳は、熱をもって赤く潤み、歪んでいた。

 

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