4・頤の雫、口に入らぬ(3)
ベッドの中で、基は小さなノートパソコンを開いている。
タタタタ、タタタン、タタ、タタタ、タタタタタ。
キーボードを叩く音が安定した拍を刻んでいる。淀みなく迷いなく、紡ぎ出されていく物語。
仕事部屋は調べ物をする時や集中したい深夜に使うことが多いらしく、普段、基はこの小さなノートパソコンを持ち歩いて、どこででも仕事をしている。どこででも書いている。夜が更けて人々の眠る時間が訪れても基はまだ、彼の頭の中にしか存在しない別の物語の中にいる。
けれど詩鶴が寝室に入るとすぐに、基はキーボードを打つ手を止めて、ぱたんと画面を閉じる。その度に詩鶴は少し惜しむような気持ちになる。あぁ、今私が邪魔をしなければ、物語は途切れることなく続いていたのかもしれない、と。
「仕事してたんでしょう?続けてくれていいよ?」
詩鶴がそう気遣っても、基は笑うだけだ。
「年中無休昼夜問わずの仕事だぞ。何なら夢の中でまで書いてるんだから、君といる時くらい休憩させてくれ」
一緒に眠る事に慣れてから、気が付いた。大抵の夜、基は詩鶴と一緒にベッドに入るけれど、朝起きるといつも、隣に基の姿はない。詩鶴が呑気に夢の世界にいる間、基は一人そっと部屋を出て、PCを開き仕事を再開する。いつ起きているんだろう。早起きしているというよりは、束の間ベッドに入っただけで、少しも眠っていないのかもしれない。詩鶴は寝付きが良くてすぐに眠ってしまうから、それを見届けたらすぐに仕事に戻っているのかもしれない。一人でいる時、基がどんなふうに過ごしているのか、詩鶴にはわからない。眠る時間を削って仕事をしているのだろうか。それとも昼に寝て夜に活動するサイクルなのか。一度聞いたことがあるけれど、「仕事をしているだけだよ。つまらないだろ?」と冗談めかして笑っただけだった。詩鶴はただ一言、つまらくなんてない、と答えた。それにしても、自分はまだ眠る予定ではないのにも関わらず、わざわざ詩鶴の就寝時間に合わせてベッドで待っているのはどうしてなんだろう。
朝起きて基が仕事部屋に籠もっている時は、詩鶴からは敢えて声を掛けない。集中しているかもしれないからだ。けれど詩鶴が起きて朝食の支度を始めると気配で気付くのか、基が自らリビングに現れて「おはよう」と挨拶をする。詩鶴は何も聞かずに、ただ「おはよう」と返事をして、二人分の朝食を食卓に並べる。
基はいつでも何かを書いている。参考資料や文献を読んでいる時もある。時々は打ち合わせだと言って外出する事もあるけれど、大勢の子供たちに囲まれた賑やかな環境で働く自分と比べるまでもなく、孤独な仕事だと詩鶴は思う。実際詩鶴と住むまでは、丸一日誰とも会話を交わさない日も多かったと言っていた。
「君と暮らし始めて、僕はようやく人間になった気がするよ」
向かい合って食事をしている時。お風呂上がりの濡れた髪から滴る雫をタオルで拭いてあげた時。暗闇の中で画面だけを光らせて作業する基にコーヒーを差し出して、部屋の明かりを点けた時。基は時折、そんなことを言った。
♢♢♢
目玉焼きとトーストを出すと、基はパンの上に卵を乗せてひとまとめにして食べる。
「ラピュタパンだ」
「そう呼ぶの?」
「うん。トーストに目玉焼きを乗せたやつ。私その食べ方、うまく出来ないんだよね」
「そんな高い技術を求められるものか?」
基は手に持ったトーストと詩鶴を見比べながら、首を傾げる。
「目玉焼きがパンから落ちちゃって、結局別々に食べることになるの」
「あぁ。詩鶴の口の大きさとパンのサイズが合ってないんだよ。もっと薄いパンを使えばいい」
基は小さく笑って、また一口パンを齧った。
今朝起きた時、基は珍しく隣で眠っていた。深夜まで仕事をしていたのかもしれないから、このまま寝かせておこう。朝食は置いておけば、起きてから食べるだろうから。そう思って支度をしている最中に、基が起きてきた。気怠そうに髪を掻き上げながら、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して飲む。食卓に着いて詩鶴が用意した朝食を口にしても、まだまだ瞼が重たげだ。
「もっと寝てていいのに」
「だって君、必ず僕の分の朝食も作るだろう」
「無理して食べなくてもいいよ。勝手に作ってるだけだもん」
「無理してるわけじゃないさ」
そうは見えないけど、と詩鶴は口を尖らせたけれど、基はひっそり微笑むだけ。寝起きの基は、普段よりちょっと言葉数が少ない。
「…あ、そうだ。そういえば基さん、ムナカタタカムネっていう絵本作家さん知ってる?」
「ムナカタタカ…?いや、知らないな」
「そっか、まだ一冊目の絵本出したばっかりって話だったからなぁ。あのね、その作家さんが、来週うちの園に来てくれるんだよ」
「へぇ。教員向けの講演会か何か?」
「ううん、園児向けの読み聞かせ会。まだデビューしたばっかりでファンが少ないから、営業活動の一環で区内の幼稚園や保育園を回って、自分の絵本の朗読してるんだって。うちの幼稚園と同じ区内に住んでるらしいんだよね」
「なるほど。いいと思うよ。そういう地道な営業行脚の反響は馬鹿に出来ないからな」
「同業者らしいご意見」
詩鶴はあははと笑った。
基は小さな欠伸をしながら、ゆっくりとコーヒーを飲む。
朝の光の中で会う基は、夜に会う彼と同じ人物なのに、何故かどことなく存在が淡い。
豊富な語彙と複雑怪奇な思考回路ゆえか、基にはどこか深遠な空気が漂う。気怠げな外見の雰囲気も相まって、明るい陽射しよりも夜の陰影の方が似合うひとだ。自分でも朝は弱い、怠い、頭の働きが鈍くなるなどと、よく朝に対する文句を言っている。この時間は本領発揮が出来ないだそうだ。夜行性の生き物みたい。
でも詩鶴は、朝のこの少しぼんやりとした基と過ごす時間が、なんとなく好きだった。
「園でも何冊か購入したから、今日持って帰って来るよ。基さんも読んでみて?」
淡い朝陽を纏った基は「うん」と素直に頷いた。
♢♢♢
夜になって、詩鶴が園から持ち帰った絵本を差し出すと、基は淡々とした口調で「読んで」とねだってきた。
「読んで?いや、なんで?」
思わず詩鶴が尻込みすると、いつものようにがっちり肩を抱かれて逃げ場を奪われる。
「いいじゃないか。子供たちには読んで聞かせてるんだろ?」
「大人の方にはご遠慮いただいてます」
「保護者参観の練習だと思えばいいよ。そうだな、ちょうどいい時間だし、ベッドの中で聞かせてもらおうか」
「やめて。基さんが言うと絵本の読み聞かせが卑猥なものに聞こえる」
食事も風呂も済ませて後は寝るだけ。普段寝室に向かう頃合いだった。詩鶴は強引に寝室に連行され、ベッドに座らせられる。
ヘッドボードに背中を預けた基は、並んでベッドに腰掛けて再び詩鶴の肩を抱いた。あからさまに乗り気じゃない詩鶴の耳元に顔を寄せ、指に髪を絡ませて弄びながら急かしてくる。
「ほら詩鶴、読んでごらん」
「参観中にこんなセクハラかましてくる保護者いないんだけど」
文句を言うものの、詩鶴も彼のこの手の悪ふざけに慣れつつある。どうせ言い出したら聞かないのだし、まぁいいやと投げやりになって、渋々絵本を開いた。
「じゃあ読みます。『ぜんぶぬいだら』」
「タイトルが秀逸だ。この状況を見ているかのようだな」
基がいっそう身を寄せて、全部脱いだら?と勝手に疑問符を追加して詩鶴のルームウェアの首元を引っ張る。
「大人しく聞けない子は部屋から出て行って貰いますよ」
基の体を肘で押し返すが、涼しい顔をして気にも留めない。詩鶴は諦めて読み始めた。
「…ぼくはふくをきるのがすき。あたまのてっぺんからつまさきまでつながった、きぐるみみたいなふくがすき。きょうのぼくはなんと、ななまいもふくをきてる…」
カラフルでダイナミック。上手いのか下手なのかよくわからない個性的なタッチだが、子供が喜びそうな絵柄だった。
主人公の男の子は、最初のページではライオンの着ぐるみを着ている。
「らいおんのふくをきれば、つよくなったきもちになれる。がおー!…でもおともだちは、こわいっていってにげちゃった。だからぼくはこのふくをぬいだ。つぎのふくは…きれいなおうむ。そらをとべるかもってきもちになれる」
けれどオウムは人の口真似ばかりするので、鬱陶しがられて少年はまたひとりぼっちになってしまう。その服も脱いで、次の服を披露する。次はチーター。誰より速く走れるけれど、速すぎて誰もついてこれない。それも脱いで次は…と、どんどん脱いでいる内に、ついに裸ん坊になってしまった。裸ん坊の少年は、みんなから指をさされ笑われる。悲しくなった少年は──
「もう!ぼくもぬいじゃえ!…そうしてぼくをぬいだぼくは、からっぽになった。ぼくがなぁんにも、なくなっちゃった」
そのページは真っ白の中に、文字だけが浮かんでいる。大人の詩鶴でも一瞬どきっとする演出だった。
「『──だけどよく見たら、そこにはひとつの種が落ちていた』」
一瞬声を詰まらせた詩鶴に代わって、横から手を伸ばした基がはらりとページをめくって続きを読む。
「『その種は誰も見たこともないくらい大きくて、綺麗な虹色をしてる。皆はなんだなんだと集まった。土をかけ水をやり、お日さまの光に当てて、芽が出るのを楽しみにした』」
基の低い声が、詩鶴の鼓膜を静かに震わせる。
「『やがて芽が出て葉が出て茎が伸び、しゅるしゅる背が高くなって、蕾ができた。しばらくしたら花が咲き、僕はついに、蕾の中から飛び出した』」
色鮮やかな美しい花の中から、ぽん!と勢いよく飛び出す裸の少年。驚いた顔でそれを取り巻くのは、裸の彼を笑った大人と友人達だ。
基に視線で促され、詩鶴は最後の一ページを読み上げる。
「ぼくはまえとおんなじ、はだかんぼ。でもみんな、こんどはおかえりって、よろこんだ…」
少年が皆に取り囲まれ抱き締められているシーンで、物語は終わる。
おしまい、と締めくくり、基はぱたんと絵本を閉じた。
「寓意を含んだ作品だ」
「そうだねぇ。大人の私でも、ちゃんと理解出来たのかどうかよくわからない」
「解釈は読み手の自由だ。作者の意図を正確に読み取る事が重要って訳じゃない」
肩に回した手の甲で、基は詩鶴の頬を軽く撫でた。
「君はこの物語を読んで、何を思う?」
「んー…まずは裸の男の子が笑われるとこで、なんで笑うの?裸で何がいけないの?って思った。子供なんだから裸で遊んでてもいいじゃん。一応パンツは履いてたし」
「なるほど。君らしい」
「あとは最後の、花から出てきたら喜んだって場面で、なんでさっきは笑ったのに今度は喜んだの?って。さっきとおんなじ裸の男の子なのに。綺麗な花から出て来たからって理由なら、そんな事で態度変えるのちょっと都合良くない?って」
「それも君らしい」
基は愉しげに喉の奥で笑い、よしよしと詩鶴の頭を撫でた。何となく子供扱いされているような気持ちになって、詩鶴は頬を膨らませる。
「何よ、もう。なら基さんはどう思ったの?」
「僕は君が裸ん坊でも笑わない」
即答した基を、詩鶴は横目で睨む。
「またそういう事ばっかり。真面目に答えてよ」
「大真面目だよ。僕は決して裸の君を笑わない。なんなら裸の君がいい。種の君を大切に育て見守るし、花から出て来る君のことを誰より早く迎えたい」
そう言って詩鶴の前髪を掻き上げた基は、確かに嘘のない顔で微笑んでいた。指の背で頬を撫でてから、優しく詩鶴を抱き締めて、すぐに解放する。ほんの一瞬の抱擁だった。基に抱き締められるのは初めてでもないのに、なぜか今日はいつもと違って、抗う気持ちが起きなかった。どうしてそんなにすぐに、離れてしまうの。詩鶴は息を詰めて、夜の森のような深い色の瞳を見詰めた。
「──蕾から出て来た君は、どんな姿をしているんだろうな」
基はそう呟いて、詩鶴の頬に優しく唇で触れた。その瞬間、唐突に、乃絵の声が脳裏に蘇る。
『後悔してるんですか?』
あの時乃絵にそう聞かれ、答えそびれてしまった。
してないよ。
不思議なくらい、ちっともしてないんだよ。
本当は、そう言いたかったんだ。




