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4・頤の雫、口に入らぬ(2)

 本屋のビルを出た後は、基の用事に付き合う約束をしていた。

 「お買い物したいって言ってたよね。何が欲しいの?どこに行くの?」

 「もう着くよ。すぐそこだ」

 「え……あそこ?」

 基が示した指の先に視線を遣った詩鶴は、不審そうに眉を顰めた。

 そこは高級店が立ち並ぶ大通りの中でも際立った風格を漂わせる、老舗のジュエリーショップだ。某国王室御用達、百年を超える歴史を誇る世界的有名宝飾店である。

 「あんなとこに何の用があるの?」

 むくむくと首をもたげる不安感を前面に出して、詩鶴は何歩か後退あとずさった。

 「買い物だよ」

 「あんな店で何を買うというの?」

 「結婚指輪」

 「───あっ…」

 詩鶴ははっとして、思わず大きな声を上げた。

 基がまた詩鶴を揶揄う為に、訳の分からない遊びを始めたのかと思ったが──そうではなかったらしい。すとんと腑に落ちた。

 「まだ買ってなかったろ?」

 花より実を取るような利害一致、スピード重視のお見合い結婚で、結納だの結婚式だの儀礼的なものは全てすっ飛ばした。婚約指輪も結婚指輪も、存在そのものが頭から抜け落ちていたのだ。

 「そんなものも、あったね…」

 「だいぶ遅くなったけど、君の好きなものを選ぶといい」

 基はさっさと詩鶴の手を引いて店に入ろうとする。だが詩鶴は力任せにその手を引っ張り、引き留めた。

 「いやっ、結婚指輪を買うのはいいけど、いいんだけどね?こんな店じゃなくていい!」

 「あんなとことかこんな店とか、随分な言い草だな。ここじゃ不満か?」

 「不満じゃなくて、逆。高級過ぎて私には分不相応だよ。私なんて水仕事多いし何なら泥だらけにもなるし失くし物も多いし、そんないいもの身につけるの怖いもん。十万…いや、五万以下の物でお願いしたいです、是非」

 そんな価格帯の物はまず売っていないだろうこの店に、足を踏み入れる事すらおこがましい。

 詩鶴は尻込みして基の手を振り払い、どんどん後退して行った。

 「汚すのや失くすのが怖いなら、仕事の日は家に置いとけばいいだろ」

 「そしたら使う時ほとんどないもん。勿体ないから余計に安い物の方がいい」

 基はふぅん、と難しい顔をして考え込んだ。

 「僕も詳しかないけど、ここなら間違いなく喜ぶって今日会った編集が言ってたんだけどな。価値観の相違ってやつか。まぁいい。とりあえず見るだけ見て、気に入るのがなければ別の店に行けばいいだろ。ほら、おいで」

 基はもう一度詩鶴の手を取って、引き摺るように店の中に入る。ドアを開けると同時に、ヒューマノイドかと思うほど美しい店員さんがAIかと思うほど完璧な対応で案内をしてくれて、もう逃げられなくなってしまった。

 いくつかの商品を目の前に並べられるが、心は此処に在らずだ。詩鶴の鈍い反応を見て、店員は「別の物をご用意します」と離席した。

 「どう?」

 いつも通りの涼しげな視線を寄越してくる基に、詩鶴は肩を落として力無く首を左右に振った。

 「眩しい。眩し過ぎて何も見えない。無理」

 「そうか。なら別の店に行こう。君の視覚が取り戻せる店に」

 基はあっさりそう言うと席を立って、店員に断りを入れに行った。


♢♢♢


 「うわぁ、勿体ない。私だったら狂喜乱舞で買って貰っちゃうけどなぁ」

 「乃絵ちゃんは絶対そう言うと思った」

 詩鶴の勤める幼稚園では、一クラスに二名の担任が就く。詩鶴と乃絵は、年中児たんぽぽ組のクラス担任だ。

 園児達が帰った後、受け持ちクラスの部屋の掃除や飾り付けをする時間は、手を動かしながらの雑談タイムである。

 「買ってくれるって言うんなら最高にいいやつ買って貰っちゃえばいいのに。一生にそんな何度もある事じゃないでしょ?結局どんなの買ったんですか?」

 詩鶴の左手を覗き込んだ乃絵は、あれ?と首を傾げる。

 「何にも着けてない」

 「うん…素敵なのはいっぱいあったんだけど、何か決められなくて。保留にしちゃったんだよね」

 「あーあ。勢いで決めないと延び延びになっちゃいますよー?」

 「自分でもそう思ったけど。でも決められなかったんだもん。そもそも結婚指輪って何で必要なの?とか考え始めちゃったりもして」

 「経済的に無理っていうならともかく、あって困るもんでもないでしょ?何でそんな優柔不断になっちゃってんですか、らしくもない。結婚自体は即決した癖に、普通は逆じゃないですか?」

 「……⁈確かに…!」

 乃絵に言われて、詩鶴ははっとする。

 指輪を買うとか買わないだとかそんな物質的な事より、結婚するしないの方がよっぽど人生に大きな影響がある。

 「私、そんな大事なこと、何であんなにあっさり決められたんだろ?」

 「今さら何言ってんですか」

 自分の両手を見つめて自省を始めた詩鶴の掌に、乃絵は厚紙で作ったクリスマスベルの飾りを置く。

 「まぁ大方、アレに乗せられたんでしょうけどね」

 「あれって?」

 「瀬尾先生の口車」

 以前会った時に目の当たりにした詩鶴と基の関係性を思い出したのか、乃絵は愉しげににやにや笑っている。

 「そ…そうなのかなぁ」

 「後悔してるんですか?指輪欲しがらないのも、そのせい?」

 核心に踏み込まれ、詩鶴の心臓がぎくりと大きく脈打った。

 「……や……」

 「詩鶴先生、乃絵先生ー!今ちょっといいですかー?」

 廊下から園長の大きな声が掛かって、二人の会話はそこで途切れた。



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