4・頤の雫、口に入らぬ(1)
正方形を、まず半分。
長方形になったそれを、もう半分。一度開いて、左右を三角に折って跡をつけてから、開く。中心線で片側を畳み、表裏対称になるように、裏側も同じように。
「そしたらここを引っ張り出して、こうやってこうやってパタパタ折っていけば…ほら、折り紙の星の出来上がり」
詩鶴は金紙で出来た星をひらひらと動かした。ぴかぴかの金の星が天井のライトを反射して、きらきらと光をまき散らす。
「ふぅん。上手いもんだな」
向かいの席でビール片手に眺めていた基は感心したように、完成した星をひとつ摘み上げた。
「一番簡単な作り方だよ。基さんもやってみる?」
「いや、やめとくよ。紙を無駄にしそうな気がする」
「基さん、案外不器用だもんね」
詩鶴にからかわれて、基はつまらなそうな顔をして黙って肩を竦めた。
普段通りの夕飯を終えた後。
「ちょっと仕事するね」
そう言って詩鶴がテーブルに並べたのは、金や銀の折り紙の束。
「十二月に入ったら、園の壁面をクリスマス仕様にするの。いつもは勤務時間中にやるんだけど、先月から一人欠員が出てて、バタバタしててやる暇なくて。残業するよりは、持って帰って家でのんびり作業したいなぁって」
「ふぅん。幼稚園教諭ってのは、随分と多才を求められる仕事だな。手工作に歌やピアノ、児童心理に安全管理…。虫や植物育てたりもするんだろ?」
「あはは、そうだね。でもこうやって座って出来る仕事は楽な方だよ。体力仕事も山程あるもん。一時間ぶっ通しで鬼ごっこの相手したり、十五キロの子を片手に一人ずつ、二人いっぺんに抱えるとかも、普通」
「正気か?立派なもんだよ。僕にはとても務められない」
「基さんの仕事こそ、そうでしょう。私だったら三回生まれ変わっても出来ないよ」
全方位作家などと呼ばれる基は、文学事情に詳しい詩鶴の父親の言葉を借りれば「文壇の寵児」だそうだ。誰にでも出来る仕事じゃない。それなのに基はいつも、詩鶴の仕事や家事労働に対して、確かな敬意を払ってくれる。普段からそうだ。真剣に、興味深そうに話を聞いてくれるし、ささやかな作業のひとつひとつをしっかり評価してくれる。それが詩鶴には嬉しかった。
「あ、そうだ。そういえば基さんって絵本にも詳しい?」
「絵本?そうだな。自分から好んで読むジャンルではないけど、仕事柄それなりに知識はあるよ」
「あのね、明日いつもより少し早く上がって、来年度新しく園の図書室に置く本を選びに行く予定なの。もし時間あったら一緒に本屋さん行って良さそうなの教えてくれない?」
「あぁ、いいよ。僕も明日は打ち合わせで昼過ぎに出るんだ。三時には終わるからどこかで待ってるよ。外で待ち合わせよう。車の方がいいかな」
「ううん、歩きで大丈夫。何人かで手分けして買うから私が買うのは五、六冊でいいの。そんなに重くならないと思う」
「わかった。…あぁ、そうだ。ついでに買いたい物もあるから、君の用事の後ちょっと付き合ってもらえるか?」
「うん。明日は金曜日だしね。たまにはゆっくりデ…」
詩鶴ははっとして、言葉を呑み込む。
「で?」
「…出掛けよう」
「そうだな。そのまま夕飯もどこかで食べて帰ろうか。君、昨日本格タイ料理が食べたいって言ってただろ。店を探しておくよ」
「う、うん」
詩鶴はこくこくと何度も頷いた。基は薄く笑って、テーブルに置いていた読みかけの本を手に取る。
デートしよう、という言葉が、自分の口から自然に転げ出そうになったことにびっくりした。ものすごくびっくりした。
だって、デートなんてものは、仲の良い恋人達や夫婦達がするものじゃないか。出産という目的の下に契っただけの詩鶴達には、縁遠いもののはず。
基が不審に思わなくて良かった。
ただの外出にデートなんて名前をつけたら、どんなふうに揶揄われるか、わかったものじゃない──。
基が待ち合わせに指定したのは、銀座にある都内でも有数の大型書店だった。七階建てのビルのフロア全てにずらりと本が陳列され、普段あまり本屋に立ち寄らない詩鶴は、その情報量に圧倒されてしまう。二階の一画にカフェが併設されているからそこで待ってる、と基から連絡を貰っていた。詩鶴がカフェの入口で視線を迷わせながら基を探していると、奥の席に普段は着けない縁の太い眼鏡を掛けている彼の姿を見つけた。
(あれ?誰だろう)
基のテーブルを二人の女性が囲んでいた。二人ともどこか高揚した様子で、基に向かって何やら話しかけている。
私、近付いていいのかな。詩鶴が躊躇っている内に、基がこちらに気付いた。詩鶴に向けて手招きをしてくる。女性達も、基の視線と仕草で詩鶴の存在に気付いた。慌てたように詩鶴に会釈をした後、基に深々と頭を下げて、早足で店から出て行った。
「……ナンパ?私、邪魔しちゃった?もうちょっと遅れてきた方がよかったかな」
向かいに着席しながら詩鶴が尋ねると、基は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何でだよ。ナンパだと思ったんならむしろ全力で邪魔してくれ。僕の本を読んでくれてるって人達に少し話し掛けられてただけだ」
「えっ。それは基さんのファンって事?」
「まぁ言い方を変えればそうだな」
「そんなのいるんだ…」
プロの作家を相手に失礼な言い草だが、基は特別気を悪くするでもなく、しらっとした顔をしている。
「有り難い事に多少はいるみたいだな。そうでもないと食っていけない商売だ」
ほわぁと間抜けな溜息を吐いて感心している詩鶴に、基は淡々とした口調のままメニューを差し出した。
「お疲れ。少し休んでから行こうか」
そう言って、手にしたメニューでぽんと詩鶴の頭を叩く。
こんなふうに、ごく身近な人として、ごく普通に接してくれるけれど。
もしかして基は、本来なら言葉を交わすことも易々とは叶わないような遠い世界の人なのかもしれない。
詩鶴はふと、寂しいような心許ないような、何とも言えない気持ちになった。
カフェに居たのは一杯のお茶を飲む間だけだ。けれどその短い時間に、基に声を掛けて来たファンは他にもう一人いた。今度はやたらと腰の低い、基と同じくらいの年頃の男性だった。
「僕、瀬尾先生の大ファンで、ご本人をお見掛けして興奮してつい思わずお声を掛けてしまいまして…プライベートのお時間にお邪魔して、申し訳ありません」
「お気になさらず。拙著にお目通し下さって有り難うございます」
四角四面ではあるが丁寧な謝意を基が返すと、その男性は基と詩鶴の二人に向けて何度も頭を下げながら、小太りの体をもそもそ揺すって立ち去って行った。
「なんか意外。ちゃんと丁寧な対応するんだね。ファンに声掛けられても鬱陶しがって邪険にしたりするのかと思ってた」
「彼らが僕の書いたものに金を出してくれるから僕はこうして空想ひとつで生活出来てる。邪険にする理由があるか?」
至極真っ当なことを言った後で、基はふと眉を寄せて苦笑いした。
「…とは言っても君の察する通り、実際こうして直接読者に対応するのはあまり得意じゃないし、正直疲れる。だからあんまりメディアに顔出しはしないようにしてるんだが、完全に露出しないのも難しいんだ。
本屋は場所柄、気付かれやすいんだよな。そろそろ行こうか。絵本のフロアは三階だよ」
うん、と詩鶴が頷くと、基は空になった紙コップを二つ持って、立ち上がった。
基のアドバイスのおかげで、購入する絵本はすぐに決まった。
「この仕事毎年あるんだけど、こんなに早く決められたの初めて。私あんまり詳しくないから、いつも何冊も立ち読みしながら決めてて、すごい時間かかっちゃってたの。助かったよ、ありがとう」
詩鶴は上機嫌だった。仕事で必要な本を他に何冊か買ったため思ったより荷物も重たくなったが、それも基が持ってくれているし、時間に余裕が出来た。
「そう。良かったよ」
基は短く答えて、少し笑った。エスカレーターで一階に降り、そのまま店を出ようとする。
「あ、ちょっと待って」
袖を引かれて、基は「ん?」と立ち止まって振り向いた。
「基さんの本が売ってるのって、このフロアだよね?」
文芸書のコーナーは一階の全フロアを占有している。そうだよ、と基は頷いた。
「私、基さんの小説読んでみたい。一冊買ってみようと思うんだけど、どれがおすすめ?」
詩鶴がそう尋ねると、基は少し面喰らったように軽く目を見開いた。あれ、と詩鶴は首を傾げる。何と言うか、微妙な表情だ。もしかして、身内には読まれたくないと思っていたりするんだろうか。
「…読んだら駄目?」
「いや、いいけど…わざわざ買わなくても一通り家にあるよ」
「ううん、自分で買って読みたいの。でもたくさんあって選べないから、私に合いそうな作品を教えて欲しい」
「……君に?」
物珍しい生き物を見るような顔をして、基はまじまじと詩鶴を見つめた。少しして、軽い溜息と同時に問い返す。
「…僕の書く物はジャンルがバラバラだから、難しいな。君はどういうのが好きなんだ?」
「うーん、普段読まないから自分でもよくわからないんだ。ジャンルは何でもいいから、これを読めば瀬尾基がわかるっていう一冊を読んでみたい。代表作的な」
「余計に難しい」
苦笑いしながらも、基は詩鶴の手を引いて店の中へ戻って行く。基は歩くのが速いから、それぞれのペースで歩くと詩鶴は少し無理して早足で歩かないといけない。だからこうして手を繋いで歩調を合わせてくれるのは、正直助かる。けれど基に触れられると、どことなくむず痒いような落ち着かないような気持ちにもなる。詩鶴はいつもそれを誤魔化す為に、一生懸命喋り続けてしまうのだ。つまらない、どうでもいい話を探してでも。
でも今は、無駄話したくなる衝動を喉の奥に押し込んで隠した。なんとなく、黙って手を引かれていたかった。
『瀬尾基』と書かれた仕切りの間に置かれた本は、せ行の棚の分量を多く占めていて、本当に人気作家なんだと、詩鶴は今さらながらに感心する。ずらりと並んだ背表紙の中から、基が一冊引き抜いて詩鶴に手渡す。
「どれかひとつを君にと言うなら」
基が詩鶴に手渡したのは、薄くも厚くもない文庫本。柔らかいタッチの抽象画のような表紙に目を惹かれた。夜の海に、淡い光を放って輪郭を滲ませた月が映っている。
「『よるの舳先が辿りつくところ』…」
基は懐かしむようにその本の表紙を撫でた。
「随分昔に書いたものだ。僕の三作目。十七歳の少年の一人称だから、地の文も平易で読みやすいと思う」
そうなんだ、と詩鶴は目を輝かせる。それなら、小説を読み慣れない自分でも楽しめるかもしれない。
「この作品が基さんのお気に入り?」
「わからない」
わからないという曖昧な答えを、基は驚くほどはっきりと口にした。
「世に出すものは全部、納得のいく状態には仕上げてる。気に入ってるってのが自信があるかどうかって意味なら、みんなお気に入りだよ。でも、この作品はわからない。だから君には読んで欲しくないような気もする」
「読んで欲しくないのに、渡すの?」
「読んで欲しいのも読んで欲しくないのも、これなんだ」
いつも涼しい顔をして口先三寸で詩鶴を丸め込み、本気も嘘も手練手管も見分けがつかない彼なのに。今も、わかるようでわからない事を言っているだけにも聞こえるのに。
「…珍しく素直だね」
それが嘘偽りない心からの言葉であることは、どうしてかわかった。とても慎重に扱わないといけないものを差し出されているような気持ちになった。詩鶴はそうっと、出来る限り丁寧に、その文庫本を受け取った。
「ありがとう。大事に読むね」
基は黙ったまま、柔らかく微笑んで頷いた。




