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3・三人寄れば文殊の知恵(2)

 お先に、と言いながら風呂から出てきた後の基の動きを、詩鶴は注視していた。

 冷蔵庫からペットボトルを取り出して水を飲み、椅子を引いて座るなり、読みかけの本を開く。

 (えっ、メッセージ見ないの?通知点滅してるよ?)

 メッセージを見た時の基の反応を確かめたかった詩鶴は、焦る。

 今すぐチェックするように誘導せねば。さりげなく、さりげなく…。

 「あの、基さん。さっきスマホの通知鳴ってたよ」

 全然さりげなくなかった。そのまんまだった。

 「そう」

 ハラハラしている詩鶴をよそに、基は特別不審がる様子もなくスマートフォンを手に取って開く。さらっとチェックすると、何やら文字を打ち込んだ。ピコンと送信完了の通知音が鳴る。すぐにパタンとテーブルに戻した。

 あまりになめらかな動作で、あまりに表情に変化がなさ過ぎて、何の手がかりも得られなかった。詩鶴はがっくりと肩を落とす。

 例の件って、どんな件?18日の19時に湯島駅で、待ち合わせて何するの?

 ねぇ、なんて返事をしたの?

 いくつもの問いが、頭の中でぐるぐる撹拌されていた。その内に妙案が思いついて、すぐに口にする。

 「…あの、基さん。来週の夜って出掛ける予定ある?空いてる日があったらごはん食べに行こうって、職場の子に誘われて…基さんが夕飯要らない日があれば、合わせたいと思うんだけど」

 その問いかけは、かろうじて鎌かけのていを為していた。詩鶴にしては上出来だったと思う。

 「あぁ。木曜日の夜は出掛けるから夕飯は要らない。でもわざわざ僕に合わせなくても、君の都合でいつでも出掛けていいよ。僕一人の食事くらいどうとでもなる」

 「木曜日…」

 一見理解ある夫の発言。

 でも──木曜日は、18日だ。やっぱり、奏美と何か約束をした?

 「──その日は、仕事?」

 「いや、知人と約束がある」

 知人。基はそう言った。

 嘘ではないだろう。けれど「君の友人と」とは、言わなかった。それに約束の内容も、話すつもりがないみたい。

 …どうして? 

 「どうした?何か変な顔してるな」

 テーブルの向こう側から、基は片眉を上げてじっと詩鶴を見つめる。

 「い…いや、それは元から」

 「そういうレベルの変じゃない」

 「え、えっと…どういうレベル?」

 まごつく詩鶴に基は呆れたような溜息を吐いてみせる。腕を伸ばしてテーブル越しに、詩鶴の額に手を当てた。

 「熱はないな」

 「う、うん」

 「疲れてる?」

 「う、うーん…ちょっと…?」

 「風呂は明日にして、もう寝た方がいいんじゃないか?寝室に行こう」

 「…ひっ…」

 「ひ?」

 「……一人で行く」

 詩鶴はがたんと音を立てて椅子から立ち上がり、足早にリビングを出た。だが基は当然のような顔で詩鶴の後を追ってくる。

 「なんでついてくるの。一人で行くってば」

 「僕の寝室でもあるんだぞ。今一人で行ったってどうせ後で合流する」

 もっともだ。基の言い分に、詩鶴は渋面で黙り込んだ。

 こんな時、世の中の夫婦はみんなどうしているんだろう。

 相手の言動に疑念を抱いて、不安が差して。でも上手く聞けなくて。一人で考えを纏めたいのに、一人になる場所がない時。そういう時、世の夫婦はどうしているのか。

 「…基さんは、どうしてた?前の結婚、してた時…」

 無意識にぽろりと口から転げ落ちた自分の言葉に、詩鶴ははっとした。

 聞く相手が間違っている。何でよりによって本人に。しかも、取り扱いに注意しなければいけない繊細な話題に触れてしまった。大体よく考えてみたら、前の結婚の時は別居婚だったと言っていたじゃないか。基も元妻もいくらでも一人になれていた筈だ。答えを聞いたところで参考にならない。詩鶴は自分のうっかり発言を悔いた。しかし基は平然とした顔で聞き返してくる。

 「前の結婚の時?何をどうしてたって?」

 「……何でもない……」

 寝室のドアの前で立ち竦み、詩鶴は俯いた。

 この部屋に入って、同じ布団に潜り込んで、隣り合わせで寝る。ようやく慣れてきていた筈のその日常的な行為に、今は初めての時と同じくらいの抵抗感があった。

 「何だよ。聞きたい事があったら聞けばいいだろう。つまらない遠慮なんてしなくていい。聞かれたら答える。大体嘘ついたり隠したりする程の事案なんてなかったしな」

 嘘ついたり、隠したり。元妻との間にさえ、そんな必要のあるものはなかったと言う。

 それなら奏美との間には、一体何があるというんだろう?何があって、奏美と会う事を隠すんだろう?

 「……やっぱり、お風呂入ってくる」

 詩鶴はするりと基の脇を擦り抜けて、急ぎ足で階段を降りていった。

 今度は基も、後を追っては来なかった。



 18日、19時。

 その日時を忘れられないまま──なのに何にも出来ないまま、その日を迎えてしまった。


 「そんなに気になるならはっきり聞いちゃえば良かったじゃん」

 赤や青、白、黄色。色とりどりのすずらんテープを束に纏めながら、同僚の戸高(とだか)和歌(わか)が言った。園児達の降園後、お遊戯に使うポンポンを職員数名で製作しているところだった。

 「聞けないよ…。そんなつもりじゃなかったとは言え、勝手にメッセージ見ちゃっただけでも気まずいのに」

 「その友達の方に探り入れてみるとかさ」

 「入れようとしたけど全然駄目だった。私、さりげなく探り入れるとかそういうの向いてないんだよ」

 メッセージを見てしまった翌日、奏美に電話してみた。

 奏美に電話を掛けるのにこんなに緊張した事はないというくらい勇気を出して掛けたのに、電話口から聞こえる奏美の声はいつも通りあっけらかんとしていた。

 「やっほー詩鶴。どしたの?」

 「あっ…えっと、昨日、カットありがとね。その、どうだった?基さんと、何か…」

 「あー、ね!結構いい感じに仕上がってたでしょ?いい旦那さんじゃん、仲良くやんなよー?また伸びたら切りに来てー。今飲み会中だから、またね!」

 あっさり通話を切られ、基に聞かれまいとわざわざバルコニーに出ていた詩鶴は、ぽつんと夜風の中に取り残された。

 「詩鶴先輩、幼稚園児こどもたちにもよく言い負かされてますしねぇ。言葉巧みに誘導尋問なんて無理ですよね」

 あははと笑うのは、職場の後輩、中野(なかの)乃絵(のえ)

 「言い負かされてはない。子供には手加減してるの」

 詩鶴は頬を膨らませながら、すずらんテープの束を中央でぎゅっと結んだ。

 「それでつまり、詩鶴が心配してるのは、二人が浮気しようとしてるかもしれないとか、そういうこと?」

 和歌が発した『浮気』という聞き捨てならない単語に、詩鶴はドキッとする。

 「…ど、どうなんだろ。二人が関わったのなんてカットの間のほんの一時間くらいだろうし…それでそんないきなり浮気しようなんて話になるとは、思えないけど…」

 「何生温(なまぬる)いこと言ってんですか。自分だってほんの数時間で結婚決めてきたじゃないですか」

 「あっ、確かに」

 和歌も乃絵も同僚であると同時に、プライベートでも親しい友人だ。詩鶴の婚約解消と結婚の経緯は全て知っている。

 「生き馬の目を抜く世知辛い世の中ですよ。一時間だろうが十五分だろが浮気する人はします」

 乃絵の言葉に妙に怨念がこもっているのは、彼女自身、つい先月彼氏の浮気が発覚して別れたばかりだからだろう。

 「いや、でも、二人とも自由奔放だったり非常識だったりするとこはあるけど、奏美は根は悪い子じゃないから友達の夫とどうこうするような事はないと思うし、基さんだって浮気するような素振りは…」

 言い掛けて、詩鶴は尻すぼみに言葉を切った。

 あの日の基はいつも通りに見えた。

 でもよく考えたら、何も特別な事がない日に三千円もする高級弁当を買ってきたりするだろうか。詩鶴ならまずしない。

 単なる金銭感覚の違いだと思っていたが、何かしらやましい事があるとしたら、その罪滅ぼしだと受け取れない事もない。

 何と言っても、詩鶴と基の間にはまだ体の関係がない。それも詩鶴が一方的に基を待たせている状況だ。

 基も男だ。手を伸ばせばすぐ届く距離に異性がいて、しかも妻で。一番近くにいる存在でありながら、でも手は出せない。そんな状況に、嫌気が差して憂さ晴らしに走ることも──

 「ないって言い切れます?」

 「───わかんない……」

 顔色を失った詩鶴をしばらく黙って見つめていた和歌が、ふぅんと思案げな溜息をついた後、口を開いた。

 「見に行ってみたら?」

 「え?」

 「待ち合わせの場所も時間もわかってるんでしょ?気になるんならこっそり見に行っちゃえばいいじゃん」

 「え、でも」

 「それだ!」

 戸惑う詩鶴をよそに、乃絵は勢いよく立ち上がってテーブルにボスっとポンポンを叩きつけた。

 「行きましょう先輩方!もし本当に浮気でもしてようものなら、三人でこてんぱんにやっつけてやらないと!」

 「こてんぱんって…えぇ?しかも三人で行くの?」

 「私は帰って猫と遊びたいんだけど…」

 勢いに押される詩鶴、渋る和歌。

 「何言ってんですか、三人寄れば文殊の知恵って言うでしょう。みんなで行きますよ。ほら、早く手ぇ動かして。さっさと作り終えて五時きっかりに上がりますよ!」

 乃絵だけが異様な使命感に燃えているが、これも私怨を重ねたゆえだろう。


 いいのか?

 それでいいのか?


 頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、詩鶴はひたすら、すずらんテープを細かく割く作業に没頭した。

 

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