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3・三人寄れば文殊の知恵(1)

 休日の朝、開店したばかりの美容室。

 朝の清掃を終えて間もないせいか、すっきりした清浄な空気がぴんと張り詰めていて心地いい。大きな鏡に映る詩鶴は、白いケープに首から下をくるまれている。耳のすぐ横で、しゃきんしゃきん、と鋏の動く音が忙しなく響いていた。

 「そんで、いい歳した男と女が何もしないで大人しく一緒のベッドで寝てんだ。何それ。うける」

 ハサミ片手にくっくっと笑う鏡の中の奏美かなみを、詩鶴は口をへの字に曲げて睨み付けた。

 「うけないよ。何もしないって言ったって、何だかんだちょいちょいちょっかい出してくるし…」

 「ちょっかいって何、どんな?そこもっと詳しく」

 「え、いや、それはちょっとここでは…」

 詩鶴はもごもごと口を曖昧に動かして言い淀んだ。そういえば奏美はこの手の下ネタが大好きだったなと、場所も考えず迂闊に話をした事を後悔する。

 シャキシャキと鋏を動かしながら期待に目を輝かせているのは、高校時代からの友人、高橋たかはし奏美かなみだ。気の置けない友達であると同時に、今では詩鶴の担当美容師でもある。光稀との事情も知っているし、基と結婚した経緯も先日食事に行った時に話した。常識や倫理観より波乱や破天荒を好む奏美は、勢いだけで人生の大きな選択をした詩鶴を、全肯定して面白がった。

 「いやぁ、でもまさか詩鶴が瀬尾基と結婚するなんてね。昨日までおっとり彼氏の光稀君と水族館デートしてたのが、突然一人でマグロ漁に出たと思ったらダイオウイカ釣って帰ってきたみたいな」

 「釣ったっていうか…うっかりクラーケン見つけちゃったら偶々《たまたま》行先同じだったから、成り行きで一緒に航海することになったって感じなんだけど」

 「うける」

 奏美はけたけた笑いながらも正確に鋏を動かし続ける。目の前ではらはらと、カットされた短い前髪が舞い散った。

 「すごい強運だと思うけどなぁ。私けっこう好きなんだよね、瀬尾基の小説。製作秘話とか聞いてみたい」

 「あーそっか。奏美、意外と本好きだもんね。ならちょうどいいや、私も頼みたかったんだ。来週平日の午後で空いてる時間あったら、基さんのカット予約出来ない?」

 「えっ、本人が御来店?」

 「うん。なんかね、髪がこう、もっさり長くて。いつも結んだりピンで留めたりしてるから、鬱陶しくないの?こだわりのスタイルなの?って聞いたら、面倒くさくてカット行ってないだけなんだって。予約してくれるなら行くって言うから、奏美が空いてたら」

 「おー、平日なら空きあるよ。後で予約表確認してみる。まだ続き出てないミステリー小説の犯人、教えてくれるかなぁ」

 「さすがにそれは無理じゃないかな…」

 はしゃぐ奏美に、詩鶴は苦笑いする。

 「…でもこうやって人に話すと、基さんは私が思ってたよりずっと凄い人なんだなって実感するよ。うちの両親に話した時もそうだったの。電話で結婚するって報告した時ね、最初お父さん、もっとよく考えた方がいいってお説教してきたの。なのに基さんの名前出した途端に黙っちゃって。一度連れて来てっていうから行ったら、お父さん涙目で喜んじゃって。結婚の話なんてオッケーオッケーみたいな感じで秒で終わって、あとはずっと基さんの作品のあの場面が良かったとかあのキャラがどうのこうのとかどんな本が好きかとかそんな話ばっかりで…」

 「あはっ。詩鶴のお父さん、昔作家目指してたんだっけ?」

 「そうそう。コンテストとか出したらしいけど全然引っ掛からなくて諦めたみたい。昔のSF名作の話と歴史小説の話と昭和の文豪の話で盛り上がってたよ」

 非読書家の詩鶴と母は蚊帳の外で、最終的には父親の書斎に場所を移して二人きりで文芸トークを繰り広げていた。結婚に反対など、されよう筈もない。

 「いいじゃん、順風満帆だね。詩鶴は光稀君の事でごっそりHP削られたんだからさ。そのくらいのご褒美、あってちょうどいいんだよ。それに美容院の予約代わりにしてあげちゃうくらいには、仲良くやってるんでしょ?」

 「…うん、まぁ、多分、そこそこ…?」

 「何だそりゃ。素直じゃないねぇ」

 ふふんと鼻で笑って、奏美は詩鶴のケープをさらりと剥ぎ取った。

 「実際いい感じじゃない?パートナーとして上手くやっていければ、恋愛的な意味で好きになれなくてもいいって前から言ってたじゃん。そこはクリアしてそうだなって、詩鶴の話聞いてたら思ったよ」

 「あぁ、そうかも」

 言われてみれば、そうかもしれない。

 基は一見ひねくれ者の気難し屋だけれど、こちらが意思を伝えれば、ちゃんと聞いてくれるし可能な範囲で歩み寄ってくれる。詩鶴の仕事や友達との外出などに口出ししたりもしないから、結婚前と生活スタイルを無理に変える必要もなかった。家事の手伝いは自分には無理だと諦めたようでやらなくなったがその代わり、金は出すからプロに頼めというスタンスで、詩鶴に負担を押し付ける事もない。

 一緒に暮らし始めて二ヶ月近く経つが、奏美の言う通り、生活する上で大きな不満が発生することは、今のところなかった。恵まれているとさえ感じる。

 「充分じゃん?」

 「……うん。そうかも?」


 なのにどうして。それだけで充分だと、素直に思えないんだろう?


 難しい顔をして黙り込んだ詩鶴の頬を、奏美がつんつんとつつく。

 「でもさ詩鶴。欲張りになるのは悪い事じゃないって、私は思うけどね」

 「欲張り…?え、どういう意味?わかんない…」

 奏美はにまにま意味深な笑みを浮かべている。

 「まぁそれはそれとして、せっかくだから詩鶴も瀬尾さんの本、読んでみたら?ちょっとは語彙力鍛えないと、またけむに巻かれちゃうよ」

 したり顔で笑う奏美に、「どうせ私は語彙が貧弱ですよ」と、詩鶴は拗ねてみせた。


 

 数日後、帰宅した詩鶴はリビングのドアを開けて「あっ」と声を上げた。

 「おかえり、詩鶴」

 ダイニングテーブルでビール片手に本を読んでいた基が、目を上げる。

 「ただいま!基さん、髪切ったんだ。そっか、今日は奏美の美容院、予約した日だったね」

 パタパタとスリッパを鳴らして近付いて、新しい髪型を点検するように前から後ろから眺め回す。

 顎の下まで伸びていた前髪は耳の辺りまでカットされ、襟足もすっきり短くなっていた。男の人にしては長めだけれど、切る前に比べたらかなりさっぱりしたと思う。基の髪は少し癖があるのだが、それが上手く活かされていて雰囲気のあるいい仕上がりになっていた。

 「うん、似合う似合う。さすが奏美」

 椅子の周りをくるくる回りながらにこにこ笑う詩鶴を、基は物珍しげに眺めた。

 「髪切ったくらいで随分楽しそうだな。こういうスタイルが好きなの?」

 「んー?好き嫌いで言ったらもっと短い方が好きだけど、基さんにはこのくらいが似合うんじゃないかな。前からさっぱりした方が絶対かっこいいのになって思ってたんだよね。やっぱりいいね」

 「そう」

 基はふっと小さく笑って、くるくる動き回る詩鶴の腕を引き、止めた。

 「わわっ」

 不意打ちで引き止められてよろめいた詩鶴は、咄嗟に両手で基の肩を掴んで、転びかけた体を支える。

 「君も昔は髪短かったんだな」

 うなじでひとつに束ねた詩鶴の長い髪を、基はするりと一束、手に取った。

 「み…短かったのなんてすごい前だよ。高校生くらいの時…あっ、もしかして奏美に聞いた?」

 「聞いたんじゃなくて、見せてもらった。高校時代の写真」

 「えぇ…やだなぁ、どの写真だろ。奏美め…」

 「あまり変わってなかったな」

 「そんなわけない。あの頃なんて完全すっぴんのやんちゃな小猿で…」

 「ほら、変わってないだろ」

 「失礼な」

 「なかなか良かったよ。生命力に溢れてた」

 「どういう意味…」

 じとっと睨むと、基はまた軽く笑った。掴まれた尻尾のような髪が基の手から解放された後、体勢を整えて基の向かいに座る。

 「まぁいいや。奏美、喜んでたでしょう?基さんの小説好きだって言ってたんだよ、制作裏話とか聞きたいって。教えてあげた?」

 「いや。読んでくれてるとは聞いたけど、あんまり仕事の話は出なかったな」

 「そうなの?意外。奏美、すごい喰い付くと思ってたんだけどなぁ」

 「でもまぁ有意義な時間ではあった」

 「有意義?どういう感想?」

 身内の友人に会った感想としてはいまいちしっくり来ない。首を傾げた詩鶴に、基は含みのある笑いを見せる。

 「例えば、君の機嫌を取りたい時はコレを買うといいと教えてくれたりとかだな」

 基は空いている椅子の上に無造作に置いていた百貨店の紙袋を指さす。詩鶴は何だろうと、ガサガサと紙袋を漁った。

 「あっ…これは、黒牛亭のローストビーフ&ステーキ弁当…!夕飯買っといたってメッセージくれたの、これだったの?」

 「僕も食べてみたかったからさ」

 それは、一口食べると涙目になるほど美味な、高級料亭の高級弁当だった。一人前三千円以上するので普段はとても手が出せない。人生で一度きり、友人が誕生日プレゼントに買ってくれたものを食べたきりだ。

 こういうものを何でもない時にポンと買ってくるところに収入格差を感じるが、そんな卑屈な感情は目の前の食欲にあっさりと打ち消されてしまう。

 「早速いただこう!お味噌汁は作ろうかな。基さんもいる?」

 「うん。手間じゃなければ」

 「大丈夫、お出汁は作り置きしてあるの」

 詩鶴は浮足立ってキッチンに向かっていく。

 

 うん。やっぱりこれで充分なのかもしれない。

 まだ形だけの夫婦かもしれないけれど、でも、基は優しい。ちゃんと詩鶴の事を気遣ってくれている。

 順風満帆、そうかもしれない。

 このまま日々を積み重ねていけば、きっと、いつかは──…


 そう思った矢先。


 食事を終えて少し経ち、基が先に風呂に入ると席を立つ。詩鶴は一人、リビングでお茶を飲みながらTVを観て、風呂の順番待ちをしていた。


 ぽろん。


 メッセージを受信する音が鳴って、詩鶴は反射的に音のした方へ目をる。音の出所は、テーブルの上に無造作に置かれた基のスマートフォンだ。

 そこに表示された送信元のアイコンが、詩鶴の目に、ふと引っ掛かった。

 「ん?」

 可愛らしくデフォルメされたツチノコのイラスト。見覚えのあるアイコンだ。その下に、メッセージの初めの数行が表示されている。

 【今日はありがとうございました。とても楽しかったです。例の件ですが待ち合わせは18日の19時湯島駅A1出口で…】

 アイコンの横には送信者のユーザー名が表示されていた。

 【kanami.t】

 間違いなく、今日基が会った筈の詩鶴の友人、高橋奏美からのメッセージだった。

「…んんん…⁈」

 詩鶴は食いいるように画面を見つめたが、数秒後、暗転してふっと消えてしまった。

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